研究ノート 池野 絢子

蛍は消えたのか――『アルテ・ポーヴェラ2011』展に寄せて
池野 絢子

「1960年代のはじめ、大気汚染が原因で、とくに田舎では水(青い川に澄んだ水路)が汚染されたことが原因で、蛍が消えはじめた ※1 。」――1975年、鬼才の映画監督であり、小説家・詩人でもあったピエル・パオロ・パゾリーニ〔1922-1975〕は、後に「蛍論」と称される短い新聞記事でそう記した。そこでは、戦後イタリア社会に生じた劇的な変化、すなわち消費主義という新しいファシズムの浸透と、それを無自覚に甘受した権力の虚しさが、「蛍の消滅」という事象を通じて、象徴的に語られている。

2011年の秋、イタリアで始まった回顧展『アルテ・ポーヴェラ2011』を訪れる機会に恵まれて、この戦後イタリアを代表する芸術運動について改めて思いを巡らすなかで、わたしはパゾリーニの「蛍論」に出会った。美術史家ジョヴァンニ・リスタが近著で指摘したように、アルテ・ポーヴェラとはまさしく、パゾリーニが消えゆく「蛍」に重ね見たイタリア社会の変貌にたいする応答の一形式であったように思う ※2 。田園の荒廃と汚染、マス・カルチャーの普及、失われていく文化の多様性…戦後の復興と奇跡的な経済成長の末、気づかぬうちにこの国が経験することになった根本的な社会の変質こそが、アルテ・ポーヴェラ誕生の契機でもあったのである。

アルテ・ポーヴェラ――日本語で「貧しい芸術」を意味するこの運動は、1967年から71年にかけて、批評家ジェルマノ・チェラント〔1940生〕によって組織された、一群の芸術家たちの緩やかな結びつきを指す。最近は日本でも『アルテ・ポーヴェラ』展(豊田市美術館、2005年)や『ジュゼッペ・ペノーネ』展(豊田市美術館、2009年)を通じて紹介が進んでおり、彼らの作品を眼にされた方も多いかもしれない。鉄や木の廃材、布きれ、新聞紙といった日常的で質素な素材を好んで未加工のまま用いることから、この運動はしばしば、ミニマル・アートやポスト・ミニマルの諸潮流、あるいは日本のもの派との形態的類似性を指摘されてきた。とはいえ、アルテ・ポーヴェラに特徴的だったのは、同時代に生じたさまざまな他の運動と異なり、「貧しい芸術」という名称それ自体が倫理的な性格を孕んでいたことである。

60年代当時「貧しい」とは、たんに素材や形態上の特徴を指す語ではく、資本主義社会の恩恵にあずかる「豊かな芸術」に対抗する、新たな芸術的価値として認識されていた。アルテ・ポーヴェラがしばしば「清貧の芸術」、ないし「聖フランチェスコの芸術」と呼ばれてきたのは、そのために他ならない。つまりアルテ・ポーヴェラとは、アッシジの聖フランチェスコのように、質素であること、自然とともにあることを好み、粗末な「もの」を用いることを通じて、近代社会に反旗を翻す態度なのである。もちろんアルテ・ポーヴェラの場合、個々の芸術家たちの制作はきわめて多岐にわたり、こうした批評用語の適用を容易には許さないところがあるのだが、少なくとも当時の批評言説において、この名称が美的価値と政治的態度の両方を含意する用語として練りあげられていったものであることは確かだ。近年、ジャック・ランシエールによる一連の美学的考察を通じて、芸術と政治との根源的な関係性が改めて問い直されていることを踏まえるならば、そうした視点からアルテ・ポーヴェラの「貧しさ」という概念に光を当てる必要があるように思える。

イタリア統一150周年記念の関連行事として現在開催中のアルテ・ポーヴェラ回顧展は、この歴史的芸術運動の全貌を見つめる、またとない機会になるだろう。この展覧会は実に、ボローニャ、ミラノ、ナポリ、ローマ、トリノ、それに途中追加されたバーリとベルガモを含め、7つの市と計8カ所の近現代美術館が連携し、それぞれ異なる切り口からこの芸術運動を紹介する、前例のない大規模な回顧展である。主要メンバー13人の1960年代から2000年代にいたるまでの作品が紹介され、出展作品は約250点にも及ぶ。それにしても、いったいなぜ今アルテ・ポーヴェラなのか、という疑問がふと浮かぶとしても不思議はない。2010年、批評家であり政治家でもあるヴィットリオ・ズガルビーが、いつもの毒舌でもって「イタリア統一150周年とアルテ・ポーヴェラに、いったいなんの関係があるのか」と発言して物議を醸したことは、記憶に新しい ※3 。たしかに、実際のところ回顧展とイタリア統一記念が重なったのは、単なる偶然に過ぎないかもしれない。ただしそれは、見方によっては、意味深長な巡り合わせであった——というのも、今から50年前、目覚ましい経済成長の只中にあったイタリアが、統一100周年を最初の首都トリノで盛大に祝った頃こそ、パゾリーニの言う「蛍」の消え始めた時期であり、アルテ・ポーヴェラの作家たちの多くが活動を開始したからだ。

