PRE・face

その人の「海」から宝珠を潜き上げる能を再演させる

原瑠璃彦

今号の小特集は「評伝的なるもの」をテーマとしている。昨年『磯崎新論』という「評伝的なる」大著を上梓され、これまでにもアビ・ヴァールブルク、ジルベール・クラヴェル、デヴィッド・ボウイといった多様な人々について大著を書かれて来られた田中純氏のロング・インタビューとともに、思想・哲学分野から、目下『群像』で「九鬼周造論」を連載されている星野太氏、また、映画研究から『評伝ジャン・ユスターシュ──映画は人生のように』の須藤健太郎氏、そして美術史分野から『ジョルジョ・ヴァザーリと美術家の顕彰──16世紀後半フィレンツェにおける記憶のパトロネージ』の古川萌氏の3者にご寄稿いただいている。須藤氏と古川氏の著書は当学会の賞の受賞作でもある。それぞれの内容にリンクするところも多々あり、種々の示唆に満ちているため、ぜひ多くの方にお読みいただければ幸いである。

今回、「評伝的なるもの」という少々曖昧な言葉を掲げることとなったが、各内容をご覧いただければ、むしろ「評伝」というものに対して批判的な立ち位置にあること、言ってみれば、「評伝」というものを一度避けることによって新たな「評伝的なるもの」を創出する、という共通項があることにお気づきになるだろう。そういう意味では、「評伝」は今日なおアップデートされており、今後「評伝」に替わる言葉が成立してゆくのかもしれない。「小特集」ゆえ今回の企画はひとつの問いの投げかけであり、まとまった結論に至っているわけではないが、今後こうした議論が盛んになるようなことがあれば嬉しい。

ところで、かく言う私は、別にいわゆる「評伝的なるもの」に関わるかたちで研究を行ってきたわけではない。もっぱら私が対象としてきたのは、庭や洲浜、白い布といった、誰がつくったのかもよく分からない対象ばかりである。早い段階から、一人の作家、アーティストを徹底的に研究するというモチベーションはあまりなかった。(もちろん、そういう人に興味がないわけでは全くない。)ただ、「人」単位で追求するなかではすり抜けてしまうような、扱いにくい対象を追うことを自分に課すという、自分でもよく分からない動機が常にあった。庭にしたって、作庭家との関連で論じられるのはごく一部であり、庭の本質は、むしろ作庭家の意図しない、把握できない、コントロールできないところにあると考えている。能にしても、世阿弥のなしたことはとてつもなく大きいが、しかし、それが現代に伝承されてくるプロセスでは、いまとなっては誰だか分からない無数の人々の手が加わっている。

田中氏のインタビューのなかでヴァルター・ベンヤミンによる「有名な人より無名な人々の記憶に敬意を払うことの方が難しい。歴史の構築は無名の人々の記憶に捧げられている」という言葉が語られているが、そういう意味では、私が関心があるのは「無名な人の記憶」の方なのかもしれない。もちろん、それらを論じてゆくなかで「有名な人」に全く触れていないわけではない。拙著『洲浜論』であれば、たとえば藤原頼通といった重要人物の歩みは肝にある。しかし、そうした「有名な人」たちだけでは回収しきれない、かつ、いまとなっては誰なのか分からない無数の人々の手の関わった領域が途方もなくあり、危険ながらもそこに手を出さずには、洲浜のようなものを論じることはできない。

「評伝」の対象は必ずしも人だけではないだろう。たとえば、一種類のキノコを徹底的に研究した書籍であるなら、それはそのキノコの「評伝」と言えるのかもしれない。胡蝶の精が舞ったり、杜若の精があらわれる能があり、また、人だけでなく、草木や小石の成仏を説く思想があるのなら、そうしたものの「評伝」もあり得るだろう。そういう意味では、拙著とは、人だけではない、あらゆる無名のものの記憶の蓄積である海辺の表象の「評伝」を試みたものだったかもしれない。海辺とは、長い時間をかけて岩石が砕かれたものの集積であり、そこには貝殻や種々の生物の死骸の断片も含まれる。人を含むあらゆるものが「散り散りバラバラ」になって堆積したものが海辺である。そして、そこには常に波が寄せては返し、常に揺れ動いている。

あるいは、私が2019年から進めている庭園アーカイヴ・プロジェクトという、日本庭園の総合的なアーカイヴを開発する共同研究も、言ってみれば、ひとつの日本庭園の「評伝」を、3Dデータや映像などで制作してみようとする実験である。

ところで、私はいわゆる「評伝的なるもの」に関わる研究を行ってきたわけではないが、一方で、ずっと人の「語り」の聞き取りには妙に興味があり、これまでさまざまな人のインタビューを行ってきた。今回のロング・インタビューは、言ってみれば、「評伝的なるもの」の著述活動をめぐる田中純氏による「自伝的語り」である。

人の「語り」は、その人の書いたものと内容が重複していようと、また異なる印象を与える。時折、私は「この人の話を徹底的に聞きたい」と思う人がいる。多くの場合、それは、魅了されていながらも、どうも自身の理解が追いつかない、捉えきれないような感覚を持ち、それを試みるには一定の集中的な作業が必要に思われる人である。言わば、その人の思考を何とか部分的にでも自分の身体に「インストール」してみたい、というような願望がある。

今回のロング・インタビューもそうだが、人の「語り」を聞く際、私はあまり介入しない。それは、私の能力ゆえでもある。今回も下手っぴな聞き手で、とんちんかんな質問によって語り手を惑わしたところもあっただろうが、しかし、多くの場合、最初の導入だけで、あとはその人にずっと語っていただいたほうがうまく行く。

