第8回大会報告 パネル2

パネル2:ディスプレイという意識――表現の場の概念をめぐって|報告:大久保遼

2013年6月29日(土)16:00-18:00
関西大学千里山キャンパス第1学舎1号館 A502教室

パネル2:ディスプレイという意識――表現の場の概念をめぐって

展覧会という作品――「Fluorescent Chrysanthemum」展のディスプレイ
馬定延(東京藝術大学)

「サイケデリック・ショー」――アンダーグラウンドの映像ディスプレイ
ジュリアン・ロス(英国リーズ大学/明治学院大学)

対話するビデオ――「ビデオコミュニケーション/Do It Yourself Kit」展と日本の映像表現
齋藤理恵(早稲田大学)

【コメンテーター】松井茂(東京藝術大学)
【司会】齋藤理恵(早稲田大学)

パネル2の各報告において論じられたのは、1970年の日本万国博覧会の前後に出現した多様でインターメディアルな表現の場の可能性であり、その可能性にアプローチするための概念としての「ディスプレイ」の有効性であった。しかしながら、発表の冒頭においても述べられたように、各報告ではあらかじめ「ディスプレイ」に統一された定義をあたえず、むしろそれぞれのズレと共鳴のなかにこそ、この概念の持つ広がりを見出していくことが目指されたといえるだろう。

まず馬定延氏による報告では、1968年12月から1969年1月にかけてロンドンのICA(Institute of Contemporary Arts)において開催された「Flourescent Chrysanthemum(蛍光菊)」展が「ディスプレイ」の観点から分析された。馬氏によれば、この展覧会は個々の作品よりも、むしろ展覧会自体が一つの作品として評価され、ディスプレイの方法そのものが美的パフォーマンス、美的体験として受容された、当時ではめずらしいケースであったという。またこの展覧会は、大会シンポジウムのテーマであった「ポストメディウム的状況」とも呼応するものであった。これまで現代美術とメディア・アートの歴史はそれぞれ別の歴史であるかのように語られるか、後者が前者のなかのきわめてマイナーな系譜として扱われる傾向があった。しかしながら「蛍光菊」展の事例が示すのは、現代美術とメディア・アートのあいだに60年代から活発な人的交流があったことである。また展示においても、インタラクティヴ性のある展示設計、アートとデザインの区別の無効化、フィルムやCGアニメーションの導入など、両者の境界を横断するような展示がなされていた。馬氏によれば、この展覧会はメディア・アートと現代美術のつながりを明らかにし、そして両者を社会的な広がりのなかで位置づけ直すことを可能にする特権的な対象なのである。なお本報告は、展覧会のチケットからエントランス、展示室、作品の写真や図面、映像が多数紹介され、過去の展示を追体験できるような構成がなされており、それ自体がディスプレイとして機能していたともいえよう。

続くジュリアン・ロス氏の報告は、1970年代のゴーゴースナックやディスコテックで行われた「サイケデリック・ショー」を「ディスプレイ」概念を通じて分析するものであった。ジュリアン氏によれば、街とデパートの境界としての「(ウィンドー)ディスプレイ」は戦後日本で日常的に使われていた言葉であったが、1960年代から現代美術の用語として使用されはじめるようになる。当時の文脈において「ディスプレイ」は、たとえば芸術と産業の「中間地域」、あるいはさまざまなジャンルの結節点でありそれらを綜合する場、さらには「いつまでも続く対話」を構成し、コミュニケーションを作り出す空間、といった複合的な意味を担わされた概念となった。こうしたディスプレイの可能性を、博覧会や現代美術にではなく、サイケデリック・ショーのなかに見出したところに、本報告の独自性があるといえるだろう。なかでも特筆すべきは銀座の「キラージョーズ」において行われたサイケデリック・ショーの空間構成である。そこでは20台のスライドとオーバーヘッドプロジェクターにより360度の壁面に映像が投影され、インテリアや空間が状況に反応して動くシステムが開発された。こうした現代美術的であり同時に産業的なディスプレイにおいて、観客は環境とインタラクションすることで、固定されたコミュニケーションから解放され、状況を自由に選択し、自ら構成していくとされる。ジュリアン氏は、「いつまでも続く対話の構成」は、こうしたサイケデリック・ショーの空間でこそ追及されたのではないかと結論づけた。

