研究ノート

アーシュラ・K・ルグィン『所有せざる人々』のアナキズム的な再読のために*1

小田透

*1 Ursula Kroeber Le Guinの日本語転記は訳書によって異なっているが、ここでは佐々木真理の画期的なルグィン論『アーシュラ・K・ルグィン──新たなる帰還』(三修社、2024年)を踏襲し、「アーシュラ・K・ルグィン」を使用する。

アナキストとは何者か。選び、選んだことの責任を受け入れる者。*2

オドー主義はアナキズムである。[…]アナキズムの最重要の標的は権威主義的国家(資本主義、社会主義を問わず)であり、最重要の道徳‐実践上の主題は協力(連帯、相互扶助)である。これはあらゆる政治理論のなかで最も理想主義的であり、わたしにとっては最も興味深いものである。*3

*2 Ursula K. Le Guin, “The Day before the Revolution,” Ursula K. Le Guin: Hainish Novels & Stories Volume I, edited by Brain Attebery (The Library of America, 2017), p. 985.(アーシュラ・K・ル・グウィン「革命前夜」『風の十二方位』小尾芙佐・他訳(早川文庫、1980年)438頁)本研究ノートで引用する邦訳は、文脈にあわせて適宜変更している場合がある。
*3 Le Guin, “The Day before the Revolution,” p. 285.(ル・グウィン「革命前夜」421-22頁)

20世紀のアメリカ作家アーシュラ・ルグィン(1929-2018)による『所有せざる人々(The Dispossessed)』(1974)は、「痩せた顔、大きな目、大きな耳」を持つ天才的な時間物理学者シェヴェック──原爆の開発製造を目指すマンハッタン計画を主導した理論物理学者ロバート・オッペンハイマーを思わせるキャラクター──が、みずからの科学理論を自由に研究し、完成させるために、生まれ故郷である惑星アナレスを後にして双子惑星のウラスへと向かい、完成させた理論を全宇宙と共有し、そしてふたたびアナレスに帰還する、自己探究と世界変容の物語である *4

*4 Ursula Le Guin, “SF and Mrs. Brown,” The Language of the Night: Essays on Writing, Science Fiction, and Fantasy (Scribner, 2024), p. 107.(アーシュラ・K.ル=グウィン「SFとミセス・ブラウン」『夜の言葉──ファンタジー・SF論』山田和子他訳(岩波書店、2006年)261頁)

「多義的なユートピア(An Ambiguous Utopia)」という副題を持つ本作は、トマス・モアの『ユートピア』(1516)に代表されるユートピア文学の系譜に連なる作品だが、そのようなジャンル的慣習──ユートピアへ/からの旅、カタログ的な記述──を模倣すると同時に、それらと批判的に格闘するテクストでもあった*5

*5 この副題はすべての版で使われているわけではない。The New Utopian Politics of Ursual K. Le Guin’s The Dispossessd, edited by Laurence Davis and Peter Stillman (Lexington Books, 2005), p.viiiを参照。

シェヴェックの訪れるウラス世界の地政学的状況が、第二次大戦後の冷戦構造と寓話的なかたちで──厳密な一対一の関係はないが、それでも何かしらの比較を許容するかたちで──リンクしていたとしたら(ア=イオは資本主義陣営、スーは共産主義陣営、ベンビリは第三世界)、不毛な大地に覆われた惑星アナレスのアナキズム社会にはそのような客観的相関物が存在しない。アナレスは「どこにもない場所」であると同時に、「最良の場所」であるかのように見えるが、アナレス世界建設の精神的な礎となった女性革命家オドーのアナキズム思想──国家なき社会、所有からの解放、個人の自由とジェンダーの平等、共有と協働、社会組織と各々の有用性、相互扶助と連帯──は、惑星アナレスにおいて社会構造や制度機関としては依然として維持されているものの、テクストのなかで語られるアナレスでの暮らしは、実質的にはオドー主義を裏切っている場合が少なからずある。

