第8回大会報告 パネル1

パネル1:フォネーとロゴスのあいだ――古代から近代にいたる祝祭と「声」|報告:池野絢子

2013年6月29日(土) 16:00-18:00
関西大学千里山キャンパス第1学舎1号館:A501教室

パネル1:フォネーとロゴスのあいだ――古代から近代にいたる祝祭と「声」

personale/per-sonareの詩学――ギリシア悲劇における「声」の出現をめぐって
佐藤真理恵(京都大学)

不在を運ぶ「声」と聖なる表象――聖史劇における異言、命名、喚問
杉山博昭(京都教育大学)

舞台上演と典礼の間で――マラルメによる「声」の祝祭
熊谷謙介(神奈川大学)

【コメンテーター】内野儀(東京大学)
【司会】杉山博昭(京都教育大学)

演劇や祝祭において「声」は、台詞の意味内容を伝達するものであると同時に、純粋な音そのものの現前でもある。パネル1は、そうしたフォネーとロゴスの境界領域にある「声」の諸相を、古代・中世・近代における三つの事例を通じて検証する試みであった。

もちろん、言葉が音と意味とのあいだの亀裂を内包しているということは、詩的言語の実践にあって、韻律や詩型、オノマトペ、掛詞等々を通じて古来自覚されてきたことではある。あるいは、最初の話し言葉は歌であったというルソーの『言語起源論』のなかの名高い一節に従うなら、言葉はまさに両者のあいだにこそその開始地点を持つということになるだろう。とはいえ、この亀裂が「声」として祝祭の空間で経験されるとき、そこでは、言語のよりパフォーマティヴな側面が問題になる。実際、三つの研究発表と続く討議を通じて浮かび上がってきたのは、声が有する力——すなわち、ある声が演劇や祝祭の空間で発されるとき、それは、それを経験する人間たち(あるいは共同体全体)にとっていかなる効力を持ち得るのか、という問題であったように思う。

佐藤真理恵氏による最初の発表は、ギリシア古典劇における異言と叫びの表現に注目し、フォネー(原語に忠実には、フォーネー)とロゴスのあいだにある声が物語内部で果たす役割を浮き彫りにするものだった。たとえば『アガメムノン』において囚人カサンドラの発する意味不明な言葉の連なりは、解釈する者次第で、鳥の鳴き声を模したオノマトペとも、アポロン神への呼びかけとも、はたまた破滅の予言とも解せる。他方、『ヒッポリュトス』のなかに登場する台詞の「ボエー」は、叫び声を指示すると同時に救いの請願という語義を併せ持ち、ひとたび発されると必ず成就される、いわば行為遂行的な声であるという。ギリシア悲劇にあっては、アリストテレスの『詩学』以降、専らロゴスによる筋立て=プロットが重視されてきたが、佐藤氏は一連の明晰な分析を通じて、ロゴス以前の「声」が、物語の転換を引き起こす重要な役割を担っていたことを明らかにした。個人的には、「ボエー」や呪いを意味する用語「アラ/アラス」が、すでにしてその成就を内包しているために、ある種の法的・宗教的な力を有しているという点をとりわけ興味深く聞いた。

二人目の杉山博昭氏は、中世フィレンツェの聖史劇において、上演台本から読み取れる詩型や韻律といった「声」の形象と、異言や名付けの場面で、限りなく意味の空白に近づく「声」の機能とを、精緻なテクスト分析を通じて論じた。聖史劇で通常用いられるオッターヴァ・リーマ(八行詩節)とその破れ、あるいは世俗歌曲の韻律フロットーラとの交錯。これらの事例は、聖史劇が、聖なる物語の意味内容を平信徒たちに伝承するという本来の目的と、場面の盛り上がりや緊張を表現する音の要請との密接な絡み合いから成り立つことを端的に示している。また、意味内容から更に遠ざかる「声」の例として挙げられた異言や名付けの場面に加え、印象に残ったのは『聖体の奇蹟』のなかのユダヤ人喚問の例である。ここで杉山氏は、打ち据えられるユダヤ人たちの中に旧約聖書に記された預言者たちの名が頻出することを指摘し、当時の見物客たちは、反ユダヤ感情と聖なる物語との間で板挟みになったであろうと推察した。それらの名前を叫ぶ「声」が、はたして見物客に意味の空白として響いたのかどうかは若干疑問の残るところだが、いずれにせよ、確かにその声は、見物客に対して物語の筋とは別のところで働く何らかの力を持ったことだろう。

