研究発表5
日時:2024年11月23日(土)16:30-18:00
- 『アイヌ神謠集』第一話中の詩句「銀の滴降る降るまはりに」のしたたかさ/小池陽慈(放送大学)
- 「これは暗号ではない」──メイヤスー/デリダの(非)暗号解読/髙多伊吹(東京大学)
【司会】熊谷謙介(神奈川大学)
研究発表5では、小池陽慈氏(放送大学)による「『アイヌ神謠集』第一話中の詩句「銀の滴降る降るまはりに」のしたたかさ」、髙多伊吹氏(東京大学)による「「これは暗号ではない」──メイヤスー/デリダの(非)暗号解読」の2つの研究発表が行われた。
最初の登壇者である小池氏の発表では、『アイヌ神謠集』という、知里幸惠によるカムイユカㇻの翻訳でありかつ編集・創作といってもよい作品について論じられた。冒頭の神謡「梟の神の自ら歌つた謠「銀の滴降る降るまはりに」」で繰り返される「銀の滴降る降るまはりに」という詩句は、後世、人口に膾炙しアイヌ文化を象徴する言葉となるが、物語の地の文の一部をなしているという点で、通常のサケヘ(リフレイン)とは異なる位相をもっている。それを日本語の規範やアイヌ神謡の伝統との関係で位置づけ、『神謠集』「序」に見られるような、「亡びゆく」アイヌの言語文化を後世へと継承せんとする知里幸惠の姿勢とどのような関係を結ぶのか、論証が進められた。ポストコロニアル研究の文脈から、日本語への同化の圧力を見たり、テクスト上での日本語による囲い込みをうかがったりする立場に対して、小池氏はこの詩句が文法的に逸脱していること(「降る降る」は動詞であると同時にオノマトペ=副詞である)を強調し、そこに日本語の統語のコードを揺さぶる「したたかさ」が見られることを主張している。
この非常に短い章句に、知里幸恵による逸脱の「したたかさ」を見ることの妥当性については、作品全体の分析や残されたノート等の参照なども含めて問うことが必要なように思われたが、短時間での発表という限定の多い条件のもとで、通常のテクスト分析にとどまらずに、ポストコロニアル研究の文脈も踏まえながらそれを脱構築していく起点となるような発表であった。
次の登壇者である高多氏の発表では、〈暗号なるもの〉をめぐる、メイヤスー、フーコー、デリダの戦略について論じられた。メイヤスー『数とセイレーン』は、マラルメの視覚詩「賽の一振り」について707語で構成されているという「暗号code, chiffre」を発見することで解読していく試みであったが、そこでは同時に「これは暗号でないかもしれない」という位相も示されることで、メイヤスーの解釈構造は不確定性を持ち続ける。しかしそれと同時に、こうした懐疑はどのレベルでも無限に反復可能であるがゆえに、暗号を措定することの妥当性の根拠が棄却されることはない、と高多氏は主張する。このような暗号にまつわる階層構造をフーコーによる「これはパイプではない」の分析における解読構造に見てとりつつ、アブラハム+トロークそしてデリダの分析が参照される。「クリプト化」という概念を提示した前者の夢分析の特徴は、夢を隠喩ではなく「文字」通りに受け取ることであり、デリダもまた、単語以下のレベルである綴字や韻に「暗号」、正確に言えばそれ自身の存在も不在も否認する「暗号crypte」を見出すのである。
メイヤスーとデリダの「暗号」概念は、一方ではcodeやchiffre、他方ではcrypteというように、数学や精神分析などの文脈の違いも含めて、考慮に入れる必要があるかもしれない。また、両者の唯物論的なアプローチには一見近いものがあるとしても、両者による「(非)暗号的解釈」と称されたものについて、「非」のありかたを類似したイメージでとらえてよいのかは、さらに論証を進める必要があるように思われた。とはいえ、フーコーを含めた現代思想に「暗号化への欲望」の系譜を見ようとする、野心的な発表であったことは疑いえないところである。