最後に齋藤理恵氏の報告は、ビデオ・アートの歴史から「ディスプレイ」の問題をあらためて照射するものであった。あくまで作り手が映像をチェックするための装置であったモニターが、見るための装置であり見せるための装置、すなわちモニターでありディスプレイとなった転機を、齋藤氏はナムジュン・パイクの「エレクトリック・テレビジョン」展に見出す。こうしたディスプレイとしての映像の可能性がより先鋭的なかたちで追及されたのが、1970年の万博における「せんい館」のマルチ・スクリーンであり、その後1972年にソニービルで開催された「ビデオ・コミュニケーション」展であったという。しかし前者が産業と芸術の狭間にある表現の可能性を探る試みであったのに対し、後者は映像による「コミュニケーション」を志向していた点で異なっていた。とくに後者をきっかけに結成された「ビデオひろば」は、ビデオによる住民参加や市民運動の可能性、カウンターカルチャー、オルタナティヴなメディアとしてのビデオの方向性を追及していた。つまり、単なるモニターが表現のためのディスプレイとなり、それが万博における映像表現とその反省を経て、よりインタラクティヴで社会的なコミュニケーションとなっていった、そのようにビデオ・アートの歴史を「ディスプレイ」の観点から捉え直すことができるのである。最後に齋藤氏は、監視装置としてのモニターが生活に浸透している状況に触れながら、現代美術の諸問題を「ディスプレイ」の観点から新たに位置づけていく必要があることを指摘した。

以上の報告を受けて提起された松井茂氏によるコメントは、多様な論点を散りばめながら、それぞれの報告の背景にある共通のコンテクストの所在を明らかにしていくものであった。1960年代から東野芳明によって「虚像の時代」という言葉が流行したように、マスメディアの影響力の拡大が問題視されていた。こうした戦後日本の文化状況は「ディスプレイ」の問題とどのように関わっているのか。また当時、社会学者たちがテレビに対する批判を繰り返しており、映像に対するメディア・リテラシー的な意識がすでに広く存在した。その意識を先鋭化させていった人々がメディア・アートに向かったと捉えられるのではないか。あるいは1966年に開催された「空間から環境へ」展や環境芸術の動向と「蛍光菊」展のあいだに関連はあったのか、「サイケデリック」は単にアメリカからの輸入なのか、それとも自生的な背景があったのかどうか、「観客に参加を求めるディスプレイ」という発想において、万博もその後のメディア・アートの表現もそう大きく変わってはいないのではないか――。続く質疑応答も含めて、議論はきわめて広範にわたり、必ずしも発表の枠内で明確な着地点が見出されたわけではない。しかしながらこうした議論の広がりこそが、「ディスプレイ」という概念の持つ射程と可能性を、あらためて浮き彫りにするものであったといえよう。

大久保遼(早稲田大学)

【パネル概要】

日本の高度経済成長期が熟成される1960年代後半頃、芸術家は新たな表現の可能性を多様な場で試みていた。その集大成として挙げられる1970年の日本万国博覧会の前後、環境を創造する装置としての「ディスプレイ」に関する注目が高まっていた。インテリアやデザインを中心とする産業界からの戦略的なアプローチと同時に、当時の新しいテクノロジーが内包するコミュニケーション・ツールとしての性質に着目し、インタラクティブな展開を希求する芸術家が領域を横断する活動を展開した。

本パネルでは、日本万国博覧会が従来の百貨店や見本市の性質を統合し、また超克するなかで産業としてのディスプレイが確立していく一方、そうした動きと同調や反発し合いしながらも萌芽した芸術表現やそれに伴う活動があったことに焦点をあてる。

特に、1968年から1969年にかけて、ロンドンのICAで行われた日本現代芸術展がディスプレイの新たな方向性を位置付けるものであったこと、また万博という表舞台とは別に、アンダーグラウンドな場にて試みられたエンターテインメントと融合するディスプレイを用いたパフォーマンス、そして、万博以降、1970年代の社会状況との連関から創造の場の概念を拡張していったビデオ・アートの活動といった事例を挙げながら、概念としてのディスプレイを検討しつつ、ディスプレイが単なる空間の演出から、環境そのものを捉える可能性を内包していたことを複合的に論じていきたい。(パネル構成:齋藤理恵)

【発表概要】

展覧会という作品――「Fluorescent Chrysanthemum」展のディスプレイ
馬定延(東京藝術大学)