熊谷謙介氏による最後の発表は、近代の極北とも言うべきマラルメのスペクタクル論を通じて、「表象からパフォーマンスへ」という現代の舞台芸術の文脈を再検証するものであった。マラルメは、舞台上演における演劇的虚構を否定し、カトリックの儀式に可能性を見出したのだが、さらに儀式自体を脱宗教化し、ただ言葉による祝祭に昇華させることを思考していたという。したがって熊谷氏によれば、マラルメにおける理想の祝祭とは、ギリシア演劇以来の舞台上演とも、カトリックの典礼とも異なる第三の道——いわばシミュラークルと呼ぶことができる。発表では、マラルメが実現しようとした理想の祝祭の一例として朗読会が紹介され、この祝祭空間における声の問題が検討された。そこでは、俳優や音楽までもが、詩人が発する詩句によって暗示され、「複数の声からなる頌歌」を形成する。「声のスペクタクルの操作者」という斬新なマラルメ像は、非常に魅力的に映ったが、その一方で、エクリチュールと声の関係をマラルメがどのように捉えていたのか、一人の朗読者の声のうちで成立するポリフォニックな頌歌とはいったい何を意味するのか等、新たな問いが生まれるのを感じずにはいられなかった。

全体としては、古代・中世を対象とした佐藤氏、杉山氏の発表においては、ある物語ないし共同体内部での共時的な声の効力が中心的主題とされ、熊谷氏の発表は、むしろ近代から現代にいたる舞台芸術の通時的パースペクティヴのなかで声のステータスを論じるものであったと言えるかもしれない。これら三つの発表を受けて、コメンテーターの内野儀氏から各人に個別の質問、およびパネル全体への鋭いコメントが加えられたが、ここではそのうち全体の議論に密接に関連する二点を取り上げるに留めたい。

一点目は、身体と声の関係性についてである。内野氏は、三人の発表者が誰もこの点に関して論じていないことを指摘し、身体をメディアとして捉えるならば、古代ギリシア、あるいはキリスト教の伝統にあって、両者の関係はどのように言うことができるのかと質問した。ギリシア古典劇において仮面の唯一の開口部である口は、はたして本当に、役者の身体を感じさせる「生々しい」存在であったのだろうか。返答のなかで言われた、生身の身体が人形によって容易に代替される聖史劇の場合といい、マラルメにおける言葉の特権的役割といい、三つのパネルはそれぞれ、「生の身体」に対する否定的なスタンスにおいて共通していたのかもしれない。では、声を生成するメディアとしての身体については何が言えるのだろうか、その答えは持ち越された。

二点目は、暴力の問題である。本パネルでは、フォネーとロゴスのあいだに位置する声の力は、総じて肯定的に解釈されていた。だが、そもそも意味のわからない言語を喋られること、これは聞き手にとってむしろ暴力ではないのか、という問いであった。ベンヤミンの「暴力批判論」を念頭に置いたと思われる内野氏の問いは、これに先立ち、佐藤氏・杉山氏に対して個別に行われた、声の持つ法的・宗教的な力とは何かという問いと密接に関係していただろう。この問題に関しては時間の制約によりそれ以上議論が深められることはなかったが、佐藤氏が発表の中でわずかに触れた、行為遂行的な「声」が、物語の転換を促す力であると同時に、ある種の拘束力(呪い/祈りの成就)でもあるという指摘は重要な意味を持つ。声の両極的な力とはまた、西洋の歴史において、祝祭空間が共同体の内部で果たした機能の問題とも関係していただろう。とすれば、新たな総合芸術を模索するにあたり、カトリックの典礼の形式に依拠しつつ、なおかつそれを脱宗教化しようとしたマラルメの目論みは、近代における世俗化の一例に留まらない、きわめて示唆的な戦略であるようにも思える。

コメンテーターからの発言の他にも、会場からはテクストの解釈等をめぐっていくつかの質問が提出され、活発な質疑応答がなされた。新たに提示された問いと、解決されないまま残された問いも含めて、古代から近代までの幅広い視野のもとに「声」の力を問うた刺激的なパネルであった。

池野絢子(日本学術振興会/東京大学)

【パネル概要】

声とはつねに過ぎ去るものであり、そこでは生成と消滅が隣り合わせとなる。わたしたちは、こうした声をいかに表象できるのだろうか。この問題は、声を言葉に固定し、あるいは言葉を声に固定するという試みを通じて古来より検討されてきた。またそれが近代に至るまでアクチュアルな課題として持ち越されたことは、テクストに裂開を見いだし、声へ回帰するというアルトーやベケットなどの演劇上の取り組みにもあきらかである。もちろん、声の問題は演劇のみにとどまるものではない。すでに詩や宗教の伝統は、声に刻まれた音と意味のあいだの深い亀裂を、詩的言語や異言の相のもとに浮き彫りにしている。さらにバンヴェニストをはじめとする言語学の成果も、記号論と意味論の抜き差しならない緊張関係をつまびらかにした。だとすれば、生成と消滅のあいだに、もしくは音と意味のはざかいに現前する声の問題は、詩的経験や宗教的経験にかかわるような長大な射程を持つのではないだろうか。

このような問題意識にのっとって構成されたのが本パネルとなる。つまり「もはや純粋な音ではないものの、いまだ十全な意味でもない」パラドクシカルな声をめぐる経験を、演劇や祝祭をとおして検証する3つの試みである。古代ギリシア、中世イタリア、近代フランスの事例の交差から、主体化や脱主体化、創造や脱創造といった両極性の運動のもとに、声の境界が仄見えるだろう。(パネル構成:杉山博昭)

