研究ノート 原島 大輔

情報・自由・変態
原島 大輔

情報科学技術文化について考えている。情報は、物質とエネルギーとともに根源概念として並び称されることもあるわりには、日常的にも学問的にもかなり適当に使われている言葉で、とくに存在論的に厳密に定義されることもなく文脈に応じて様々な意味で用いられている(物質とエネルギーもたいがい適当ではあるが)。クロード・シャノンが20世紀中盤に提唱した数学的通信理論が現在では情報理論として一般的に定着してはいるが、他にも多様な情報の概念化がありえるし、実際にそうされてきた。たとえばそもそもシャノンの情報理論が考案された環境の一つであるサイバネティクス会議(メイシー会議、1946年から53年にかけて主にニューヨークで数回にわたって開催された)においても、ドナルド・マッカイやグレゴリー・ベイトソンやハインツ・フォン・フェルスターなどによってそれぞれ通信工学的情報理論とは違って主観性や意味を考慮した情報の概念化も色々と提案され、シャノン的理論との間での議論も交わされていた。しかしそれらは端的に言ってシャノン流の情報理論に比較して大変複雑でありそもそも理論化も困難で先の見えないものであったため、結局、当時の状況のなかで手っ取り早く実用可能で具体的成果に結実するとみなされたシャノンの理論が選択されたということができるだろう。したがって情報の可能性がそこで全て汲み尽くされているというわけではまったくなく、別様の展開の仕方は十分にありえる。

情報理論としてはある意味でいまのところ歴史の敗者であるような情報理論たちには、それでは、現在の情報科学技術文化において顧慮する意義などないのか、それともあるいはむしろそうであるからこそこの世界に差し迫った諸問題を解決する鍵になりうる何かが眠っているのか。こうした背景でわたしがここしばらく興味をもって調べているのが、主にフォン・フェルスターの着想から発展したセカンドオーダー・サイバネティクスないしネオサイバネティクスと呼ばれる諸々の情報理論・システム理論である(なかでもよく知られているものに、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラのオートポイエーシス理論や、それを応用したニクラス・ルーマンのシステム社会学や西垣通の基礎情報学などがある)。それらの特徴は、誰でもない超越的で透明な主体が観察する客体として情報を実体化するのではなく(それは客観主義的な数理的情報理論の理想である)、それ自身が世界に埋め込まれた特定の観察者が相互作用しつつ観察する現象として情報を具体化することにある。情報は、客観的に表象される数量ではなくて、主観的に構成される意味(とりわけそれぞれの主観の生命システムとしての生存にかかわるもの)として理解される。

ネオサイバネティクスの先駆的諸研究は主に1970年代・80年代に開花している。このような構成主義的・現象学的な思想がこの時期に発展したことは、同時代的な地球規模での文化の変転、たとえばポストモダニズムと無関係ではないだろう。しかしネオサイバネティクスは、構成主義的ではありながら、そのまま極端に独我論化し相対主義化してしまうことは避け、実在や他者についても問い続けてきた。このことは、ネオサイバネティクスの現在的意義のひとつであるかもしれない。というのも、20世紀終盤から21世紀序盤を分水嶺にして、情報科学技術の夢と欲望がその性質をそのような方向へ大きく変えたように思われるからである。それはもしかすると地球規模のより大きな文化的変転でもあったのかもしれない。情報科学技術的にはこの時期にパーソナル・コンピュータや携帯電話やインターネットの普及にITバブルとその崩壊があった。さらに視野を広げるなら、日本では1995年の震災とテロを境に、そして2011年の震災と原発事故によって追い打ちをかけられるようにして、さらに世界規模では2001年のアメリカ同時多発テロとそれに続くイラク戦争や2007年の金融危機をはじめとした度重なる脅威によって、ポストモダニズム的・相対主義的な主観性や上部構造の自律性や記号の表層的な遊戯の無責任で幸福な暮らしに、自然や技術や身体や階級といった他者や下部構造の決定論や主体の情動の他律性などの政治経済的な閉塞感や死の恐怖がますます切迫してきている。