本研究ノートが試みるのは、刊行から50年を経た『所有せざる人々』がもともと備えていたアナキズム的なモチーフを、過去の研究言説とともに再検討したうえで、『所有せざる人々』をアナキズム的関心からいまふたたび読み直すための準備をすることである。

『所有せざる人々』で参照されるアナキズム

2005年に刊行された論文集の巻末に収録されたエッセイ「応答 タウ・セティ太陽系から、アンシブルで」のなかで、ルグィンは、『所有せざる人々』が「小説としてではなく、社会理論や実践のための青写真として」読まれてきたことに悲しみを表明するとともに、「有益な批評とは、フィクションが何をどのように言っているかを示すもの」であると述べている*6。作者の言葉を引き受けるのであれば、わたしたちはここで次のように問わなければならないだろう。『所有せざる人々』はどのようなアナキズムをどのように小説化しているのか、そして、そうすることで『所有せざる人々』は、どのような生きられた経験を、先取り的に、仮想的に、フィクションとして発明し、物語というかたちで研究しているのか*7

*6 Ursula K. Le Guin, “A Response, by Ansible, from Tau Ceti,” The New Utopian Politics of Ursula K. Le Guin’s The Dispossessed (Lexington Books, 2005), p. 306. このテクストはUrsula K. Le Guin: Hainish Novels & Stories Volume Iにも再録されている。
*7 ルグィンと人類学の親近性はよく指摘される(佐々木真理『アーシュラ・K・ルグィン』7‐9、175‐76頁)。ここでさらに踏まえておきたいことが二つある。ひとつは、人類学は世界や文化を「発見」するが、フィクションはそれらを「発明」するということ(Ursula K. Le Guin, “Naming Magic: Interview by Dorothy Gilbert, California Quarterly No. 13-14, Spring/Summer 1978,” The Last Interview and Other Conversations, edited and with an introduction by David Streitfeld (Melville House, 2019), p. 32.)。もうひとつは、ルグィンは「アースシー」物語を評して、「フィクションによる権力研究(fictional studies of power)」と述べているが、この見方は彼女のほぼすべてのテクストに当てはまるであろうという点だ(Ursula K. Le Guin, “Driven by a Different Chauffeur: Interview by Nick Gevers, SF Site, November/December 2001,” The Last Interview, p. 114.)。この意味で、『所有せざる人々』は、アナキズム世界/文化を発明し、そのなかでフィクションをとおして、物語というかたちで、アナキズムを研究していると言えるだろう。

ルグィンは『所有せざる人々』の執筆にあたって様々なテクストを読み込んだというが、同時期のインタビューや、後に書かれたテクストを比較すると、言及される人名に微妙なブレがみられる。

1976年の講演「SFとミセス・ブラウン」では、「エンゲルスやマルクス、ゴドウィン、ゴールドマン、グッドマン、そしてだれよりもシェリーやクロポトキンなど」を参考にしたと言うが、2007年頃と推測されるインタビューでは、彼女が1958年から住んでいたオレゴン州ポートランドの左翼系の本屋と知り合いになり、「古いアナキストの著作の素晴らしいコレクション」を見せてもらえたばかりか、「ブクチンのように新顔のもの」も教えてもらったと回想している*8。ライブラリー・オブ・アメリカ版のために書き下ろした序文(2016)では、「平和主義とガンディーと非暴力的抵抗」から、「ピーター・クロポトキンやポール・グッドマンといった非暴力的なアナキズムの作家たちへと導かれて」いったと述べている*9。ルグィン研究で頻繁に引用される、短編集『風の十二方位』(1975)に短編「革命前夜」(1975)を収録するさいに付された序文──本研究ノートのエピグラフとして引用したもの──では、「初期の道教思想のなかに予示され、のちにシェリーやクロポトキン、ゴールドマンやグッドマンによって詳述された」ものという扱いである*10

