研究ノート

文化と自然の二項対立は誤りなのか レオ・スタインバーグ「他の批評基準」再考

柴山陽生

1 自然から文化へ

美術批評家のレオ・スタインバーグは「他の批評基準」で、ロバート・ラウシェンバーグに代表される「ポストモダニズム絵画」を擁護し、それまでの──プレ・モダニズム、モダニズム──絵画からポストモダニズム絵画への移行を、「自然から文化へ」と表現した。

[・・・]これらの絵はもはや垂直の場ではなく、不透明な水平の平台(フラットベッド)を擬態(シミュレート)する。それらは新聞紙と同じように、人間の体勢に適った頭からつま先へという方向に左右されない。したがってその平台型絵画平面が象徴的に暗示するものは、テーブルの天板やアトリエの床、図面、あるいは掲示板のような固い面となる。こうした受容器(レセプタ)としての面の上には種々のものが散りばめられ、データが記入される。またこの面は情報を──整然とだろうと混沌のうちにだろうと──受け止めることもあれば、情報はその上に印刷され、刻印されることがあるかもしれない。つまりこの[1950年ごろから数えて]15年から20年の間の絵画は、根本的(ラディカル)に新しい方向を打ち出しているのだ。そこでは絵具を塗られた面は、もはや視覚による自然の体験とではなく、人為的な操作の過程と相同するものとなる*1

ここでスタインバーグはラウシェンバーグの絵画を、「平台(フラットベッド)」などに例え、そこに「種々のものが散りばめられ、データが記入され」ていることを論じている。それまでの絵画が「視覚による自然の体験」と相同したものだったのに対し、ポストモダニズム絵画は「人為的な操作の過程と相同するもの」である点で「文化」を主題としているのだ。

*1 Leo Steinberg, “Other Criteria,” Other Criteria: Confrontations with Twentieth Century Art. New York: Oxford University Press, 1972, p. 84. [レオ・スタインバーグ、林卓行訳「他の批評基準」『美術手帖』49(3)、1997年、180-181頁。]

以下では、始めに「他の批評基準」における文化と自然の二項対立の発想が、どのようにポストモダン美術批評によって「修正」されていったかを確認する。それから、ラウシェンバーグの《グローイング・ペインティング》についてのスタインバーグの批評に焦点を当てることで、彼の議論の意義を再考することを試みる。

2 ポストモダン美術批評における自然と文化

そのスタインバーグの議論は、いわゆるポストモダン美術批評に大きな影響を与えた。しかし同時に、その美術批評家たち──ダグラス・クリンプ、クレイグ・オーウェンス、そしてロザリンド・クラウスら──はその「自然から文化へ」という発想をいわばナイーブなものとして、ある種の一元論を主張した。彼らがそこで拠り所にしたのは、「写真」(的芸術)だ。

クリンプは「美術館の廃墟に」で、「スタインバーグはまだ「ポストモダニズム」という語がきわめて広い含みを持つことを正確に把握することができなかった*2」としながら、ラウシェンバーグによって、巨匠(オールド・マスターズ)の絵画の複製写真を「取り上げ、引用し、抜粋し、積み重ね、競合させる活動*3」がおこなわれたことについて論じている*4。つまり、クリンプはそこで、ラウシェンバーグが──「他の批評基準」において「自然」のものだとされる──絵画(の複製写真)を自身の絵画平面上に取り込んでいることを重視して、「ポストモダニズム」を再考しているのだ。

*2 Douglas Crimp. “On the Museum’s Ruins,” October, 13, 1980, p. 44. [ダグラス・クリンプ、吉岡洋訳「美術館の廃墟に」『反美学』ハル・フォスター編、1987年、84頁。]
*3 Ibid., p. 56. [97頁。]
*4 クリンプは、のちに「ポストモダニズムの写真的活動」でもポストモダン美術における「写真」の重要性を論じている。Douglas Crimp. “The Photographic Activity of Postmodernism,” October, 15, 1980, pp.91-101参照。

