研究ノート

軋轢と矛盾のなかで シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭2024報告

中村洸太

1. はじめに

2024年6月12日から18日にかけて、イギリス・サウスヨークシャーの街シェフィールドで、シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭2024(Sheffield DocFest 2024)が開催された。本研究ノートは、個人的な所感も含めた、この映画祭の報告である

この時期に私がシェフィールドを訪れた目的はかならずしも映画祭参加ではなかった。シェフィールド大学で行われた研究集会「Kinema Club」でコロナ禍におけるサイレント映画上映に関する発表を行うためである*1。2024年6月12日から3日間にわたって行われた本集会では、同時期開催のシェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭2024にも併せて参加することが推奨された。ドキュメンタリー映画を自主制作している私にとって、研究と実作への考察を進める好機と考え、研究集会と映画祭の両方に参加することにした。学部派遣留学生としてシェフィールド大学で学んでいたとき、私は2020年のこの映画祭でボランティアとして働くことを心待ちにしていたが、新型コロナウイルスのパンデミックによって帰国を余儀なくされ、映画祭も中止になってしまった。したがって今回は、私にとって4年越しの念願をはたす映画祭への参加であった。

*1 Kinema Clubは元々、世界各地の日本映画の研究者たちが資料・情報を共有するためのネットワークとして立ち上げられた。以降、研究集会は1999年よりアメリカ、日本、ドイツなどで開催されており、今回で22回目を数える。

研究集会では、発表時間は9時から14時30分までに設定され、その後に参加者が映画祭で各々作品を鑑賞できるようなスケジュールとなっていた。そのため、集会出席者の多くは映画祭にも参加しており、夜の食事会や翌日の休憩時間中には、互いの研究発表に関してだけでなく、映画祭や鑑賞した作品について意見を交わす場面もあった。研究と映画祭を行き来する充実した3日間を過ごしたあと、私は映画祭最終日までシェフィールドに滞在した。

この映画祭への参加を通して考えたかったのは、いささか大きすぎる課題だが、2024年において、作り手にとってドキュメンタリーを制作し映画祭に出品することにはどのような意義があり、観客にとって映画祭でドキュメンタリーを鑑賞することにはどのような意味があるのか、ということである。国内外の映画業界全体でも、私の周りでも、映画、とりわけドキュメンタリーを制作・上映することの責任主体とパワーポリティクスをめぐる問題が、ここ数年相次いで浮き彫りになっている。イギリスで行われるこの国際映画祭への参加を通して、私自身がそうした課題に改めて取り組む契機になると考えたのである。

以上のような経緯で参加した本映画祭では、興味深い作品や試みが見られた一方で、様々な矛盾も内包しているような印象を受けた。そしてその矛盾こそが、今のドキュメンタリー映画全般、あるいは映画そのものの現況をめぐる問題にも強く関わるものであるように思えた。

2. 映画祭について

イギリスで最も大きいドキュメンタリー映画祭であるシェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭は、1994年に始まり、2024年は31回目の開催となる。期間中は、作品の上映や展示のほか、企画ピッチングなどドキュメンタリーの制作者、配給会社のためのマーケットイベントも実施されることで知られている。

2024年の映画祭のテーマには「現実の省察(Reflections on Realities)」が掲げられ、国際コンペティション、長編初監督コンペティション、国際短編コンペティションのほか、テーマ別の部門(strands)に、長編映画80本、短編映画29本、計109本が出品された。私は学生用のインダストリー・パスを購入して参加した。これにより、すべての上映に加えパス・ホルダー限定のトークイベントなどに参加することが可能だった。パス・ホルダーを対象としたオンライン上映も実施されており、イギリス国内であれば、映画祭終了後の6月末まで、一部を除いた映画祭上映作を自由に鑑賞することもできた*2

*2 本映画祭のパス・ホルダー向けのオンライン上映自体はパンデミック以前から行われていたが、配信用のプラットフォームとしてはパンデミック下で広く普及した「Eventive」が使用された。