1968年12月7日から1969年1月26日まで、ロンドンのICA(Institute of Contemporary Arts)にて開かれた、「Fluorescent Chrysanthemum(蛍光菊)」展は、ヨーロッパ初の総合的な日本現代芸術展だった。本展は、1967年、第9回東京ビエンナーレと第4回長岡現代美術館賞展の審査委員として2回来日したヤシャ・ライハートの企画、針生一郎、中原佑介、東野芳明、秋山邦晴、原弘と杉浦康平による人選、そして東京画廊と南画廊の経費負担によって実現された。

同展は、ミニチュア、グラフィック、ポスター、彫刻、フィルム、音楽で構成され、絵画が不在であった点、アートとデザインの境界がほとんど目立たなかった点、それぞれの表現がいわゆるジャポニスム的な要素の代わりに国際的同時代性に満ちていた点などが話題となった。とりわけもっとも好評だったのは、個別の作品よりも、杉浦康平の担当した会場ディスプレイ・デザインだった。「Fluorescent Chrysanthemum」展は、ディスプレイの重要性と新しい方向を考えさせた、それ自体ひとつの作品である展覧会だったのである。

本発表では、約半世紀前の極めてユニークな展覧会の例を取り上げ、1970年日本万国博覧会直前、新進作家たちの活発な海外進出の中、国際的に注目を浴びていた日本現代芸術におけるディスプレイへの意識の一断面を検証することを試みる。

「サイケデリック・ショー」――アンダーグラウンドの映像ディスプレイ
ジュリアン・ロス(英国リーズ大学/明治学院大学)

万国博覧会前後の日本での映像活動はスクリーンという舞台の中で描かれる物語より、映像の「ディスプレイ」そのものが主役となる傾向が指摘出来る。テレビの一般的な普及も含めて、映画館の外での映像体験が求められるようになっていた。こうした状況の中で1960年代後半に注目を浴びたのは「エキスパンデッド・シネマ」と名付けられた映像を使ったパフォーマンスが一方に、そしてもう一方に映像による環境の創造としての「ディスプレイ」が挙げられる。モントリオール万博やEATなどの海外の事例と同様、その多くは産業との繋がりが強かったため批判の対象ともなったが、今では代表的な扱いをされている。

本発表では以上のような活動とは思想的に共通する面もありつつ、産業とは独立して行われていた映像の「ディスプレイ」の一例として挙げられる「サイケデリック・ ショー」について検討する。幻覚芸術とも名付けられた「サイケデリック」とは映像作家の金坂健二がアメリカから持ち帰ってひろめた現象であり、アンダーグラウンドのディスコで激しい音楽とともに映写機を使ったパフォーマンスを示す。ディスコの個性的な空間、そしてエンターテインメントの場であるからこその観客の独特な受容性も含めて、「サイケデリック・ショー」に関わった人物が映像ディスプレイにどのような可能性を求めたかを追求する。

対話するビデオ――「ビデオコミュニケーション/Do It Yourself Kit」展と日本の映像表現
齋藤理恵(早稲田大学)

1970年の日本万国博覧会で確立した総合演出事業としてのディスプレイ業は、現在に至るまで美術館や博物館、見本市など様々な企画を支えるとともに、都市や街など多様な空間を変化させる役割を担っている。しかしながら、公共の場が新たに設計され、また再構築され続けることは、本来の空間が持っていた固有性を消去し、画一的な消費社会を形成する問題も抱えている。これは、現代美術や最新のテクノロジーを積極的にディスプレイとして取り入れながらも、芸術そのものすら加速度的に消費していく今日の社会状況を反映しているといえるだろう。

本発表では、こうしたディスプレイと産業との課題を踏まえた上で、日本の初期ビデオ・アートの活動のなかでどのような実験が行われていたかを検討する。とりわけ、1972年に銀座ソニービルにて開催された、ビデオという新しいメディアのショーケースの場でもあった「ビデオコミュニケーション/ DO IT YOURSELF kit」展にて、作家たちが企業と連携しつつも、ディスプレイという概念を問い直そうとした試みに着目する。その上で、ビデオがもつ社会的なコミュニケーション装置という性質を活かしたその後の作家たちによるアクションが、1970年代の日本の社会事象に呼応しながら公共空間におけるインタラクティブな活動を展開した様相を明らかにする。