第6回研究発表集会報告 パネル3

研究発表3:芸術のフレーミング
報告:森元庸介

2011年11月12日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2

研究発表3:芸術のフレーミング

イリヤ・カバコフ作品における〈ゴミ〉と〈コレクション〉
藤田瑞穂(京都芸術センター/大阪大学)

〈近代の神話〉の視覚化──ハラルト・ゼーマン企画〈独身者の機械〉展をめぐって
河田亜也子(東京大学)

物語文の中の詩について
串田純一(東京大学)

【司会】森元庸介(東京大学)

「芸術のフレーミング」と題された第3パネルは、イリヤ・カバコフにおける〈ゴミ〉のコレクションからハラルト・ゼーマンの先鋭的キュレーション、さらには物語文と詩の関係に至るまで、実に多様な主題が検討される場となった。

パネルは、イリヤ・カバコフをめぐる藤田瑞穂氏の発表によって始められた。作家にとって活動初期からの中心主題であった「ゴミ」は、とりわけ1986年の《けっして何も捨てなかった男》以降、「コレクション」というもうひとつの重要な主題と接合され、生と作品、意味と無意味といった区分のあいだを揺れながら、公的なコレクションの場としての美術館の地位をアイロニカルに問い直してゆく。意味を失ったはずのゴミは集められることで作品に似た何かになるが、翻ってそれは、美術館に集積されてきた作品を、ゴミと似た何かのように思い描かせる。集めること、捨てること、両者を隔てるフレームの不確かさを繊細に触知させて余韻を残す発表であった。

つづく串田純一氏の発表は、一転して言語芸術を扱い、《小説内部で詩作品が言及されるとき、当の詩がそのものとして呈示されることはない》という氏自身の経験的な所見を出発点とするものであった。たとえば『マルテの手記』に言われる「本当に良い詩」を読者が「読む」ことはない。串田氏はここに、再現前の原則に拠る小説と即自的に現前する形式である詩と原理的な差異の発現を見ながら、翻って、両者を共存させた稀有な達成として歌物語を挙げる。論証の精緻化、反証可能性の検討はもちろん求められるだろうが――時間の制約によって後半の歌物語論が駆け足となったことは端的に残念である――、聴衆それぞれを夢想に誘って発見術的な楽しみに満ちた発表であったことを特記しておきたい。

最後の発表者である河田亜矢子氏は、独創的なキュレーターとして名高いハラルト・ゼーマンによる『独身者の機械』展(1975-77年)を仔細に検討した。まずは、着想源となったミシェル・ルカージュの《大ガラス》論、とくにその「近代の神話」という主題との関係で展示企図が論じられ、実際の構成を丹念に紹介する中盤がつづいた。批評的主題を「視覚化」する試みの意義をそのものとして問うた後半では、デュシャン作品における「投影」との類比、理念としてのクンストカマー、「機械」の再接合をつうじた「神話」の賦活といった多くの魅惑的な論点が示された。方法的側面への言及がもう少しく加えられたなら、各主題の魅力的な輪郭がいっそう鮮やかに浮き上がったかもしれない。

質疑では、それぞれの発表について、作家性とアイロニー、詩と歌の関係、また小説形式の歴史性、展示と場所の相互作用といった問題が提起されたが、応答はそろって濃やかなものであった。対象と方法は実に多様であったが、「雑然」という印象からは遠く、芸術に課されるフレームと芸術がみずから組み直すフレームの絡み合いを問う姿勢が各発表を貫いていた。本学会にふさわしいパネルであったと率直に思う。

森元庸介(東京大学)

【発表概要】

イリヤ・カバコフ作品における〈ゴミ〉と〈コレクション〉
藤田瑞穂(京都芸術センター/大阪大学)

