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表象と写象

大久保遼

「表象」という訳語は、1912年(明治45年)1月に刊行された『英独仏和 哲学字彙』の編纂過程で元良勇次郎によって考案されたと言われている。「言われている」と書いたのは、井上哲次郎が後年そのように回想しているからだ。井上は、もともとVorstellungを「写象」と訳していたが、元良が提案した「表象」という訳語のほうが適当であると考え、それを採用したのだという。

しかしながら、この井上の回想は事実とは異なる。表象という訳語自体は、『英独仏和 哲学字彙』以前にも使われているからだ。西周が翻訳したジョセフ・ヘブンの『心理学』(1878年)のなかですでに表象という言葉は使われているし、そもそも井上自身、アレクサンダー・ベインの『心理新説』(1882年)の抄訳のなかで表象の語を使っている。

にもかかわらず、「表象」という訳語を元良が考案したという井上の回想は、ある意味正しい。なぜなら、『英独仏和 哲学字彙』の編纂過程において、元良によってVorstellungが表象と訳され、さらに独語のVorstellung、英語のrepresentation、仏語のrépresentationを貫く訳語の一つとして表象が位置づけられたからである。

1878年の『心理学』は、漢語の表象を翻訳語として用いた早い例だと思われるが、西は表象をもっぱらexpressionの訳語として用いており、この点は『心理新説』も同様である。また『英独仏和 哲学字彙』の前身にあたる1881年の『哲学字彙』と1884年の『改訂増補 哲学字彙』では、representationは再現力、Vorstellungは観念と訳され、manifestationに表象(表像)の訳語が当てられている。1880年代において、表象という言葉自体は散見されるが、それは未だ確たる場所を見出していない。

それでは、元良自身の議論のなかで表象はいかに位置づけられているか。1890年の『心理学』では、管見の限り、表象という言葉は使われていない。代わりに頻出するのが「心像」という言葉である。元良によれば、外物が五官を刺激することで生じた感覚が結合することで複雑な観念を形成するが、この観念は知覚、心像、抽象的観念の3つに分類することができる。知覚、心像、抽象的観念の三者は、喩えるならば、それぞれ実形、実形の影像や絵画、影像を構成する材料や絵画の下絵、絵具にあたるという。

一方、1893年の『倫理学』や1897年の『心理学十回講義』において頻出するようになるのが表象という言葉である。元良は『倫理学』において、知覚(感覚)、心像、抽象的観念(概念)の三分類に加えて、感覚、表象、観念の三分類を使用するようになる。元良は、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトおよびヘルバルト派の心理学によれば「心ノ現象ハ凡テ観念(Vorstellung)」であるとした上で、観念をさらに自覚の有無に関係なく存在する表象と、自覚の範囲内にある観念に分けて把握している。

これに対し、『心理学十回講義』においては、より明確に「へるばるとハ、表象ヲ以テ精神現象ノ根本トナセリ」、「へるばるとハ表象(フヲルシュテルグ)ト云フコトヲ主唱セリ」と書き記していることから、この時期に『倫理学』では観念と訳していたVorstellungを部分的に表象と訳すようになったものと思われる。また元良は1898年から翌年にかけてヴィルヘルム・ヴントの『心理学概論』の翻訳に携わっており、「心理学カ考究セントスルトコロノ表象」といった箇所でVorstellungを表象と訳している。

どうやら元良は、1890年代後半のある時期からVorstellungを中心的な対象に据えるヘルバルトやヴントの心理学を導入する過程で、Vorstellungに表象という訳語を与え、以後晩年に至るまで表象という言葉を使うようになった。したがって、カント的な主体が構成するVorstellungに先立って、ジョナサン・クレーリーがその転倒と呼ぶもの、すなわち、身体の生理学的組織によって形成される不確かなVorstellungに対して、表象の名が与えられたと言えるだろう。こうした心理学における表象の文脈を、元良は『英独仏和 哲学字彙』に持ち込んだのである。

元良は1912年(大正元年)12月、『英独仏和 哲学字彙』が刊行された年の暮れにカリエスと丹毒の併発による衰弱で死去している。編纂作業に携わっていた時期から痛みを訴えていたようで、刊行の2ヶ月後にはカリエスの診断を受け、入院と手術を繰り返すようになった。それゆえ『英独仏和 哲学字彙』における「表象」という訳語の確定は、元良の最晩年の仕事に属すると言えるが、そのタイミングがわずかにずれていれば、そもそも元良は編纂作業に参加することができなかったかもしれない。その場合、井上によってVorstellungには写象という訳語が与えられ、表象にはまた別の意味が付与されていたのかもしれない。

もちろん、元良一人いようがいまいが、遅かれ早かれ、表象はしかるべき意味を獲得していた可能性もありうる。私は翻訳論や言語学の専門家ではないし、この件について網羅的な調査を行なっているわけでもないから、これ以上の議論を展開することはできない。ただ、現在に至ってもなお謎めいた広がりを持つ表象という言葉の来歴にかんする一挿話を、この場を借りて記しておくのみである。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年2月23日 発行