トピックス | 2 |
---|
プリーモ・レーヴィ─アウシュヴィッツを考えぬいた作家─
立命館大学国際平和ミュージアム 2011年度秋季特別展 中野記念ホール
2011年10月22日(土)〜12月17日(土)
立命館大学国際平和ミュージアムでは2011年秋季特別展として、「プリーモ・レーヴィ─アウシュヴィッツを考えぬいた作家─」展を開催した。
ユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィ(1918-1987)は、イタリアのトリーノに生まれ、化学を専攻していたが、パルチザン闘争中に捕まり、1944年2月にアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。彼は奇跡的に生還したが、その後は、アウシュヴィッツでの体験を証言し、なぜアウシュヴィッツのような非人間的な虐殺装置が可能となったのかを思考することが彼の生涯の責務となった。彼の残した『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社)『休戦』(岩波書店)といった作品群は、20世紀が経験した悲惨な出来事の誠実な証言として、アガンベンやドゥルーズをはじめとして現代の思想に大きな影響を与えている。
今回の展示はレーヴィの著作の多くを翻訳してこられた竹山博英氏(立命館大学教授)の監修により、レーヴィの遺品や自筆原稿などとともにレーヴィの生涯と作品を回顧する日本で初の展示である。竹山氏自らが取材した友人たちのインタヴューをはじめ、この展示の内容は、レーヴィの人柄や人間性に迫ることを目指している(その内容を知りたい方は、竹山氏の新著『プリーモ・レーヴィ―アウシュヴィッツを考えぬいた作家』(言叢社)をお読みいただきたい)。
この展示に合わせて、公開記念講演会が行われた。長年にわたってレーヴィの研究と翻訳にたずさわり、その生涯の事蹟を追い、故人と面会したこともある竹山博英氏による「プリーモ・レーヴィ―アウシュヴィッツを考えぬくこと」(11月5日)は、レーヴィの生涯と人柄についての講演であった。レーヴィにとってのアウシュヴィッツとは、絶対的な栄養不足のもとでの強制労働により、思考や感情が停止状態になり、死を恐れる感覚さえ麻痺してしまう、徹底的な精神的破壊の体験であった。レーヴィはこうした精神的死の一歩手前でかろうじて踏みとどまったのだが、この体験はその後の人生に悪夢のようにのしかかった。彼はアウシュヴィッツの記録を書くだけでなく、詩や小説でこの悪夢を消化し、他人に通ずる「言葉」として作品化しようとした。この悪夢が生きる喜びを奪うことを意識しながら、レーヴィは勇気を持って、証言者、文学者としての立場を貫こうとした。彼の死は悲劇であったが、その知的で誠実な姿勢は、彼の作品を読むものにある種の感動を、そして希望や勇気を与える、と結論を述べられた。この講演はレーヴィの人柄についての洞察に基づく、文学者レーヴィを紹介するものだった。
つづいて『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社)で知られる徐京植氏(東京経済大学教授)の「断絶の証言者プリーモ・レーヴィ」(11月12日)では、レーヴィの著作との出会いの衝撃が語られた。徐氏は、「証言不可能なものを証言すること」を「断絶の証言」としてとらえ、レーヴィがこのアポリアに耐えることを貫きながら、多声的で豊穣な歴史像を示し、ヨーロッパ人文主義の最良の姿の継承者であることを述べられた。そのうえで、徐氏は、「証言は可能か?」という問いが、3月11日の大震災と福島原発事故以降の日本を生きる人間たちにつきつけられていることを指摘した。「証言は伝わらない、しかし伝えなくてはならない」というアポリアを意識するとき、レーヴィの残した作品の歴史的重要性が迫ってくると締めくくられた。
最終回は、デリダやジュネの翻訳や著書『主権の彼方で』で知られる鵜飼哲氏(一橋大学教授)による「「人間であることの恥」ふたたび―2011年の経験から」(11月19日)。鵜飼氏はレーヴィの著作の中に「生を肯定する例外的な力」と同時に、「証言者として生き続けることの固有の困難」が読み取られることを指摘した。強制収容所のような極限状況に置かれた人間とそれを目撃した人間の感じる「恥」の感情が、「人間であることの恥」として描かれたことに、レーヴィの重要性がある。鵜飼氏は、この「人間であることの恥」の感情が、アラブの春のような革命的蜂起の動因にある「倫理的なもの」であることを指摘したうえで、今回の大震災や原発事故で、今までの東北地域の置かれて来た状況や、原発に依存した社会で生きてきたことに対する「人間であることの恥」の感情が経験されていることを述べた。レーヴィは、人間を極限状況に追い込むことへの共犯性について「灰色の領域」として克明に記述したが、震災後の状況を生きる私たちにとって、「人間であること」をたがいに見つめ合う契機を獲得するために、レーヴィの著作は、なお多くの示唆を与え続けてくれることを鵜飼氏は指摘した。
レーヴィがアウシュヴィッツの非人間的な経験について、それを二度と繰り返さないために証言した言葉の数々が、日本に伝えられ、それが震災や原発事故の極限的状況を生きなくてはならない人間の姿を照らし出すものとなった。アウシュヴィッツについては、かつて表象不可能性をめぐる議論があったが、証言不可能なものについての証言というアポリア、また「人間であることの恥」という感情に耐えることもまた、現代の芸術や文学がこの不可能性を引き受けることによってしか可能でないことを教えてくれるものなのであった。
この展示では、レーヴィの遺品の中から、レーヴィ自らが作った日本語ノートが展示された。自著が日本語に翻訳されることを知ったレーヴィが、日本語を勉強するために漢字を正確に書き写し、そこにイタリア語の意味を付したものである。そのノートを見ながら、予期せぬ災厄に見舞われた人間が、言葉に託そうとしたもの、言葉にすることの不可能性と言葉の力の両極の間で耐えぬいたものの大きさを思わずにはいられなかった。レーヴィがアンダーラインを引いていた六つの日本語のうちの二つは、「死」(morte)と「美」(bello)だったのである。(報告:加國尚志)