映画祭の主要な出資者は英国映画協会(BFI)、シェフィールド市議会、シェフィールドの都市開発を担うマーケティング・シェフィールド、アーツ・カウンシル・イングランドであり、スポンサーにはBBCとNetflixをはじめとしたテレビ局や動画配信サービス、ブリティッシュ・カウンシル、シェフィールド・ハラム大学などが名を連ねている。主な上映会場は、シェフィールド駅近くの独立系アートハウス「Showroom Cinema」、チェーンのアートハウス「Curzon Sheffield」、シェフィールド中心部のショッピング街に位置するシネコン「The Light Sheffield」、普段は演劇公演が行われている劇場「Crucible Theatre」だった。また、映画祭開催期間中、Showroom Cinemaに隣接する「Site Gallery」では、VR作品や映像インスタレーション作品の展示が入場無料で常時行われた。

映画祭には、ドキュメンタリー映画ファンから映画・テレビ産業関係者、地元シェフィールドの観客まで、様々な観客が参加していた[図1]。特に週末の上映とイベントには多くの人が参加しており、活気を帯びていた。パスホルダーは上映開始の48時間前から予約が可能だったが、注目作は予約開始から早々に完売し、上映前には空席ができるのを待つ観客たちが列を作った。

2_画像1_中村洸太_研究ノート_シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭報告.jpg[図1] Showroom Cinemaでの上映前の様子(2024年6月13日、筆者撮影)

映画祭での作品上映後には監督、出演者、製作者などが登壇してQ&Aが行われたが、そこではポスト・パンデミック的な、オンラインとオフラインを交えたハイブリッドな運営が見られた。コロナ禍に行われた映画祭では、しばしばスクリーンに表示されるQRコードをスマートフォンでスキャンして質問を投稿できるようにすることで感染症対策と進行の効率化が図られていた。本映画祭も同様に「Slido」というオンライン・サービスを使用して質問し、司会が代読するというかたちを取っていたが、そのような方法に向いていない観客のため、挙手をして直接質問をすることも可能だった。また、監督が様々な要因で来場できなかった作品については、Zoomで事前録画されたQ&Aが本編の後に上映された。

3. パレスチナをめぐって

映画祭のメイン会場であるシェフィールド駅前のShowroom Cinemaの入り口付近には、「Our Colleagues Are Being Killed + The Film Industry Remains Silent(私たちの同僚たちは殺された。映画産業は沈黙を貫いている)」と書かれたボード、花束、パレスチナの旗、そして殺されたメディア関係者の名簿が一面に掲示されていた[図2]。

IMG_1274.jpg[図2]Showroom Cinemaの前の掲示(2024年6月17日、筆者撮影)

2023年10月7日以降、各国の映画祭は、パレスチナのガザで続くイスラエル軍による虐殺への応答を問われており、本映画祭に先立つ主要なドキュメンタリー映画祭はそれぞれ異なる形で立場を表明してきた。2023年11月に開催されたアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭(IDFA)では、開会式でデモ参加者が「From the river to the sea, Palestine will be free(川から海までパレスチナに自由を)」と書かれた横断幕を掲げ、芸術監督のオルワ・ニラビアが拍手をしたことをめぐり、ユダヤ系コミュニティが映画祭に抗議するという出来事があった。それを受けてニラビアは「自分の席からはスローガンが見えなかった」「スローガンではなく言論の自由を歓迎するために拍手をした」と釈明し、映画祭もこのスローガンを「人々を傷つけるもの」であり「いかなる形であれ、誰であれ、使うべきではないと考えている」との声明を発表した*3。こうした映画祭の対応に応答して、パレスチナ映画協会は作品を出品している監督たちに作品の取り下げ、あるいは上映の場での声明の発表を呼びかけるに至った*4。その後、2024年3月に行われたコペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭(CPH:DOX)では、「葛藤(Conflicted)」をテーマとした部門を設け、後述する『No Other Land』(2024年)をはじめとしたパレスチナに関わる作品に加え、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、ケニア、台湾、北アイルランド、ウクライナの、「地政学的危機」を描くドキュメンタリーを選出した。これらの問題を同一視するのではなく、往還的に議論を促そうとする試みである*5。翌4月下旬に始まったHot Docs カナディアン国際ドキュメンタリー映画祭はより具体的にガザでの虐殺に言及した声明を発表し、即時停戦、人質解放、ガザの人々への人道支援を呼びかけた*6

