トピックス 4

シンポジウム《フランス哲学と「科学」の思考》



第5回表象文化論学会(2010年7月)において企画された研究会「表象文化論としてのエピステモロジー/エピステモロジーとしての表象文化論」のいわば「続編」として、2011年11月20日(日)、シンポジウム《フランス哲学と「科学」の思考:構造主義・数学・医学・エピステモロジー》が青山学院大学青山キャンパスで開催された(青山学院大学文学部フランス文学科主催)。前回企画と同じ松岡新一郎(国立音楽大学)、田中祐理子(京都大学)、阿部崇(青山学院大学)というメンバーに、前田晃一(東京大学UTCP共同研究員)が加わった。

まず阿部が《哲学の思考と科学の思考》と題して前回の研究会の内容を振り返りつつ、フーコーがかつて指摘した、戦後フランス思想における「主体の哲学」と「概念の哲学」という二つの潮流の存在を想起し、エピステモロジーを代表とする「科学的な思考」がその「概念の哲学」を可能にしたのではないかと指摘した。次いで田中は、《「非人間的」な身体の思考:フランス医学の変転について》と題して、フーコーとカンギレムがそれぞれの医学史的記述において、18世紀末から19世紀末にかけての医学の変転をどう記述したかを論じ、そこでのビシャの位置づけを通じたさまざまな(複数の)エピステモロジー的記述の可能性を指摘し、カンギレムの限界と可能性とをともに示唆する発表を行った。前田は、《ミシェル・フーコーの「絵画」「エピステモロジー」をめぐって》と題し、フーコーが自身にとってのエピステモロジーの定義を試みた『知の考古学』執筆と同時に絵画論や文学論の執筆をやめたことを指摘し、『言葉と物』におけるベラスケス『侍女たち』論から未完に終わった『マネ論』へと至る「絵画論」の変遷を辿るなかで、フーコーにおける「エピステモロジー」を、エピステーメーを照らし出す光、「可視性」についての分析と考えることはできないか、という仮説を提示した。最後に松岡が、《数学と構造主義》と題して、数学における「構造」についてのブルバキ的構造主義とヒルベルト的功利主義の立場を紹介し、ブルバキの集合論の特色とその限界を指摘した上で、ブルバキから出発しつつ対立することになったグロタンディークのカテゴリー論などを挙げ、構造主義の思考がどのように変形しつつ継承されているかを紹介した。

今回のシンポジウムは、もとより何らかの結論や議論の方向性を獲得することを目指したものではないが、実際、さまざまな論点からの多様な議論を通じてさまざまな論点の洗い出しが行われ、今後の研究に向けての刺激となりそうな主題が多く検討された。とりわけ重要だと思われたのは、会場の金森修氏から発せられた「《概念の哲学》というものが問題にしている《概念》とはそもそも何なのか。どのような領域において、どのようなレヴェルにおいて確定されうるものなのか」という問いに象徴されるように、ひとくちに「科学的思考」と言っても、それぞれの用語に内包されている意味や用法が専門領域ごとにバラバラである、という点である。「構造」や「概念」という語が研究や思考の鍵概念として用いられても、それらは論者ごとに違った意味を付与されていることが多い。私見では、そうした用語に統一的な定義や用法を与えようと努力するよりも、各自が自らの専門領域でそれらの語にどのような意味を付与できるかを自覚的に問題化し、その考察が他の専門領域にどのように接続しうるかを考えていくべきではあるまいか。

主に文系の研究者たちがどのように「科学」にアプローチできるかという、いささか実験的な(無謀な?)内容の会ではあったが、熱心な聴衆とともにさまざまな議論への端緒をつかむことができたようだ。今後も、知的な悦びと笑いに満ちた同様の会を継続的に開催できればと思う。

阿部崇(青山学院大学)

第6回神戸大学芸術学研究会:研究フォーラム
「脳/美学――脳科学のイメージ(論)」



会場:神戸大学
2011年11月19日(土)

【司会】秋吉康晴(神戸大学)
第一部:脳=イメージの認識論
「脳画像の認識論-脳画像を用いた認知研究の落とし穴-」
井上研(科学哲学/名古屋大学)
「脳・メディア・芸術」
岩城晃久(美学/関西学院大学大学院)&真下武久(メディアアーティスト/成安造形大学)
 
第二部:脳/美学の系譜学
「原始の心―認知考古学的アプローチの諸問題―」
唄邦弘(美学/神戸大学大学院)
「神経美学の批判的系譜学」
門林岳史(表象文化論/関西大学)

・参考URL:http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-theory/event2011.html#brainaesthetics


デカルトによって提示された心身問題は、1990年以降、脳科学によってひとつの回答を得ようとしている。fMRIやPETなどの脳機能イメージングのめざましい進歩により、脳科学は、脳を介して認知や言語といった人間の心のメカニズムを認識することができると考えられるようになったのである。脳機能イメージングは、そうした脳=データを視覚化したものであり、脳の理解はそのイメージに基づいて行われている。またそれらの研究の成果に基づいて、脳内で生じる事象から芸術を解明しようとする科学的アプローチも試みられている。

しかし、こうした人間の身体と心をつなぐ結節点として脳が特定の心の状態を示すことができたとしても、現段階ではすべての個人の心のプロセスにそれを適応することはではないだろう。こうした問題提起のもと、美学はいかに現在の脳=心の問題にアプローチすることができるのかを探ることがこの研究会の目的である。