*8 Le Guin, “SF and Mrs Brown,” p. 108(ル=グウィン「SFとミセス・ブラウン」262-63頁); Mytyhmakers & Lawbreakers: Anarchist Writers on Fiction, edited by Margaret Killjoy (AK Press, 2009), p. 13. 社会エコロジーの先駆者にして、自治的な共同体の展望を発展させた思想家マレイ・ブクチンのアンソロジーが2015年に刊行されたとき、ルグィンは短い序文を寄せている。Ursula Le Guin, “Foreword,” The Next Revolution: Popular Asssemblies and the Promise of Direct Democracy (Verso, 2015), p. ix-xi.
*9 Le Guin, “Introductions,” Ursula K. Le Guin: Hainish Novels & Stories Volume I, pp. xiv-xv.
*10 Le Guin, “The Day before the Revolution,” p. 285.(ル・グウィン「革命前夜」421頁)

しかし、ここには共通項もある。彼女はすでに親しんでいた老荘思想に通じるものとしてアナキズムを捉えていたこと、アナキズム一般ではなくある特定のアナキズム──平和主義的(非暴力)、共同的(協力‐連帯‐相互扶助)──に与していること、ある特定のアナキストによるある特定のテクストを特権化することは避けるが、言及回数からすると、ロシアの地理学者にして博物学者ピーター・クロポトキン(1842-1921)と、教育者、作家、詩人、評論家と多面的な顔を持つニューヨーカーのポール・グッドマン(1911-1972)の重要性が相対的に高いことである*11

*11 ルグィンは後に『老子』の解釈的英訳を手がけることになる。Ursula Le Guin, Lao Tzu: Tao Te Ching(Shambhala Press, 1997)を参照。短編「革命前夜」の冒頭に「ポール・グッドマン(1911—1972)の思い出のために」という献辞があることを思えば、グッドマンについても検討すべきところだが、本研究ノートでは、紙幅の関係上、クロポトキンのみに焦点を絞る。また、女性革命家オドーのモデルのひとりと思しきエマ・ゴールドマン(1869-1940)──ロシアからアメリカに渡り、リトルマガジン『母なる大地』(1906-1917)を創刊し、女性の問題を果敢に論じた演説家にして活動家──についても、紙幅の関係上、ここでは取り上げない。ゴールドマンの生涯については、エマ・ゴールドマン『エマ・ゴールドマン自伝』上下、小田光雄、小田透訳(ぱる出版、2005年)を参照。

1979年に刊行された初期のルグィン論集に収められたフィリップ・E・スミス二世の論文「壁を解体する──『所有せざる人々』における人間本性、進化論と政治論の性質」によれば、1974年の『オレゴン・タイムズ』紙上でのインタビューで、ルグィンはクロポトキンを「アナキストの中心的な思想家のようなもの」で、「アナキズムの最も偉大な哲学者」と見なし、『相互扶助論』(1902)を「ひじょうに興味深い本」として推薦しているという*12

*12 Philip E. Smith “Unbuilding Walls: Human Nature and the Nature of Evolutionary and Political Theory in The Dispossessed,” edited by Joseph D. Olander and Martin Harry Greenberg (Taplinger Publishing Company, 1979), p. 79.

「少なくとも、協力は攻撃と同じぐらい重要であり、ひょっとすると、もっと基本的な生存メカニズムかもしれない」とクロポトキンの議論をまとめたルグィンの言葉を踏まえれば、「どのような社会的種であれ、最も強いのは最も社会的なものです。人間の場合、もっとも倫理的な者です」と応えるシェヴェックは、まるでクロポトキンの言葉を引用しているかのように響くだろう*13。クロポトキンは『相互扶助論』のなかで次のように述べていた。「最適者とは、身体的に最も強い者でもなければ、狡知に抜きんでた者でもなく、共同体の福祉のために、強い弱いの分け隔てなく互いを支え合えるよう、結び付くことを学ぶ者である」*14