オーウェンスは「アレゴリー的衝動:ポストモダニズムの理論に向けて(第2部)」で、ラウシェンバーグとポストモダニズムの結びつきを認めながらも、スタインバーグに批判的に言及している。というのも、スタインバーグの想定する文化と自然の二項対立は、「ポストモダンのアーティストたちにとって──ボスト構造主義の分野で彼らに対応する論者たちにとってはもちろんのこと──転覆すべき前提だ*5」からだ。そこでオーウェンスは、シェリー・レヴィーンによる「自然」の写真のアプロプリエーションを論じながら、「ポストモダニズムのアートでは、自然は文化によって完全に飼いならされたものとして扱われる*6」と主張している。

*5 Craig Owens, “The Allegorical Impulse: Toward a Theory of Postmodernism,” October, 13, 1980, p. 65. [クレイグ・オーウェンス、新藤淳訳「アレゴリー的衝動:ポストモダニズムの理論に向けて(第2部)」『ゲンロン』3、2016年、276頁。]
*6 Ibid., p.65. [276頁。]

クラウスは「ラウシェンバーグ、具体化されたイメージ」で、スタインバーグの「平台」についての指摘に「まったく賛成だが、ここでは少し違った方向から考えてみよう*7」と述べ、ラウシェンバーグの作品が「記憶の空間」を持つということを論じている。その記憶の場(フィールド)とは、個人的なものではなく「共有の文化から生ずる集合的なもの*8」だとされる。

*7 Rosalind Krauss. “Rauschenberg and the Materialized Image.” Artforum. 13 (4), 1974, p. 40. [ロザリンド・クラウス、石田和子訳「ラウシェンバーグ、具体化されたイメージ」『美術手帖』524、166頁]
*8 Ibid., p.43. [169頁。] 強調引用者

その後、クラウスは「シュルレアリスムの写真的条件」で、シュルレアリスム(の時代)における「再現=表象‐としての‐自然、記号‐としての‐自然」について論じている*9が、「ラウシェンバーグと具体化されたイメージ」における議論がスタインバーグの批評に反するものへと展開されるのは、のちの「パーペチュアル・インベントリー」においてだ。そこでクラウスは、1960年代初頭にラウシェンバーグが「絵画のメディウムを写真的なものとして再考*10」したと述べている。その時期の作品には、「視覚による自然の体験」をもたらす写真や古典絵画のイメージが組み込まれている*11が、それらは「記憶」(または夢、空想)空間のものだとされる*12。やはりクラウスによっても自然は文化の一部とみなされているのだ*13

*9 Rosalind Krauss. “The Photographic Conditions of Surrealism.” October. 19, 1981, pp. 3-34. [ロザリンド・E・クラウス、谷川渥・小西信之訳「シュルレアリスムの写真的条件」『アヴァンギャルドのオリジナリティ』月曜社、2021年、136-177頁。]なお、そこでクラウスが援用する二つの類似した理論──デリダとレヴィ=ストロースの理論──のあいだには、それでも決定的な差異があり、その点でクラウスの主張には矛盾があると論じることができる。
*10 Rosalind Krauss, “Perpetual Inventory.” Robert Rauschenberg: A Retrospective. Eds. Walter Hopps and Susan Davidson. New York: Solomon R. Guggenheim Museum, 1997, p. 221.
*11 このこと自体はスタインバーグも指摘している。Leo Steinberg, op. cit., pp. 87-88 [183頁]参照。
*12 Rosalind Krauss, op. cit., p.216.
*13 なお、クラウスは別の論考で、「水平性」を「文化」批判としても読み直している。Yves-Alan Bois & Rosalind Krauss, Formless: A User’s Guide, Cambridge: the MIT Press, 1997, pp. 93-103. [イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス、加治屋健司ほか訳『アンフォルム:無形なものの事典』月曜社、2011年、106-115頁]参照。

3 文化と自然の二項対立は誤りなのか:ロバート・ラウシェンバーグ《グローイング・ペインティング(Growing Painting)》

しかし本当に文化と自然の二項対立は誤りなのか。ポストモダン以後の現代においてもなお思考されるべき「自然」があるのではないか。

ラウシェンバーグはかつて、土と植生からなる「絵画」、《グローイング・ペインティング(Growing Painting)》(1953)を制作した。それは展示中にも定期的に水やりを必要とする絵画であり、まさにスタインバーグが「他の批評基準」において「自然から文化への転換」がおこなわれていると表現した作品の一つだ。