本研究会では、二つのテーマに基づいて報告を行った。第一部「脳=イメージの認識論」では以下の発表が行われた。

まず井上研氏(名古屋大学)による「脳画像の認識論-脳画像を用いた認知研究の落とし穴-」では、科学哲学という立場から、脳機能イメージングとそこでの脳機能の解釈に関わる様々な要因の批判的考察が行われた。1990年第以降fMRIに代表される脳機能イメージングは、新しい画像技術の発展により、人間の認知プロセスを明らかにすることが可能になったと考えられている。それに対して井上氏は、何らかの認知プロセスによって生じる脳内の変化を可視化する役割が脳機能イメージングであるにもかかわらず、ともすれば、脳部位の変化のイメージ化が特定の人間の認知機能に対応するという逆向きの推論に陥る危険性を指摘する。とりわけ、それが美的判断のような抽象的な心的現象を対象とする場合、より顕著なものになるといえよう。

これに続いて岩城晃久(関西学院大学大学院)と真下武久(成安造形大学)による合同発表、「脳・メディア・芸術」が行われた。彼らは、MBIやBCIなどのテクノロジーを通じて、人間と機械との新たな関係が生み出されるとき、脳と心はどのような新たな関係を切り結ぶことができるのかを医療や芸術実践のなかで問う。真下氏は自身も参加したSZのプロジェクト《光・音・脳》というインタラクティヴ作品の報告を行った(京都国立近代美術館Trouble in Paradise/「生存のエシックス」展、平成22年7月9日-8月22日)でのプロジェクト、担当:森 公一)。この作品は京都大学理学部の協力のもと、fNIRSを用いて光と音の変化によって脳の血流状態を測定し、被験者/鑑賞者の快・不快の情動をインタラクティヴに引き起こそうとする試みであった。二人の報告において個々人の心の状態が一般的な脳の状態にどのように対応するのかを共通の問題としていることは興味深かった。

第二部「脳/美学の系譜学」では認知考古学と神経美学/神経系美術史というふたつの言説のなかで、脳科学が孕む諸問題に対して系譜学的なアプローチが行われた。 まず唄邦弘(神戸大学)による「原始の心―認知考古学的アプローチの諸問題―」の発表では、19世紀後半に始まった先史学において、脳機能の解明がどのように人類の「心」の起源の解明に利用されたのかを明らかにする。とりわけ、 先史時代の人々の心に注目する近年の認知考古学において前提となっている脳の発達段階と心の発達とのパラレルな関係についての批判的考察が行われた。

最後の門林岳史氏(関西大学)による「神経美学の批判的系譜学」の発表は、神経美学/神経系美術史の言説において、「美」というカテゴリーがどのように位置づけられているのかを系譜学的に考察した。セミール・ゼキやジョン・オナイアンズに代表される近年の神経美学/神経系美術史は、たしかに脳科学の観点から芸術を定義する新たな試みであるといえる。だが実際、彼らの議論において、美や美的経験は、脳画像によって観察可能な快・不快の感情へと置き換えられてしまってるという。さらに門林氏はこうした美を巡る概念の揺れは、現代の脳科学特有の問題ではなく、19世紀の心理学者G・Th・フェヒナーの実験美学によってすでに問題となっていたことを指摘する。フェヒナーは、従来の超越論的な美の観念を主張する「上からの美学」に対して、快と不快という経験主義的な次元からの「下からの美学」によって実証的に美/快を議論することを目論んでいた。この美を巡る実証主義的系譜は、ともに美なしに美を定義しようとする意味において、共通の意識をもっていた。そして、最後にこうした美という観念に関わる系譜学を通じて、美的経験を外部から観察可能な脳の機能ないし現象に還元しようとする自然科学と、「美」そのものの定義を回避し続けている人文科学との新たな関係性が提示された。

以上の発表のあと、フロアを交えてのディスカッションが行われた。とりわけ印象に残ったのは、脳科学によって、美のような心的現象のメカニズムまでもが認知可能なものになったとき、美や美的経験はどのように位置づけられるのか、また芸術を生み出すアーティスト自身は美をどのように扱っているのか、という門林氏の問題提起である。実際、脳科学者たちが語る「美の感情」が、たんに快/不快の感情でしかなく、美しいと感じているときの心の状態を説明しているわけではない。また彼らが取りあげる芸術作品は、これまでの美術史のなかで「芸術」としてすでに認められてきた近代以前の芸術に限定されている。こうした芸術に対する脳科学的アプローチは、たとえば真下氏のような芸術、さらにはモダニズム以降の芸術について語ることができるのだろうか。それに対する真下氏の回答は、非常に慎重なものだったといえよう。仮に美があるとするなら鑑賞者それぞれによって感じられるものであり、決して作品のなかに確固とした「美」が存在するわけではないという。むしろ重要なのは美とは決してひとつの概念ではなく、作品を前にして鑑賞者自身が感じる心の状態であり、今回解説を行ったfNIRSを用いた作品《光・音・脳》では、そうした個人の人間の内部の感情を意識させるものだった。その意味において、「美しい」という美的感情と「心地よい」という快感情は同じ次元にあると言える。

以上のようなディスカッションのなかで明らかになったのは、美学と脳科学、さらには人文科学と自然科学との表裏一体の関係である。たしかに芸術に対する脳科学的アプローチは、近代以前の確固たる美の理念を想定し、美の経験を脳の快感情と結びつけようとしているということができる。しかし、20世紀以降、美学自体も美について語ることが困難になったという実情も忘れてはならない。たとえばシュルレアリズムの「痙攣的な美」は、従来の美の定義を越えたものであり、脳科学と同じように、美学も未だそれについて明確な答えを見いだしていない。こうした二つの学問に共通する問題意識を探ることができたことは、今回の研究会の一定の成果だったといえよう。

唄邦弘(神戸大学)