イリヤ・カバコフ(1933~)は、ソビエトを出てから現在に至るまで〈トータル・インスタレーション〉形式の作品を発表し続けている。その初期の作品で繰り返し取り上げられるテーマに〈ゴミ〉がある。彼は〈ゴミ〉について「人生というほんとうの、唯一真実な織物を織り上げているように感じられる」いわば現実の生活を物語るものだと語る。「けっしてなにも捨てなかった男」(1988)では、ありとあらゆる〈ゴミ〉が男によって蒐集され、秩序に従って並べられた部屋が描かれている。カバコフの近年の作品群は、ソビエトの文脈を離れてより幅広いテーマを持つようになったと考えられているが、〈ゴミ〉から連想される過去、記憶、つまり何を記憶として保存すべきか、という問題は常にカバコフ作品の根底を流れている。ここで、「けっして何も捨てなかった男」において、蒐集された〈ゴミ〉が〈コレクション〉として表現されていることに注目したい。この〈コレクション〉というテーマは、美術館の中に美術館を作る、またアーティスト自らがキュレーターの役割を担う、といったカバコフの表現手法にもつながる。本発表は、〈ゴミ〉に関しての考察から始まり、カバコフの〈トータル・インスタレーション〉作品の通奏低音ともなっている〈コレクション〉とは何か、ひいては美術館とは何かという、カバコフの問いかけを探る試みである。

〈近代の神話〉の視覚化──ハラルト・ゼーマン企画〈独身者の機械〉展をめぐって
河田亜也子(東京大学)

〈独身者の機械〉展(1975年/クンストハレ・ベルン)は、キュレーター、ハラルト・ゼーマン(1933−2005年)が企画した代表的な展覧会の一つである。本発表は、この展覧会の展示構成と背景となるコンセプトを読み解きながら、展覧会という媒体を用いて「近代の神話」を3次元的に視覚化することを目論んだこの企画の可能性を考察するものである。

この展覧会は、ミッシェル・カルージュがその著作『独身者の機械――未来のイヴ、さえも…』で展開する「近代の神話」を基調にして、マルセル・デュシャンの《大ガラス》をはじめとする芸術作品や資料を産業社会でいうところの生産的な意味を持たない機械や無用な発明品として展覧している。その際、書物から展覧会へと媒体を変えながら、カルージュがその著作でとる論法をゼーマンは展覧会という形で踏襲している。また同時に本展が、デュシャンによる推論を元にして3次元に投影される「4次元」という空想的な事象を展示物の背後に浮かびあがらせようとする、ある種不可能で遊戯的な試みであったという事実も、書物から展覧会へ展開した意味として大きい。

近代科学の産物である「機械」を内に含み、近代精神のもとにある「独身者の機械」という(それ自体は前近代的なものである)「神話」は、その非合理の遊戯性によって近代に亀裂を入れる可能性をはらむ。具体的な展示物によってその「神話」を空間的に出現させた本展を、方法的な観点から掘り下げたい。

物語文の中の詩について
串田純一(東京大学)

発表者は、先頃発表した宮沢賢治に関する小論(「生き物たちと詩を待つ人間」『ユリイカ』2011年7月号)等において「物語の内部における詩歌とはどのような存在論的性格を持っているか、あるいは持ちうるのか」という一般性の高い問題に遭遇した。これに対しては多様なアプローチが可能だと思われるのだが、実際にはバルトやトドロフ等の第一人者を含めこれまでの文学理論にはこの問題を主題としたものがほとんど見当たらない。その最大の理由は、少なくとも西洋においてはアリストテレスの『詩学』以来の〈叙事詩・抒情詩・悲劇〉という詩の古典的三大ジャンルの規範が極めて強力であり、散文の小説や物語はあくまでもそれからの逸脱として理解され、また後者の興隆に近代的市民社会の特性を見るという姿勢が主流を成して来たことにあると思われる(ただしバフチンには興味深い記述がある)。そしてこの傾向は日本も例外ではない。そこで本発表では、まず広く問題の提起そのものを行わねばならないが、その際より具体的な或る一つの問いを立て、物語のなかの詩歌に可能な振舞いとその物語全体の虚構性の関係や、この虚構性自身とそのつどの歴史的環境の制約などの問題を取り出したい。具体的に扱うのは賢治の「ポラーノの広場」や日本の古典文学の事例などになるが、これは技術的制約のためであり日本文学の西洋に対する特異性を主張するものではなく、差し当たって問題はあくまでも構造的・理論的に扱われねばならないと考える。

藤田瑞穂

河田亜也子

串田純一

森元庸介