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国際シンポジウム「現代日本のメディア文化——カタストロフィとメディア」
今世紀は、世界中の人々がリアルタイム・メディアを通して同時に目の当たりにした9.11のアメリカ同時多発テロに端を発す、テロリズムと戦争の世紀として始まった。他方で、サブプライム・ローン問題からリーマン・ショックを経て、現在のユーロ危機にいたるまで、経済と金融の世界的な破局が日々報道され、その深刻さは増すばかりだ。そればかりではない。世界中の様々な国や地域が、地球温暖化を背景とした異常気象、洪水や干ばつ、暴風雨、そして巨大地震の大災害に短期間に集中にして見舞われている。そして、3.11の東日本大震災、津波と原発事故——私たちはカタストロフィの世紀のただなかにいる。
では、この破局化してゆく世界を前に、突如として襲いかかる急激な変化の経験のなかで、この「危機(crisis)」を「批判的(critical)」に思考しうることはできるのだろうか。世界の安定性や物事の必然性を求める思想の無力さが露呈した今、しかし危機をめぐる言説を積み上げるだけの思考停止に陥らずに、カタストロフィという大変化を動的に思考しうる「知」を紡ぎ出す実践をしていくことは可能だろうか。
その思考の在り方の可能性を探っていくことが、私たちの思想の今日的な課題のひとつにほかならない。このような認識のもと、石田英敬氏(記号論・メディア論)の呼びかけで、ベルナール・スティグレール氏(哲学)、藤幡正樹氏(メディアアーティスト)、吉見俊哉氏(社会学・文化研究)、諏訪敦彦氏(映画監督)、ロバン・ルヌッチ氏(俳優)が集い、国際シンポジウム「現代日本のメディア文化——カタストロフィとメディア」が、フランス・リヨンのヴィラ・ジレ(Villa Gillet)にて開催された ※1 。
カタストロフィの時代は、運命や偶然性や出来事をめぐる様々な問いを私たちに投げかけ、新たな文化のエコロジーを要請している。とくに、カタストロフィと表象をめぐるメディアの問いは、極めて重要なテーマとして浮上している。6時間以上に及んだこの国際シンポジウムでは、3.11以後の日本とフランスのコンテクストから、技術・芸術・文化の在り方の考察を多角的に試みることで、カタストロフィとメディアを具体的に思考するためのきっかけを探求するものであった。
石田英敬氏[写真1]は、世界各国に広く流通して消費される現代日本のメディア文化——アニメ、マンガ、ヴォーカロイド、広告などの「クール・ジャパン」——の背景にある、カタストロフィの経験、原子力や核による破壊のイメージを浮かび上がらせた。そして、それらが黙示録以後の世界を描き出し、カタストロフィによって「ありえたかもしれない過去」と「ありえるかもしれない未来」を表象していることを指摘した。また同時に、「現在」のメディアであるテレビが、日常的・社会的なダイクシス機能を喪失していくさまを、震災報道番組の分析から明らかにした。さらに、石田氏は、ソーシャル・メディアとしてのケータイと位牌の相似関係に言及しつつ、津波が押し寄せた場所の地名と神社の配置関係などについて豊富な例を挙げながら解説した。そして、メディア文化に描かれてきた日本の地理的・歴史的・宗教的状況とカタストロフィの記憶の関係を「無常」をキーワードに読み解き、考古学的方法によるメディア分析の必要性を説いた。
ベルナール・スティグレール氏[写真2]は、独自に展開している技術哲学と現象学に拠りながら、現代世界における精神や環境の危機とカタストロフィについて詳細に報告した。スティグレール氏は、シモンドンやジルの議論を踏まえて、文字から複製技術まで様々なテクノロジーによって重層的に決定される意識(過去把持)や記憶の構造の分析を軽やかに行った。そして、それらのテクノロジーが毒でもあり薬でもある「ファルマコン」であって、21世紀の今日、それが毒として機能していることを、原発事故やテレビ視聴などの問題と関連づけて指摘した。さらに、スティグレール氏は、政治や経済など私たちが直面しているアクチュアルな課題を次々に紹介しながら、ファルマコンとしてのテクノロジーを批判するための教育の重要性と大学の課題について論じた。この議論に続いて、スティグレール氏が中心的に展開している「ARS INDUSTRIALIS」のメンバーであるロバン・ルヌッチ氏[写真3]が、俳優としての立場から、演劇製作ワークショップの経験を通して見出した、アマトラ(愛好者)による文化実践の必要性などを訴えた。