*13 Ursula K. Le Guin, The Dispossessed: An Ambiguous Utopia, Ursula K. Le Guin: Hainish Novels & Stories Volume I, p. 913.(アーシュラ・K・ルグィン『所有せざる人々』佐藤高子訳(早川書房、1986年)321頁)
*14 P. Kropotkin, Mutual Aid: A Factor of Evolution, 2nd edition (Heinemann, 1904), p.2(ピーター・クロポトキン『相互扶助論』小田透訳(論創社、2024年)62‐63頁)。ただし、これはクロポトキンの言葉であるのと同じくらい、ダーウィンの言葉である。この箇所は『人間の由来』のパラフレーズにほかならない。

ただ、ここで重要なのは、ルグィンが「どの」アナキストの「どの」テクストを割り出すことだけではない。ルグィンがさまざまなインタビューやエッセイのなかで繰り返し述べているように、彼女は物語という形式をとおしてしか語ることのできないことを書いているのであって、それ以外の形式で容易に要約可能なメッセージを伝えるために書いているのではない*15。彼女が『所有せざる人々』で試みたのは、アナキズムについての学術論文を書くことではなく、『所有せざる人々』の後に書かれた、『所有せざる人々』の前日譚とも言うべき「革命前夜」(1974)──革命家オドーの晩年の孤独感を内的独白的に描き出した短編──の序文にあるように、アナキズムを物語化すること、「小説のなかでアナキズムを具現化(embody)させること」であった*16

*15 たとえば、Ursual K. Le Guin, “The Gift of Place: Interview by the 10 point 5 editorial collective, 10 Point 5 Magazine, Spring 1977,” The Last Interview, p. 24.
*16 Le Guin, “The Day before the Revolution,” p. 285.(ル・グウィン「革命前夜」422頁)『所有せざる人々』に先行する短編「オメラスから歩き去る人々」(1973)は、ひとりの子どもの犠牲によって成立する幸福の妥当性について問題提起した19世紀転換期のアメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズの思考実験にもとづく「変奏(variations)」と題されているが、これもまた、思想を小説として具現化する試みであったと言うことができるだろう。Ursula K. Le Guin, “The Ones Who Walk Away from Omelas,” The Wind’s Twelve Quarters, p. 275.(アーシュラ・K・ル・グウィン「オメラスから歩み去る人々」『風の十二方位』小尾芙佐・他訳(早川文庫、1980年)438頁)。この短編でルグィンが提示したのは、そのような幸福に立脚する社会を甘受するのでもなければ、変革するのでもなく、別の可能性を求めて他の場所へ去っていく人々という第三の光景であった。ちなみに、ルグウィンはオドーを「オメラスから歩み去った人々のうちのひとり」と捉えている。Le Guin, “The Day before the Revolution,” p. 285(ル・グウィン「革命前夜」422頁)を参照。

50年後の『所有せざる人々』──環境決定論の現代的意義、来たるべき倫理の先取り

私たちはもう前進することでユートピアに到達することはないと思います。遠回りするかわき道にそれるかが唯一の方法でしょう。*17

*17 Ursula K. Le Guin, “A Non-Euclidean View of California as a Cold Place to Be,” Dancing at the Edge of the World: Thoughts on Words, Women, Places (Grove Press, 1989), p. 98. (アーシュラ・K・ル=グウィン「カリフォルニアを非ユークリッド的に見れば」『世界の果てでダンス〈新装版〉──ル=グウィン評論集』篠目清美訳(白水社、1997年)167頁)

『所有せざる人々』では、シェヴェックのウラスでの1年近くにわたる亡命生活が奇数章で、幼年時代からウラス行きに至るまでのアナレスでの半生が偶数章で交互に描かれていくが、このテクスト構造自体が、わたしたちを対位法的な読解に誘うとともに、ユートピア社会におけるシステムの問題を、空間的なものというよりも時間的なものとして、生きられた経験として理解することを可能にする。理想的なものとして表象されるはずのアナキズムは、つねに問題含みのものとして提示され続けるが、そのような失敗体験を物語ることをとおして、テクストは、アナキズム的なユートピアの不可能性や、そのようなユートピアの必然的な堕落を証明するのではなく、ユートピア的な社会機構をユートピア的に運用するには持続的な努力が必要であること、それは教育の問題であり、個人の問題であると同時に集団の問題であること、端的に言えば、人間の問題であることを物語っていく*18