発表後に質疑応答と全体討議がなされた。両者の発表は文学とりわけ詩に関係しながらも、その地域やアプローチについては大きく異なるものであったが、司会とフロアから投げかけられた質問、そして発表者どうしの質問のやりとりにより、活発な議論が行われた。両発表は、日本語からもアイヌ語からも逸脱した詩句であれ、現代詩への道を切り開いた視覚詩であれ、そして「狼男」の悪夢であれ、そうしたものを「暗号化」しようとする視線のイデオロギーや力学について考える機会となったように思われる。
「『アイヌ神謠集』第一話中の詩句「銀の滴降る降るまはりに」のしたたかさ」/小池陽慈(放送大学)
知里幸惠『アイヌ神謠集』第一話中の「銀の滴降る降るまはりに」という詩句は、従来はサケヘ(地の文とは意味的に連動しないリフレインの句)と考えられてきた。しかし、中川裕は、この詩句を「二次的なサケヘ」として通常のサケヘと弁別する(「口承文芸のメカニズム」)。かつ、日本語訳の「美し」さを求めてこの詩句の前景化を図った知里が、本来のサケヘを故意に省いたという可能性にも言及する(『改訂版 アイヌの物語世界』)。
知里によるこの書き換えは、日本語訳の論理を優先してアイヌの物語を変形したという点で、『アイヌ神謠集』「序」で宣言した、アイヌの物語を後世へ継承せんとする知里自身の言葉に背反する。また、丸山隆司は同書の他の個所も挙げながら、知里による書き換えに、日本語を規範とすることを強いるコロニアルな権力の影響を読み取る(『〈アイヌ〉学の誕生』)。
だが、留意すべきは、当該の詩句が「銀の滴」及び「降る降る」という、日本語の語彙や統語としての破格を含む点である。すなわちこの詩句は、アイヌ語にも日本語にも還元し得ぬ新たな詩的領域を創造するエクリチュールなのだ。これをウィンチェスターの説く〈「差別や圧力」への「応答」としての「アイヌの創造性」(シドル『アイヌ通史』「訳者解題」〉を表象するものと読むなら、そのしたたかな柔軟性は、『アイヌ神謠集』をめぐる牧歌的なステレオタイプを棄却することになるだろう。
「これは暗号ではない」──メイヤスー/デリダの(非)暗号解読/髙多伊吹(東京大学)
カンタン・メイヤスー『数とセイレーン』(2011)は、マラルメの視覚詩「賽の一振り」をふたつの相反する水準において読解する──「これは暗号である」/「これは暗号ではない」。彼は詩を、一方でその単語の総数を数え上げることによって表れる707という数を伴とする暗号(たとえばこの数は見開きのVI頁目の語の配置において視覚的に予告されている)として紐解きながら、他方で、詩中にただ一箇所、PEUT-ÊTREという形で表れるハイフンが語数を708へとずらすことでその解釈が破綻する地点を指し示してもいる。彼によれば、あるいはこの並立こそがマラルメによって仕掛けられた(非)暗号である。同じくマラルメを好んだジャック・デリダによる暗号論「Fors」(1976)は、しかし、メイヤスーとは明らかに異なった態度を取っている。or、tr、skrといった綴字の部分に異様に拘泥したデリダの眼差しにあって、数え上げの単位としての語の地位はすでに危うい。彼にとって文字[script]に部分として組み込まれた暗号[crypte]とは、語が「コトバ」としての同一性を失って分割―変形可能な「モノ」として扱われる、語―物[mot-chose]の運動から生じるものだ。この物表象化の過程は、ミシェル・フーコーが「これはパイプではない」(1973)で描いた形態的記号と言語的記号の融解の場面へと切り返すことが出来るだろう。本発表ではフーコーを補助線としつつ、メイヤスー/デリダの(非)暗号解読、その巨視的/微視的戦略のあいだに引かれた切断線の内実を明らかにする。