オンライン研究フォーラム2024

研究発表3

報告:久保豊

日時:2024年11月23日(土)13:00-15:00

  • アニタ・エクバーグを「キャンプ」で読む──フェデリコ・フェリーニ作品を中心に/神田育也(京都大学)
  • コメディ映画作品における多層的存在としての脂肪/宮内沙也佳(立命館大学)
  • E・K・セジウィックの否定性、肛門の(非)存在論──修復的転回以降の『リング』」/長尾優希(東京藝術大学)

【司会】久保豊(金沢大学)

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本パネルでは、「キャンプと女優」、「肥満と重量」、「クィアと否定性」をキーワードに、イタリア、ハリウッド、日本の映画に関して3つの研究発表が行われた。以下、司会の立場からそれぞれの発表について要約する。

神田育也氏(京都大学)の「アニタ・エクバーグを「キャンプ」で読む──フェデリコ・フェリーニ作品を中心に」は、女優アニタ・エクバーグのパフォーマンスに焦点を当て、クィアな関心との交差が暗示されてきたフェデリコ・フェリーニの作家研究をキャンプの観点から更新するものであった。フェリーニの発言やスーザン・ソンタグの「<キャンプ>についてのノート」を参照し、『甘い生活』にみるエクバーグのパロディ化に触れ、彼女がそれ以降の作品で素朴なキャンプと意図的なキャンプの境界を揺るがす存在として、性や身体をユーモラスにパロディ化する役割を意図的に与えられて描かれていたことが明かされた。つづけて神田氏は、キャンプが有するミソジニーやギルティ・プレジャーの側面に言及し、作り手と受け手が共犯関係的にキャンプを創出する「場」の重要性を指摘した。フェリーニのメタ映画的特徴も鋭く分析する神田氏の発表は、キャンプの理論的可能性を広げ、フェリーニ研究に新たな視点を見事に提示した。

宮内沙也佳氏(立命館大学)の「コメディ映画作品における多層的存在としての脂肪」は、1990年代から2000年代に公開されたハリウッドのコメディ映画における「軽い」肥満表象を分析した。そのなかで宮内氏は、コメディ映画において肥満や脂肪は、制御できない身体性という不器用さが強調される傾向に加えて、重力の喪失を通じて笑いを生み出すという、多層的な存在として描かれる傾向を指摘した。その傾向を示すために、具体的な作品を挙げながら、脂肪が身体の内部に「外部性」を持つ多層的空間を生み出し、ときに軽量性が強調される肥満表象は非人間的な存在として、従来の「重い」肥満身体とは異なる役割をジャンル横断的に発揮するという新しい視点を提供した。今後の課題として、肥満表象の形象がジャンル間でどのように揺らぎを見せるか、特に「膨らむ」身体の意味についてさらなる分析の必要性が示唆された。

長尾優希氏(東京藝術大学)の「E・K・セジウィックの否定性、肛門の(非)存在論──修復的転回以降の『リング』」は、中田秀夫の映画『リング』をクィア理論およびクィア批評の視点から分析し、貞子のクィアネスを「隠す」空間であり肛門を象徴する井戸を掘り起こす行為に対する新たな読解を提示するものであった。井戸が象徴しうるクィアネスと否定性に注目する長尾氏の分析によれば、主人公の浅川と元夫の高山が「呪いのビデオ」の謎を解き明かそうとする過程および浅川が貞子の遺体を抱擁する描写は、パラノイア的読解(隠された意味を暴露する手法)と修復的読解(癒しと再生を志向する手法)の両方を意味する。これらの読解は対立しつつも、『リング』においては複雑に絡み合うばかりか、そのどちらでもない新たな読解の可能性、つまりクィアネスを「知ることの限界」として再考することで、批評行為そのものの再定義が試みられた。長尾氏が『リング』を通じて示した読解の実践は、単なる物語の解釈を超え、抑圧されたクィアネスや主体性の再発見につながる重要なモデルとなるだろう。

以上、三者の発表は時間通りに行なわれ、最後に30分の全体討議を設けた。残念ながらフロアからの質問は出なかったものの、三者の発表は理論や関心で重なる部分が多くあり、今後の理論的な発展と更新を大きく期待させる刺激的な発表であった。


アニタ・エクバーグを「キャンプ」で読む──フェデリコ・フェリーニ作品を中心に/神田育也(京都大学)