*18 次のようなシェヴェックの幼友達によるアナレス批判は典型的である。「〈移住〉の初期には、ぼくらは権威主義的な衝動を警戒し、監視を怠らなかった。当時、人々は、物を管理することと人を統治することをきわめて慎重に区別した。それを実に上手くやってくれたので、ぼくらは忘れてしまったのさ。支配欲が相互扶助の衝動と同じぐらい人間の核心にあること、支配欲は各自の心の中で、世代が変わるたびにしつけられなければならないものであることを。生まれつきの文明人がいないように、生まれつきのオドー主義者は一人もいない! だというのに、ぼくらはそのことを忘れてしまっている。自由のための教育をしていない。社会組織が行なうなかでもっとも重要な活動である教育が硬直し、教訓臭くなり、権威主義的になっている。」Le Guin, The Dispossessed: An Ambiguous Utopia, p. 748(ルグィン『所有せざる人々』245‐46頁)

マクロなアーキテクチャーの問題にもまして、ミクロな日常性を問題化していく姿勢は、昨今のアナキズム・リバイバルと呼応する部分がある。19世紀のアナキストたちが、誕生しつつあった近代国家をこそ権威の体現と見なし、それをもっぱら問題化したとすれば、そのような権力が構造的暴力に(も)転化したいま問題化すべきは、国家や政府といった大文字の単一的な権威(だけ)ではなく、日常に遍在する小文字の複数的な権威である。このような現代アナキズムの問題意識は、現実のなかに──現代であれ過去であれ、自身の所属する共同体であれ他所のところであれ──アナキズム的な感性や実践を見出していこうとする人類学的な方向性と軌を一にするものである。ところで、1980年代に端を発する、19世紀の古典的アナキズムをポスト構造主義的な関心から読み直し、前者の本質主義的な決定論に、脱構築的で転覆的な契機を読み込もうというテクスト読解──「ポスト・アナキズム」と呼ばれる思想的実践としてのアナキズムの活性化──は、かならずしも明確なかたちでは、上記のような人類学的な方向性とは交わってこなかったきらいがある*19。しかし、『所有せざる人々』のアナキズム的な読解のためには、両者をともに役立てることができるだろう。

*19 代表的なものしてはSaul Newmanm, Postanarchism (Polity, 2016) を参照。ポスト・アナキズムの概観には、この潮流の口火を切ったアンドリュー・コッホによる重要論文「ポスト構造主義とアナキズムの認識論的基礎」などが収められたPost-Anarchism: A Reader, edited by Duane Rousselle and Süreyyya Evren (Pluto Book, 2011) が有効である。同時期の論集にThe Anarchist Turn, edited by Jacob Blumenfeld, Chiara Bottici and Simon Critchley(Pluto Book, 2013)もある。これらを踏まえると、カトリーヌ・マラブーの最近のアナキズム論——『アナキズムと哲学』伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳(青土社、2024年)──は、英語圏のポスト・アナキズムにたいするフランス語圏からの(遅ればせながらの)応答にも見える。

クロポトキンの相互扶助論に生物学的決定論がつきまとうように、『所有せざる人々』には環境決定論がつきまとっている。惑星アナレスはおおむね不毛な大地であり、植林のかたちで環境のエンジニアリングが試みられてきた。それでも、テクストが語るように、数年にわたる旱魃に襲われ、アナレスの人々は食料不足に追い込まれる。アナレス社会の可能性は、みずからではコントロールできない自然の条件によってある程度まで決定されており、人々はそのような自然の条件にたいして脆弱であり、防衛的であることしかできない。