彼[ラウシェンバーグ]は「芸術における自然」という懐古的なテーマを掲げたある展覧会に招かれて参加している──企画者はおそらく、新しい抽象絵画に対する別の選択肢を打ち出せれば、と思ったのだろう。ラウシェンバークが出品したのは、地面の一部を、したいにそこに生えている草が伸びるように[土ごと]正方形に切り出し鶏小屋を囲う金網で封じ込めたもので、これはさらに額に入れたり壁に掛けたりするのに便利なように、箱の中に収められた。作家は作品に水をやるために定期的に展覧会を訪れた──角度を90度変えることによる、自然から文化/栽培(カルチュア)への転換である*14

ここでスタインバーグが論じているのは、いわば存在論的な転換についてではなく、何度も繰り返される「人為的な操作」としての転換についてだ(やはり彼は自然と文化の二項対立を前提としている)。そしてその文化的行為とは栽培であり、いわばケアの行為だ。

*14 Leo Steinberg, op. cit., pp. 85-86. [182-183頁。]

しかし、直にその「絵画」に限界が来る。バーバラ・ローズによるインタビューによると、展覧会ののちにその植生は、ラウシェンバーグの暖房のない住居内で枯れつつ(dying)あった*15。彼は友人へのクリスマスプレゼント用に「二匹の美しい白ネズミ」を買った。しかし、そのとき機嫌が悪かった(out of sorts)友人によって会うのを拒否されたため、ラウシェンバーグは白ネズミを渡すことができず、住居内でその日の夜のうちに凍死させてしまった。そしてその後、彼は《グローイング・ペインティング》を破壊したという(なぜそうしたのかについては明確に説明されていないが、当時は誰もその作品に特に興味を持っていなかったということだけは語られている)。

*15 Robert Rauschenberg & Barbara Rose, Robert Rauschenberg, New York: Random House Inc., 1987, pp. 61-62.

このストーリーが伝えているのは、生きた自然、動植物は、「文化」の関わる領域で、常に──誰か、何かによる──ケアを必要とし、常に死につつあり、常に死にうる(誰か、何かによって殺されうる)ということだ。

このことをポストモダン美術批評における写真論に基づいて考えることはできない。彼らは自然の「自立」を認めていないからだ(なお、それは「自律」とは異なる*16)。もちろん「他の批評基準」における文化と自然に関する議論が、この世界で起きていることのすべての問題を説明したり、解決したりするといったことはありえないだろう──そもそもあらゆる文化が芸術であるわけではないし、芸術があらゆる「自然」に関与することができるわけでもないのだから。その意味でその議論にもまた、ポストモダン美術批評と同じように限界がある。しかし、それでもスタインバーグの論じた文化と自然の二項対立、そしてその両者の関わり合いは、いまだ重要なことを示唆しているのだと強調したい。それは「倫理」の問題に関わるのだ。上のエピソードは、ある動植物はどのような環境で生きることができるか、その存在をどのように生かし、死なせるべき(でない)かといったことに関わっている(おそらくラウシェンバーグの(非)行為は、少なくとも最適なものではなかったはずだ)。

*16 沢山遼は《グローイング・ペインティング》を「フレーミングされた「自然」」だと述べ、ある種「自立」したものとして解釈しているが、本論の解釈はそれと近いものだ。しかし、沢山はさらに、「植物の成長を見届ける」や「自動生成システム」といった表現によって、その「自律」性をも示唆しようとしている。沢山遼「差異と関係:ジョセフ・アルバースとブラック・マウンテン・カレッジ」『絵画の力学』書肆侃侃房、2020年、90頁参照。

しかしその議論は《グローイング・ペインティング》以外の作品にはどのように関係しているのか。この問いに答えるには慎重な検討を必要とするだろう。ただ、ここで「写真」については言及しておきたい。私が主張したいのは、必ずしも写真自体が文化と自然の二項対立に基づく考え方と折り合いがつかないというわけではないということだ。この世界には、そもそも複数の種類の写真があるが、同時に写真に関するいくつもの歴史や文化があり、無数の「写」された、「写」されるべき「自然」がある──それらと真剣に向き合うようにして思考しなければならない。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年10月5日 発行