アニタ・エクバーグ(1931-2015)はスウェーデン出身の映画女優であり、1950年代にハリウッドで活動をスタートさせた後、1960年代以降はイタリア映画を主戦場とした。イタリア進出のきっかけとなった作品がフェデリコ・フェリーニの『甘い生活』である。この映画でエクバーグは持ち前のセックス ・アピールを活用し、メエ・ウェスト、マリリン・モンロー、エヴァ・ガードナーらハリウッド女優をパロディ化する形で役「シルヴィア・ランク」を練り上げた。
ウェスト、モンロー、ガードナー、エクバーグ。これら女優に共通するのは、女性性を人工的なまでに強調した「キャンプ」を誘発する点である。実際、スーザン・ソンタグによる記念碑的論考「《キャンプ》についてのノート」にはエクバーグに関する言及がある。本発表では、エクバーグが出演したフェリーニ作品を中心に、彼女のキャンピーな側面を考察する。ファビオ・クレトによるキャンプ概念の整理を参照しつつ、エクバーグの実践を、いくつかの理論的枠組み-ソンタグの「意図的/素朴的」キャンプの区別、アンドリュー・ロスの「キャンプの使用」、エスター・ニュートンのキャンプとドラァグの違い-から論じる。さらに上で得た洞察を、ハリウッドに対するイタリア映画の距離化、フェリーニのメタ映画的特徴と結びつけ、エクバーグの映画史的・美学的可能性を模索する。

コメディ映画作品における多層的存在としての脂肪/宮内沙也佳(立命館大学)

本発表は、ハリウッド映画のコメディ作品における超肥満表象を物質性の観点から分析する。超肥満は通常、圧倒的な重量感や物質的な存在感を伴うが、コメディ映画ではしばしば風船のように軽々しく描かれる。そのような描写では、肥満が現実の物理的な制約や不自由さを無視し、誇張された動きを見せることで、視覚的なユーモアやコミカルな効果が強調される。たとえば『ナッティ・プロフェッサー』(1996)に登場する肥満キャラクターは、巨体にもかかわらず軽快に動き、超肥満の重量感が排除された身体として描かれている。
アメリカを中心に蓄積されてきたFat Studiesは肥満の医学言説を批判する立場をとり、肥満のスティグマ解消を目的に発展してきた。しかし、そこでは主に肥満表象のアイデンティティが議論の俎上に上げられてきた。そこで本発表では、身体の全体やアイデンティティを指す「肥満」と身体の部分や物質を指す「脂肪」とに区別し、後者に比重を置いて議論を進める。これまで肥満表象研究では、脂肪は男女や社会階級、年齢をも越境する機能を果たすと指摘されている(Gilman 2004; Richardson 2012; Plotz 2020)。これらの先行研究に基づき、過剰な脂肪をもつ超肥満表象が重量感を欠如したものとして描かれることを追求する。
超肥満表象の重量感に着目し、過剰な脂肪が人間/非人間の境界を越境する多層的存在として機能することを明らかにすることが本発表の目的である。

E・K・セジウィックの否定性、肛門の(非)存在論──修復的転回以降の『リング』」/長尾優希(東京藝術大学)

クィア理論家イヴ・コソフスキー・セジウィックのエッセイ「パラノイア的読解と修復的読解」(2003年)は従来の読解のあり方に疑義を呈し、広く人文学で「修復的」、「記述的」、「ポスト解釈学的」、「ポストクリティーク的」転回と呼ばれる契機となった。この論考は、隠された真理を暴くという従来の「パラノイア的」な批評に代わって、マイノリティの主体が生存しうるような全体性をテクストから組み上げる「修復」を呼びかけると同時に、その全体性が破砕する否定性を見いだすことができる。その後の反応はしかし、「修復」を称揚する立場か「パラノイア」を擁護する立場に二分され、セジウィックの否定性が十分に議論されてきたとは言いがたい。
本発表はまず、肛門愛を否定性の中心に見たD. A.ミラーやリー・エーデルマンをはじめとするクィア理論の系譜を、セジウィックの論じた肛門愛と比較する。これを踏まえて、浅川玲子と高山竜司という2人の主人公が「パラノイア的」・「修復的」いずれの特徴も併せ持つ映画、中田秀夫監督による『リング』(1998年)に目を転じ、井戸という「深層」に沈む山村貞子の遺体を掘り起こすシークエンスを分析することで、セジウィックの提示した二つの批評のモードがいずれも否定性を昇華することで成立していることを指摘する。そのうえで、「呪いのビデオ」を見た人間を写真に撮ると顔貌が歪むという『リング』の別な要素に注意を移し、「パラノイア的」でも「修復的」でもない第三の批評の倫理が、「パラノイア的読解と修復的読解」での「先回り」を拒否するという否定性の身振りに示されていたことを明らかにする。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年2月23日 発行