*3 IDFA Institute, “IDFA and Artistic Director’s Statement about the Opening Night,” IDFA, November 10, 2023, https://www.idfa.nl/en/news/verklaring-van-idfa-en-artistiek-directeur-over-de-gebeurtenissen-tijdens-de-openingsavond/.
*4 Palestine Film Institute, “In Response to IDFA’s Damaging Statement on 11 November 2023: Our Statement and Demands,” Palestine Film Institute, November 13, 2023, https://www.palestinefilminstitute.org/en/idfa-2023.
*5 CPH:DOX, “Conflicted,” CPH:DOX, February 21, 2024, https://cphdox.dk/conflicted/.
*6 Hot Docs, “Hot Docs’ Statement on Gaza,” Hot Docs, April 19, 2024, https://hotdocs.ca/news/hd-statement-gaza.

シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭は、上映プログラムのアナウンスのなかで、Hot Docsのような具体的な言及は避けつつ停戦と人質解放を求め、中東をはじめとした世界中のあらゆる戦争を非難し、「反ユダヤ主義とイスラモフォビア、あらゆる形の人種差別とヘイトスピーチに断固として反対する」とした*7。Showroom前に掲示されたメッセージと名簿は、こうした映画祭の声明も踏まえてのものであろう。会期中には、ガザで命を落としたジャーナリストたちの追悼集会も、パレスチナ映画協会、映画関係者によるキャンペーン「Film Workers for Palestine」、長年にわたってシェフィールドで活動してきた「Sheffield Palestine Solidarity Campaign」の呼びかけにより、シェフィールド駅前で行われた。

*7 Sheffield DocFest, “Announcing Our 2024 Theme: Reflections on Realities,” Sheffield DocFest, May 2, 2024, https://www.sheffdocfest.com/news/announcing-our-2024-theme-reflections-realities.

シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭にはパレスチナ映画協会が協力しており、パレスチナの製作作品としては、『No Other Land』『Three Promises』(2023年)『Life is Beautiful』(2023年)などが上映された。また、2023年に引き続き、パレスチナ映画協会の主催で製作中の作品を紹介するイベントも行われた。パス・ホルダーを対象としたこのプログラムは、Crucible Theatreのなかにあるイベント用の部屋で実施された。私も参加したが、会場に到着した時には既に長蛇の列が出来ており、立ち見でも入場できない参加者が多かったようである。このイベントでは、公募で選出された『Out of Place』『Jenin & the Nakba Between Us』『Yusra』『Ghassan Abu-Sittah: The Reluctant Hero』の4本の企画が紹介された。各作品の監督とプロデューサーたちは、映画の抜粋を見せながら企画のプレゼンテーションを行い、参加した出資者や映画祭プログラマーからの質問に答えた。紹介された作品は編集中のものから完成間近のものまで様々で、いずれの監督たちも現在はパレスチナをベースとしていないながらも、それぞれのアプローチでパレスチナの過去に向き合うことで今起こっていることに迫ろうとする力強い作品群であった。なかでも深い印象を残したのは、ガザ地区出身で現在は亡命先のスウェーデンで活動するムハンマド・アル=マジュダラウィ監督のセルフ・ドキュメンタリー『Out of Place』である。ジャバリア難民キャンプに住む当時12歳の監督は、命の危険があるため道路で遊ばせたくないという両親の思いから、ダブケのダンス教室に通い始める。彼はダンスが得意ではなかったが、代わりにダブケを舞う友人たちをミニDVカメラで撮り始め、次第にダンス・グループの撮影役を担うようになっていく。視点は現在に移り、亡命してヨーロッパ中に散らばってしまったかつての同志たちを訪ねる監督の旅を映画は描いていく。完成は2025年を予定しているという。イベントは予定されていた時間を超過するほど活況を呈し、主催者からは来年からはより大きい部屋で行うと伝えられ、終了した。