近頃折よく抄訳されたジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『蛍の残存』(2009)によって、わたしは思いがけずパゾリーニのこの文章に再会することになった ※4 。ディディ=ユベルマンによれば、パゾリーニのペシミズムは、「蛍」そのものの消滅からではなく、「蛍」を見いだす希望の喪失から生じているという。ここでディディ=ユベルマンがパゾリーニに抗して「蛍の残存」を探る道筋を追うことはしないにしても、たしかにパゾリーニの眼には、70年代のイタリアにあって「蛍」の姿はもはや見いだしがたくなっていたのかもしれない。同じような絶望は、わずか数年で終焉を迎えたアルテ・ポーヴェラにも当てはまるのだろうか——そう考えて、わたしはあえて、否と結論づけたいと思う。アルテ・ポーヴェラの方法は、たとえそれが70年代以降、もはや抵抗の身振りとしては機能しなくなったにせよ、完全に効力を失ってしまったわけではない。事実、運動が終わりを告げたのち、とりわけ80年代以降になってヤニス・クネリス〔1936生〕やジュゼッペ・ペノーネ〔1947生〕らが展開してきた大型のインスタレーション作品は、特定の空間のなかに貧しい「もの」を配置する手法によって、圧倒的な詩的喚起力をもつ「場」を呈示してきた。それらを、60年代においてはもっぱら禁欲性や否定性によって規定されてきた「貧しさ」という詩学の、別のかたちでの継承と見るのも不可能ではあるまい。

ハル・フォスターらは、その共著『1900年代のアート』において、アルテ・ポーヴェラの経験を「古びたものの回復」と呼んだ ※5 。それは、かつてヴァルター・ベンヤミンがシュルレアリスムの方法に認めた、商品文化のなかで廃れた事物の価値を、記憶の力によって再発見することである。とはいえ、強調されなければならないのはむしろ、ベンヤミンが「古びたもの」を通して認めたのが、時代遅れになった古めかしい事物の歴史的価値であるというよりも、それらが持つ「革命的エネルギー」——すなわち、現状の認識を一変させるような「力」だったことではないだろうか。1960年代末、ごくわずかな活動期間とともに終焉を迎えるアルテ・ポーヴェラは、歴史的にみれば、アヴァンギャルドと反近代主義のあいだで、突然変異のように生じた一過性の現象に過ぎなかったかもしれない。しかしそれは、芸術における美的なものと政治的なものとの断ち切りがたい結びつきを、今なお証言していると考えられるのではないだろうか。


『アルテ・ポーヴェラ2011』公式サイト
http://www.artepovera2011.org/

池野 絢子(京都大学/日本学術振興会)

[脚注]

※1 Pasolini, Pier Paolo, “L’articolo delle lucciole” (1975), in Pasolini: Saggi sulla politica e sulla società, Milano: Mondadori, 1999, p. 405.

※2 Lista, Giovanni, Arte Povera, Milano: Abscondita, 2011, p. 159.

※3 Beatrice, Luca, “L’Arte povera? Ha impoverito i musei,” il Giornale, 24, gennaio, 2010.

※4 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「蛍の残存 第2章」橋本一径訳、『photographers’ gallery press』、no.10、2011年。

※5 Foster, Hal, et al., Art since 1900: modernism, antimodernism, postmodernism, London: Thames & Hudson, 2004, p. 509.

ミケランジェロ・ピストレット《ぼろきれのヴィーナス》1967年
Michelangelo Pistoletto Venere degli stracci, 1967
Castello di Rivoli Museo d’Arte Contemporanea, Rivoli Photo©Paolo Pellion

ジュゼッペ・ペノーネ《樹液の彫刻》2007年
Giuseppe Penone, Sculture di linfa, 2007
MAXXI, 2011 foto di Francesco Bolis, courtesy Fondazione MAXXI

ヤニス・クネリス《無題》2010年 Jannis Kounellis, Senza titolo, 2010 Teatro Margherita, Bari Photo©Marco Dabbicco