そうしてその人の「語り」を徹底的に聞くとき、私は、しばしば、その状況自体が能であるように感じる。要するに、語り手がシテであり、こちらはワキである。さらに今回の場合なら、菊間氏と二宮氏はワキツレである。かつては「シテ一人主義」といったことが言われたこともあったが、ワキは、冒頭の導入を行い、後半はずっと傍らに座って、シテの語りや舞を見守る。能における聞き手、導入者としてのワキは、よく「観客の代表」と言われるが、さらにはカウンセラー、ないし精神分析家になぞらえられることもある。シテはそのワキに過去を語り再現することで救済される。曲によっては、ワキにさらに数人ワキツレは付き添う場合もあるが、ワキツレはワキよりももっと言葉が少ない。しかし、彼らなくして能は成立しない。

要するに、私にとって、「その人の語りを徹底的に聞きたい」という願望は、その人をシテとする能を見てみたい、という願望でもある。そして、ワキ、ワキツレが目撃したそのシテの「語り」を、今度は読み物としてまとめる。言ってみれば、その人の「語り」を聞く能を再演できるようなものをつくりたいわけである。こうした「再現」をするために、いつも人の「語り」を収録するときは、録音だけでなく、映像で収録している。

さすがにいまは時間がないためやっていないが、かつては文字起こしから自分でやっていた。それはより、その人の語りに身体的に寄り沿うことになる。重複を避けたり、概要に落とし込んだような文字起こしでは意味がなく、なるべく一字一句その人の言葉をそのまま起こすことが必要で、そうすることでその人の「語り」の特徴がすくい取れる。もっとも、人に文字起こしを頼んだとしても、やはり文脈の問題もあって、細かいところの抜け落ち・聞き違いを修正してゆくことになる。そのため、撮っておいた映像を、まるで何かの重要証拠の映像さながら、何度も見返す。これによって、その「語り」の経験の解像度は事後的に高くなってゆくが、そこでは同時に、その人の脳内の襞に入り込んでいるような不思議な接近感が持たれる。それは、田中氏の言われる、「評伝的なるもの」の対象となる人と「距離がなくなる瞬間がある」ことに類するのかもしれない。その感覚はやはり、いささか憑依的である。それは、私自身が語る人に憑依しているようでもあるし、その語る人が私自身に憑依しているようでもある。

今回の記事でもそれが実現できているかどうかは心もとないが、人の「語り」をまとめるとき、文章としては破格にならないように整えるものの、なるべくその人の「語り」の臨場感があるように努めている。下手に文章として整えることによって、その語り口を没個性化させてしまっては意味がない。そのために、たとえば『吉田真一郎|白の気配』(HOSOO GALLERY、2021年)というインタビュー本では、関西弁で「語り」をまとめることを試みた。今回であれば、敬体と常体が混在しており、どちらかに統一はしていない。とくに、その人を知っている人ならば、それを読むことによって、読者の脳内でその人が語っている様子が再現されるようなことができればと願っている。もっと言えば、その語り手が、読み手に憑依するような事態である。

先に触れた庭園アーカイヴ・プロジェクトを進めるなかで、目下、直面している課題は、庭のアーカイヴは、目に見えるもの、あるいは、庭にある、ないし、あったものだけを対象にするのでは不十分だということである。端的に言えば、その庭を見守る人、とくに職人の記憶もまた対象にする必要がある。「人のなかにこそ一番大事なアーカイヴがある」とは、共同研究者だったデジタル・クリエイター、バルナ・ゲルゲイ・ペーター氏から触発されて以来、ずっと私を捉えている命題であるが、上に書いてきたようなインタビューの動機は、これとも関わっているようである。

「アーカイヴに潜り込む」というアルレット・ファルジュの言葉もロング・インタビューのなかで出た。「人のなかにこそ一番大事なアーカイヴがある」ならば、そこに切り込んでゆくプロセスは、一層、能的であるかもしれない。《海士(あま)》という能では、前シテの海人の女性は、海に潜り込み龍宮に取られた宝珠を取り戻す様子をドラマティックに再現する。こうした海人の玉取説話は、古来、各所に見えるが、能《海士》は、能というものが、人の内面、無意識の「海」に潜り込み、そこからキーとなる宝珠を潜(かづ)き上げるものであることを示唆しているように思われる。(このことを忠実に翻案した一例が、精神分析医を「ワキ」とする野田秀樹の戯曲《The Diver》(2008)である。)

ある人の「語り」を聞くという能を上演させ、それを文字によって再演させようとするとき、狙っているのは、その人のアーカイヴの「海」から宝珠を潜き上げるプロセスを再現する、ということである。能《海士》のように。もちろん、数時間のインタビューで得られるものは、情報量としては書物より劣る。しかし、そこには、ある種、濃縮されたかたちで、その人の「全体」につながるようなものが析出する。それは、その人のごく一部に過ぎなくとも、その人自身の奥深い鉱脈に通じている。そして、そこで得られた宝珠はインスピレーションに満ち、人々を新たな所業に駆り立てる。その宝珠は、読む人に新たに「憑依」、ないし「転移」する。

これが、いつからから試みている、私なりの人を対象とした「評伝的なるもの」へのアプローチかもしれない。その実践と試行錯誤はまだまだこれからであるが、今回のロング・インタビューもその試みの一つである。それが今回どれほどできているかどうか。それはお読みいただく方々の判断に委ねるほかない。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行