アナレスにおいてアナキズムが成立するのは、人々がそれを意識的に選んだからでも、人々がそれを意識的に維持しているからでもなく、環境がそれを強いているからであるという捉え方は、テクストが先取りして提示している。ウラスのある科学者は次のように述べる。「一目見てそれとわかる政府もなく社会秩序が保たれているのは、人口が極度に少ないせいと、近隣国家というものを持っていないせいだ」*20。シェヴェックでさえ、相互扶助は、意識的に選び取られたものというより、不可避的な生存戦略であるかのように捉えている節がある。

われわれの社会が個人の創造性を挫折させるのじゃない。アナレスの貧困がそうさせるのだ。この惑星は文明を育むようにはできていない。もしわれわれが互いに同士討ちをしていたら、もしみなの役に立つものを自分のものにしたいという欲望を捨てなければ、この不毛の世界には、われわれを救えるものはなに一つなくなってしまう。人間同士の連帯がわれわれにとって唯一の資源なんだ。*21

*20 Le Guin, The Dispossessed, p. 776. (ルグィン『所有せざる人々』296頁)
*21 Ibid., p.748. (同書244頁)

わたしたちが統御できない力──内側からの生物的な、外側からの自然環境的な──によって拘束されるなか、何かを選ぶとしたら、そのようにして成立した社会はユートピアと言えるのか。選択肢が限定されているとき、それどころか、選択肢がひとつしかないとき、そこに選ぶことの倫理は存在するのか。

ルールにまつわる社会的な問題(監視と罰則、規律や強制)を、極度に欠乏した外部的な自然環境が強いる必然性へと転化しているのではないか──刊行当初から『所有せざる人々』を高く評価しつつも、きわめて鋭い批判を差し向けてきたSF作家サミュエル・R・ディレイニーは、1990年のインタビューでそのような疑問を呈していた*22

*22 Samuel R. Delany, “On Triton and Other Matters: An Interview with Samuel R. Delany,” Science Fiction Studies #52 = Volume 17, Part 3 = November 1990. https://www.depauw.edu/site/sfs/interviews/delany52interview.htm Last accessed 9 September 2024.

しかしながら、ディレイニーが問題視したこの環境決定論は、現代の環境危機を念頭に置いたとき、奇妙なまでにアクチュアルなかたちでわたしたちに迫ってくる。今日の環境危機は、人類の活動によって変容してしまった環境というほとんど乗り越え不可能な条件が、わたしたちの生を──全面的にとまでは言わないまでも、部分的には──規定する未来を想像させずにはおかない。

いま『所有せざる人々』を読み直すことは、わたしたちの未来が、わたしたちを制限する諸力──物理的=自然的な意味でも、比喩的な意味でも──を乗り越えたところに自動的に開かれるのでもなければ、それらによって単に決定されるのでもない可能性を想像することでもある。倫理の問題を、すでに解決済みと捉えるのか(生物的、環境的決定論)、生存の問題が解決されたあとの二次的な問題とみなすのか(直線的な進歩)、それとも、倫理の問題をそのような功利主義的な論理に先行し、優先する目的と捉えるのか(遠回り、回り道)という選択と向き合うことである*23

*23 たとえば、『所有せざる人々』を、否定的な意味ではなく、肯定的な意味で「脱成長(degrowth)」の物語として読むことも、そのような解釈行為と言えるだろう。Giorgos Kallis and Hug March, “Imaginaries of Hope: The Utopianism of Degrowth, ” Annals of the Association of American Geographers, March 2015, Vol. 105, No. 2, SPECIAL ISSUE: Futures: Imagining Socioecological Transformation (March 2015), pp. 360-368を参照。

『所有せざる人々』は、相互扶助を選ばされる/自由に選ぶこと、そのような選択の責任を引き受けることの倫理をめぐるアナキズムの物語として、いまいちど読み直されることを求めている。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年10月5日 発行