新刊紹介 単著 『波打ち際に生きる』

松浦寿輝
『波打ち際に生きる』
羽鳥書店、2013年5月

松浦寿輝氏による2つの講演を収める。書名となった東京大学退官記念講演「波打ち際に生きる――研究と創作のはざまで」では、氏を絶えず刺激してきた「波打ち際」という特権的形象を中心に、自身の仕事が総括される。続く最終講義「Murdering the Time――時間と近代」では、『不思議の国のアリス』を導きの糸としつつ、「近代的な時間システム」をめぐる諸問題が論じられる。

小書ながら、繊細で優美な言葉づかいとともにさまざまな知の領域を横断していく氏の思考と論理は、いつもながら圧巻である。だが書かれたものではなく著者自身によって語られたものであるという本書の成り立ちからくる、口語体特有のゆるやかさが、それまでの氏の著作とは異なる魅力を与えているように思われる。思考の鋭利さよりも穏やかさが、論理の硬質さよりもしなやかさが読者を(聴者を)とらえる。実際に松浦氏の講演を聞いた者なら、かつて氏の授業やゼミの受講したことのある者なら、大柄な体軀にそぐわぬ、優しく、どこか疲れを帯びた氏の声を想起せずにはいられないだろう。

ところで、これは「終わり」の書であろうか。いや、むしろ新たな何かへの「始まり」の予感に満たされてはいないだろうか。(大久保清朗)