4. 上映作品

4-1. 抵抗の映画

映画祭を通して強い印象を残したのは、アクティヴィストの映画群である。2024年2月のベルリン国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞した、パレスチナ人のアクティヴィストであるバセル・アドラとイスラエル人のジャーナリストであるユヴァル・アブラハムの友情と共闘を描く『No Other Land』は、2011年リビア内戦で命を落としたフォトジャーナリストの名を冠したTim Hetherington Awardを受賞した。監督のひとりでもあるアブラハムは、ベルリン映画祭の授賞式の壇上でガザでの停戦とアパルトヘイトの撤廃を訴えた後、自身への殺害予告と家族への脅迫のためイスラエルへの帰国を延期したことも報じられ、話題となった。本映画祭でも注目作であり、私が訪れた「The Light Sheffield」での上映は主人公2人のトーク付きの回ではなかったが、130席ほどの場内は満席だった。ヨルダン川西岸部のマサファー・ヤッタでイスラエル軍による侵攻と破壊が進む最中、被写体/撮影者である2人は、カメラを回しながらそれぞれの方法で抵抗する。家を退去させられ、インフラを破壊され、小学校が取り壊されるという衝撃的な映像が続くなか、2人の共闘が観る者のひとつの心の支えとなる。終盤、一旦映画はエンディングを迎えるものの、その後に2024年10月7日以降の出来事が映し出される。映画を終わらせようにも終わらすことができない幕切れによって観客に問いを投げかける、力強い作品であった。

そのほかにも、『Yintah』(2024年)は、カナダの先住民族ウェットスウェッテンの人々による、彼らの土地に天然ガスのパイプラインを無断で建造する大企業とカナダ政府に対する抵抗を、運動に参与しながら10年以上に渡って撮影した傑作である。また、イギリス統治下のケニアで独立運動「マウマウ団の乱」を率いて殺害された父親の遺骨を探す女性を追った『Our Land, Our Freedom』(2023年)、2020年から1年間続いたインドの新農業法に反対する農民たちの大規模な抗議活動に密着した『Farming the Revolution』(2024年)も、草の根的な抵抗運動に関わる人々の表情を丁寧に描き出している。

4-2. 後景としてのパンデミック

コンペティションでは、時を隔てた客観的視点でパンデミックを捉えた作品が見られたことも特筆しておきたい。クロアチアのワクチン接種会場を舞台にしたゴラン・デヴィッチ監督の『Pavilion 6』(2024年)は、接種のための行列の混沌ぶりに辟易とする案内係の男性の姿で幕を開け、会場内で行われる思いがけないコミュニケーションがクロスカッティングで映し出されていく。長い待機列に並んでいる間に仲良くなってしまった二人組、急激な血圧上昇のためベッドで治療を受けている高校教員の男性に子どもの進路相談を始める医療スタッフ、会場で長らく疎遠だった友人と再会する人、接種後にワクチン陰謀論を唱え始める人とそれをあしらう人など、接種会場にきた人々が束の間の共同体を形成する情景を、70分間、タペストリーのように描いている。パンデミックをテーマにしたドキュメンタリーはこれまで数知れず作られてきたが、接種会場に集ったあらゆる境遇の人間たちの姿をフラットに、軽妙に、遊戯的に紡ぐこの作品が発表されるのは、多くの人が時間的にも感情的にもパンデミックからある程度切り離された2024年でなくてはならなかったのだろう。

国際コンペティションで審査員大賞を受賞したボスニア・ヘルツェゴビナの山奥で暮らす老人の生活を描くマヤ・ノヴァコヴィッチ監督の『At the Door of the House Who Will Come Knocking』(2024年)と、長編初監督コンペティションで審査員大賞を受賞したスペインで闘牛士を目指す少年を追ったインマ・デ・レイエス監督の『The Boy and the Suit of Lights』(2024年)もまた、パンデミックを直接的に扱ってはいないながらも、物語の後景にパンデミックの影が自然と入り込んでくる作品だった。本映画祭では少なからずテレビ・ドキュメンタリー的な構成によるインフォーマティヴな映画が目立ったが、これら2本はある個人と長年にわたって信頼関係を構築し、その人が持つ物語を丹念に語ることに徹している。そしてそうした作品に大賞が与えられたことは、今求められているドキュメンタリーの方向性を反映しているのかもしれない。