ところで、ではネオサイバネティクスはどのようにして実在や他者を概念化してきたのか。多様な論者がそれぞれに議論を展開しており、わたしはまだそれらを十分に参照できているわけではないのだが、これまでのところわたしが見た限りでは※1 、いずれも基本的には同じ論理で実在や他者をシステムにとっての環境として記述している。すなわち、システムの自己参照的・自律的な作動において予測不可能な失敗を実際に経験することを通じて事後的にのみ観察することのできる、環境からの制約として、である。観察は観察するシステムが自己参照的・自律的に遂行するものであるため、環境を直接的に観察することはできない。つまり普段は盲点のようにして潜在化している。ではそれはいかにして顕在化しうるのか。それは、システムの顕在的世界の整合性や実行可能性の矛盾や失敗として観察される、というわけである。たとえば、箪笥の角に小指をぶつける、という経験があるが、このときわたしはそれまで顕在化されていなかった身体の輪郭や家具の配置を知ることになる。こうした失敗の経験を通じて、はじめて、そして偶然に一時的に、わたしはわたしを成立させる条件としての環境(実在・他者)を観察する、というわけである。

これは構成主義的立場から外部を言語化するやり方として合理的だし妥当であるようには思われる。が、いくつか問題も出てくる。一つは、予測・予防である。失敗を通じて事後的にしか観察できないということが問題になる。箪笥の角に小指をぶつけるくらいならよいが、失敗はときに生死にかかわる。そういうときに、事後的にしか知りえない、では困る。そこで予測・予防の技術が求められる。しかしこの技術は両義的であり、必ずしも望ましい帰結のみをもたらすわけではない。たとえば、ジル・ドゥルーズが指摘した管理社会の問題がある※2 。管理は、たとえば認証カードキーによる建物の入退室管理のように、危険なことを禁止するのではなくそもそも技術的に遂行不可能なように環境を設計することで予防する。たしかにこれによって環境との衝突は一見なくなるが、それはたんに環境の存在に気づけなくなっているだけである。セキュリティが高まったように見えて、実際は技術環境への依存が高まることで、別の未曾有の事故の可能性を高めているともいえる。そしてそもそも、事後性についての根本的な解決にはなっていない。

もう一つ問題を提起してみるなら、それは自由についてである。なぜ自由が問題になるのか。上記の論理で考えるならば、自律と他律は両立可能であり、それどころか相互にたがいの条件になっている。つまり、制約を消滅させてしまうこと、つまり自由を突き詰めることは、必ずしも生命システムにとって「善い」価値をもつものではないということになる。活気的に生きるためには制約を必要とするという、一見逆説的であり衝撃的でもあるけれど、しかしおそらくわたしたちはそれに納得できてしまう思い当たる節のあるような、この命題をどうするべきか。三輪眞弘の作品に《逆シミュレーション音楽》という方法論がある。コンピュータが現実をシミュレートするのではなく、逆に現実がコンピュータをシミュレートするというコンセプトで、複数の人間のパフォーマーがそれぞれ与えられた単純な規則に従って振る舞うことにより、集合体として音楽を自動生成する「人力による演算システムとしてのアンサンブル」である※3 。これは2007年のアルス・エレクトロニカ(オーストリアのリンツで1979年から開催されているメディア・アートの祭典)でデジタル・ミュージック部門のゴールデン・ニカ賞(最優秀賞)を受賞しているが、その審査では強い異議も唱えられたようである。それは、この方法論はほとんどファシズム的な管理を強制することで、自律性を否定し、時代遅れのポストヒューマン概念を持ち出してきた、という意見である※4 。しかしこの作品は、わたしたちが忘れ去るべき時代遅れの概念を提示しているのではまったくなくて、むしろ、わたしたちの自由の、そしてわたしたちの欲望の、いま現在まさに根本的でありしかもわたしたちがまだまったくよく分かっていない謎に迫っているのであり、そこにこそこの作品の不気味さと魅力があるとわたしは考える。ここでわたしが想起せずにいられないのは、スピノザによってそしてドゥルーズとガタリによって立てられたおそろしく犀利な問いの不気味さと魅力である。すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」※5