藤幡正樹氏[写真4]は、《Landing Home in Geneva》(2005)や《Morel’s Panorama》(2003)、《Simultaneous Echoes》(2009)などの自作を通して、メディアによって世界の見え方が変化することを指摘、メディアアートの作品制作という行為によってそのコンディションを調査する必要性を述べた。世界はどこまでも不確定であり、視点や立ち位置によってつねに変化するという意味で「無常」である。藤幡氏は今回の大震災の被害を受け入れる人々の反応のなかに浄土思想の無常を読み取り、カタストロフィの表象と関連させながら、無常の世界を理解するために、メディアを作り使う方法としてのアートというフォーマットの重要性を指摘した。
吉見俊哉氏[写真5]は、アメリカの「核の傘」のもとで展開されてきた戦後日本における原子力エネルギーの推進のプロセスを、日米両国の歴史的関係を詳細に紐解きながら論じた。戦後、原子力の「平和利用」とそれが約束する「豊かな生活」のイメージが、数多く開催された博覧会やマスメディアを通して、アメリカによって政治的に擦り込まれた。そして、高度経済成長のもと、『鉄腕アトム』や『ゴジラ』シリーズの表象に確認されるように、戦争や占領の記憶が過去の話となり、広島や長崎、第五福竜丸事件の記憶が忘却されていく。吉見氏は、今回の原発事故が起こった今も、日本人は降り注ぐ放射能の雨のなかをアメリカの傘をさして歩いていると指摘した。
これらの登壇者のスピーチに続いて、諏訪敦彦氏[写真6]の短編映画『黒髪』(2010)が上映された ※2 。被爆によって髪の毛が抜けてしまうという出来事を、広島の記憶がもはや失われてしまった現在の時間から他者の目を通して見つめようとした作品である。この上映は、カタストロフィの表象とメディアに媒介される記憶に関して考察していくにあたって、ひとつの重要な契機であると感じられた。原発事故後の現在、この作品を新たに見直すという経験は、以前のそれとはまったく異なった意味合いを帯びてきているのではないだろうか。
その上映後、登壇者たちによる短時間のディスカッションが実施され、質疑応答がなされた[写真7]。石田氏が各登壇者の議論の要点をまとめ、ヴィレム・フルッサーの技術論を手がかりに、藤幡氏とスティグレール氏によるメディア・テクノロジーの位相をめぐる討議が為された。なお、本シンポジウムはインターネットでライブ中継されており、会場だけでなく、連動するツイッター・システムから、メディアアートにおける映像と音響の差異をめぐる問いや、今回の大震災と記憶の関係をめぐる問いなど、興味深い質問が投げかけられた。国内外から多様なコメントが寄せられ、世界中から多数の人々が参加する国際的な批判の場を、少なからず構築することができた。しかしながら、ディスカッションや質疑応答が、時間の制限のため、これから議論が深まっていくという時点で残念ながら終了してしまい、また提起されたトピックが多岐に及んでいたこともあり、十分なディスカッションが展開されたとは言えなかった。破局化を迎えつつある世界のただなかで、カタストロフィを思考しうる知の実践を探求するために、したがって、今後さらなる議論の機会が待望されるだろう。本シンポジウムはその可能性の一端を感じさせてくれた。
中路武士(東京大学)
※1 本シンポジウムは、「知の際」をテーマとした東京大学の国際学術交流イベント「東大フォーラム2011」の一環として、東京大学大学院情報学環主催、フランス国立ポンピドゥーセンターIRI(リサーチ・イノヴェーション研究所)共催で実施された。
※2 本シンポジウムに先立って、10月20日、リヨン市の映画週間と東大フォーラム2011の文化プログラムの連携のもと、諏訪氏を囲むトーク・セッションとパネル発表がリヨン高等師範学校にて開催された。報告者もアラン・レネの『ヒロシマ・モナムール』における記憶の表象構造と諏訪氏の『H story』における記憶の不在を比較し、諏訪氏の即興的演出や撮影の方法論をめぐる研究発表を行った。