4-3. 「編集」について

編集、監督という役割/行為についての示唆を与えてくれた作品群にも言及しておきたい。日本でも劇場公開された『娘は戦場で生まれた』(2019年)のワアド・アル=カティーブ監督の新作『Death Without Mercy』(2024年)は、2023年の巨大地震の被害を受けたシリアの家族2組を描く作品である。本作では地震発生からの出来事が時系列順に語られるが、亡命先のイギリスで活動する監督はシリアに向かうことができなかったため、代わりに監督の友人が撮影者となり、地震で行方不明となった自身の家族の捜索を記録していく。セルフ・ドキュメンタリーだった『娘は戦場で生まれた』とは異なり、他者のパーソナルな体験を描く本作は、地震被害の全体像を提示しつつ、友人たちの撮った映像を地震被害の重要な記録として、アーカイヴ・ドキュメンタリーのような手法でまとめられている。撮影の場にいることができなかった者としての客観的な視点から、編集行為を通じて個人の痛みに寄り添い、それを映画というかたちで発信し観客に伝えることの責務を全うしようとする誠実な映画であった。

2000年代初頭のパレスチナを舞台にしたユーセフ・スルージ監督の『Three Promises』は、監督の母親が撮影したホームビデオを中心に構成されている。偶然発見されたそのビデオには、当時幼かった監督自身が、母が回すカメラの被写体の一人として登場する。監督はビデオを介して、爆撃音が響くなか家族と地下室に避難していた子ども時代の記憶を再訪し、それを自ら編集することで、過去を現在の視点から捉えようとする。終盤、地下と地上階を行ったり来たりしながら子どもたちが寝静まるのを待つ長回しの映像は圧巻である。本作もまた、個人的な経験を扱いながらも、『Death Without Mercy』とは異なるアプローチで、映像アーカイヴとして「素材」に向き合う作品である。監督は、ホームビデオのなかの、当時はまだ何が起こっているのか理解しきれていない被写体でありながら、それを家族のアーカイヴとして編集することで、撮影者である母親と協働し、理解し、寄り添おうようとするのである。

映画編集のあり方そのものを問う対照的な2作品も上映された。本映画祭で初上映された『Her Name Was Moviola』(2024年)は、『地獄の黙示録』(1979年)などで知られる映画編集者/サウンドデザイナーのウォルター・マーチが企画と出演を務めた、フィルムでの映画編集に関するドキュメンタリーである。マーチはアシスタントのダン・ファレルと共に、カメラの前でデジタル技術を一切使わないフィルム編集を再現する。彼らは、元々デジタルで撮影されたマイク・リーの『ターナー、光に愛を求めて』(2014年)の2つの場面の素材を35mmフィルムに焼き、整理し、観察し、切断し、繋ぎ合わせていく*8。編集作業に没頭する2人の手つきとフィルムの回転を克明に捉えることで、本作は編集の身体性とフィルムの物質性を讃える。劇中のある場面で、2つのショットを上手く繋ぐことができないと感じたマーチが、撮影素材にあった風景ショットを(登場人物の心情を代弁するかのように)挿入することで解決させる。マイク・リーにそれを見せると、リーはマーチの編集案に鋭くダメ出しをし、却下する。編集者と監督の相剋が垣間見える、象徴的な場面であった。

*8 元々この映画の編集を務めていたのはマーチではなく、マイク・リー作品常連のジョン・グレゴリーである。

そうした有機的な映画編集のあり方とは真っ向から対立するのが、本映画祭で上映された最大の問題作とも言える、音楽家のブライアン・イーノを描くゲイリー・ハストウィット監督の『Eno』(2024年)である。この映画が特殊なのは、上映のまさにその場でコンピューターが「編集」した映像が、プロジェクターへと出力され、そのままスクリーンへと投影される点である。無論コンピューターがすべてを編集している訳ではなく、予め監督が作成した無数のセグメントを、コンピューターがいくつか抽出し、順番を決めて出力している。したがって、冒頭で「シェフィールド・バージョン」の「ライヴ・ミックス」だと表示される通り、上映の都度に異なるバージョンの『Eno』が映写されるのである。人間によって編集されたセグメントはあくまで、最終的にシステムが上映の場で完成させる映画の「素材」に過ぎない。今回生成・上映されたバージョンは、イーノのライフスタイルと哲学が明らかにされたのち、トーキング・ヘッズやデヴィッド・ボウイとの協働作業をイーノが振り返るというランダムな構成になっている。その無秩序性の違和感を軽減させ、さらにその場で生成されているという「証拠」として機能するのが、各セグメントの間に一瞬挿入される、『マトリックス』(1999年)のような文字コードの映像である。この上映システムを開発したデジタル・アーティストのブレンダン・ドーズは、上映後のトークセッションで、これは「エフェメラル」で「ライヴ」な新しい映画のかたちであると言った。実際、普段演劇が上演されるCrucible Theatreの円形劇場で行われた本作の上映では、観客は互いのアクティヴな反応を感じながら映画を鑑賞することができ、上映の一回性は間違いなく感じることはできた。上映の都度、偶然生まれてしまったものを作品として提示する点、上映される限り永遠に新しいバージョンが作られ、完成形が出来上がることがないという点で、非常に興味深い試みである。しかし同時に、観客の視点からこの映画を観るとき、いくつかの疑問が浮かび上がってくる。映画祭で同じく展示されていたVR作品やインスタレーションのように観客の介入する余地はそこになく、上映の場で編集・映写パフォーマンスをする人間もいない。先述した冒頭のタイトル表示や合間に挿入されるコードの映像が無ければ、プログラムがその場で出力しているとは誰も気づかず、通常通りスクリーンに映写される、少し無秩序な編集がなされた映画でしかない。果たしてコンピューターが上映空間で「ライヴ」で編集する意義はどこにあるのか、このテクノロジーを用いることで観客にもたらされる経験は他の映画と何が違うのか、そこで作り手は偶発的な「編集」にどのような責任を有するのか、一考を要するのではないだろうか。