ところでこのように自由を問題にするとき、避けて通るべきではないもう一つの問題がある。それは新自由主義であり、資本主義である。1970年代末から地球規模で進行し、日本でも1990年代半ばに急速に遂行された新自由主義化は、情報技術環境や情報理論の展開とも連動してきた。そもそもサイバー文化やネット文化は、資本主義と無縁の場所で発展してきたものではなく、むしろそもそものはじめから資本主義の内部で発展してきたものである。たとえばネットワーク音楽について。ネットワーク音楽の先駆の一つには20世紀後半の遠隔通信でのコンピュータ音楽のリアルタイム・コラボレーション・パフォーマンスもあるが、21世紀初頭のグローバルな情報技術社会においてネットワーク音楽といえばそれが意味するのはもっぱらインターネット上でのオーディオ・データの流通である。この意味でのネットワーク音楽についてはしばしば以下のような指摘がされてきた。音楽技術のデジタル化は制作と聴取をともにデータ処理に同質化し、生産者と消費者の区別をなくす。先行テクストを参照・編集することで二次創作する生産消費者として作者は再概念化される。そうした生産消費者が制作した作品を流通させる環境は、大衆による投稿や評価や宣伝などの自発的無償労働に支えられている。音楽制作ソフトや投稿サイトのような、完成した作品ではなく、作品を制作し可能性を蓄積し完成を先送りにし続けるための環境が作品化する。等々。しかしこのように記述されてしまうと、どうにも気が塞ぐ。要するに、制作は消費と同じことであり、抗し難いエントロピー増大傾向によっていずれは熱的死に到ることが避けられないシステム(ここではそれは資本主義に他ならない)の延命に寄与するちょっとした異質性を提供する意味生成にすぎないというのでは、創造性があまりに虚しい。

別の観察が求められている、別の世界へ飛び出すことが。ただ、別の世界がそれ自体で目的になるべきではない。そこがより望ましい世界であるとは限らないからである。それは先に述べた失敗と事後性の問題でもある。責任と倫理の問題でもある。ではいつまでも逡巡し続けていてもよいのかといえば、そういうわけにもいかない。破局は、恐慌は、死は、システムの本質であり運命なのだろうか、おそらくそうであると考えられているからである。このような袋小路は、気を病むきっかけでもあるが、跳躍の好機でもあるはずである。それが創発的な創造への、変態への、跳躍であれかし。

原島大輔(東京大学大学院/日本学術振興会特別研究員)

[脚注]

※1 たとえば以下の著作を参照。Bruce Clark and Mark B.N. Hansen, eds. Emergence and Embodiment: New Essays on Second-Order Systems Theory. Duke University Press, 2009. Niklas Luhmann. Introduction to Systems Theory. Dirk Baeker, ed. Peter Gilgen, trans. Polity Press, 2013. 西垣通『基礎情報学——IT社会のゆくえ』NTT出版、2004年。ジークフリート・J・シュミット「観察の論理——構成主義概論」大井奈美・橋本渉訳、『思想』1035号(2010年7月号)、56–75頁。Heinz von Foerster. Understanding Understanding: Essays on Cybernetics and Cognition. Springer-Verlag, 2003. エルンスト・フォン・グレーザーズフェルド『ラディカル構成主義』西垣通監訳、橋本渉訳、NTT出版、2010年。

※2 ジル・ドゥルーズ『記号と事件——1972–1990年の対話』宮林寛訳、河出書房新社、2007年。

※3 三輪眞弘『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998−2010』アルテス、2010年。

※4 Rob Young, Kiyoshi Fukukawa, Andrei Smirnov, and Elisabeth Schimata. “The Machine Turned Upside-Down (DIGITAL MUSICS • Jury Statement),” CyberArts 2007. Hatje Cantz Verlag, 2007, p. 76.

※5 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス——資本主義と分裂症(上)』宇野邦一訳、河出書房新社、2006年、62頁。