【発表概要】

personale/per-sonareの詩学――ギリシア悲劇における「声」の出現をめぐって
佐藤真理恵(京都大学)

ギリシア古典劇はつとに知られているとおり仮面劇だったが、当の仮面は頭部全体を覆う特異なものであった。役柄に応じて類型化されたこれらの仮面や装身具を纏った上演において、声は、役者の生身が垣間見える、役柄の裂け目ともいうべき殆ど唯一の要素であったといえる。ストア派をはじめ演劇にかんする言説においては、他ならぬこの声こそが役者を称賛するトポスとして用いられていた。つまり、神話上の登場人物「らしさ」を評価するうえで、役者の声質や声の調子が重要な判断基準となりえていたのである。とはいえこの主題は、古典ギリシア演劇研究においてこれまで議論の俎上に上げられることは稀であった。そこで本発表では、主体=役者に帰属されるはずの声が、同時にいかに主体を超えるようなものとして機能していたかを検討する。

本発表ではまた、ギリシア悲劇に頻出する間投詞についても考察を加えたい。悲劇作品において、発話行為はしばしば悲劇的結末の契機となる。言葉が発せられるやいなや、発話行為とその内容は撤回不可能なものと化すが、かような言葉の手前で宙づりにされた曖昧な間投詞は、悲劇のダイナミクスを内包した「声」として位置づけられるだろう。さらに、劇の筋における転換点としての間投詞はまた、司法の場でも用いられていたという点も併せて示唆したい。これらの考察を通じ、ギリシア悲劇において声の孕む緊張や遂行性といった側面が浮き彫りになるだろう。

不在を運ぶ「声」と聖なる表象――聖史劇における異言、命名、喚問
杉山博昭(京都教育大学)

本発表は、15世紀フィレンツェの平信徒が制作した様々な聖史劇を取り上げ、セリフの意味と歌声の音との齟齬に注目し、それが持つ意義を検討するものである。

当時としては相対的に高いフィレンツェ市民の識字率にもかかわらず、依然、聖史劇に期待された機能のひとつは、聖なる物語を見物客にわかりやすく伝えることであった。意味の伝達を第一義とする上演台本の多くが、可聴性に優れた八行詩節という押韻形式で構成されていることも、なかば必然と言える。ただ、各レパートリィの上演台本の読解を進めたときに、必ずしも原典の物語や教義をストレートに反映することのない要素が散見されることも事実である。たとえば「天地創造」におけるアダムの名付けや「神殿奉献」におけるシメオンの祈りといった場面について、間投詞や名前、アンジャンブマン、ラテン語といった観点から分析することは、歌声の音にセリフの意味が遅れる一連の契機、もしくはある種の不在を運ぶ「声」の様態を浮き彫りにする。物語や教義のさらに手前にあるこの「声」、もしくは「声」の否定性にこそ、「場」を開く可能性が宿るのではないだろうか。

社会史研究には、当時のコミュニティにおける聖史劇の価値は、貴賓や祝宴など付随的な要素にあるのであって教条的な内容の上演にはないという指摘がある。しかし本発表の演者の「声」をめぐる検討は、聖史劇の上演が持ち得た宗教的かつ法的な価値の一端をあらたに指し示すだろう。

舞台上演と典礼の間で――マラルメによる「声」の祝祭
熊谷謙介(神奈川大学)

近代演劇において身体とともに隠蔽されがちであった「声」は、「ポストドラマ演劇」において復権を試みられてきた。その淵源に位置するのはベケットとアルトーであり、さらに言えばマラルメの舞台芸術論であろう。一方で、デリダに見られるように、主体の現前を担保する「声」を「文字」によって批判する立場があり、マラルメは「エクリチュールの詩人」として引き合いに出されることも少なくなかった。また俳優による登場人物の表象という様式に対して懐疑を示し、演劇に替わるスペクタクルを求めて、詩人がカトリックの典礼に興味を持ったことも長らく強調されてきた。

本発表では「声」を軸として、「近代人」マラルメが演劇でもなくミサでもない第三の道を模索していることを示したい。「舞台上演あるいは典礼」という二項対立が明示されている彼のカトリシズム論で問題になっているのは、ミサの司祭と異なり、神的なものを模倣してしまうためにその神秘を損なってしまう俳優だけではない。ミサの交感を支える、葡萄酒やパンがキリストの血となり肉となるという受肉の原理もまた俎上に置かれている。「野蛮な食事」ではなく、意味も分からないまま歌われるラテン語の聖歌が、「現存Présence réelle」の教義ではなく「虚構」の原理が、マラルメの未来の祝祭を構成するものとなるだろう。その具体的なヴィジョンの一つとして、「多声の頌歌」と呼ばれる朗読会があったことを最後に示唆したい。