5. おわりに

本研究ノートでは、2024年のシェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭で、いかなる様相を見せながら作品の上映が行われたのかを概観してきた。最後に、映画祭を通して感じ取った課題を検討することで、本稿を終えることとしたい。

本映画祭は、明確なキュレーションの指針を設定しないこと、「ドキュメンタリー」「映画」をゆるやかに定義することで、様々な題材や形態の作品を上映・展示している。それによって結果的に映画をめぐる刺激的な問いの数々が提起されていると言えるが、映画祭の方向を定める理念に欠ける印象があったことは否めない。「現実の省察」という全体のテーマだけでなく、コンペティション外のテーマ別セクションに与えられた「抵抗」「記憶」「人間とコミュニティ」「議論」などのタイトルは、あらゆるドキュメンタリーに当てはまる曖昧なもので、作品選定にシェフィールドの独自性を見出すのは難しいように思われた。

また、幅広いテーマや形態の作品を扱う一方でアジア圏の映画が少なく、地理的な多様性に乏しいという矛盾が見られことも指摘しておきたい。日本の製作作品に関しては、ここ数年、『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年)、『水俣曼荼羅』(2020年)、『東京自転車節』(2021年)などが出品されていたが、今回の映画祭ではイギリスが中心となって製作した合作が2本上映された。イギリス、アメリカ、日本の共同製作によるBBCのドキュメンタリー『Atomic People』(2024年)は、広島と長崎の被爆者たちの語りを再構成し、被爆者のトラウマを多層的に描き出そうと試みた作品だが、あくまでターゲットはイギリスの視聴者であり、原爆被害を描くドキュメンタリーとしての新規性はなかった。日本のテレビ番組「進ぬ!電波少年」に出演した芸人・なすびを追った、イギリスと日本による製作のドキュメンタリー『The Contestant』(2023年)もまた、主に欧米中心の視点から、欧米の観客に向けて作られている印象を受けた

映画祭では、この軋轢の時代にあって、ドキュメンタリーを通じた活発な対話、議論の必要性がしばしば訴えられた。しかし、その場をどのように設営するかも、ひとつの課題である。制作者たちとの一往復のQ&Aだけでは「対話」は成立していると言えないだろう。パスホルダー限定のワークショップなども催されていたが、おそらくパスホルダーは映画を数多く鑑賞する人と業界のネットワークを構築することを目的とする人とで二極化している。各作品を吟味し、比較しつつ、より開かれたかたちで、制作者と観客が対話できる場を作る必要があるのではないだろうか。そして映画祭での議論の欠如は、閑散とした大学の夏季休暇期間中に行われている日程の問題と決して無関係ではないように思う。

シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭のこの先の展開を注視しつつ、ここで見た可能性と課題をドキュメンタリーの制作と上映全般へと敷衍させ、引き続き考察を続けていくことにしたい。ドキュメンタリーや映画上映がこれまで漫然と抱えてきた、権力と政治に関わるあらゆる矛盾が表面化し、問題化している現在、ドキュメンタリー映画は岐路に差し掛かっているのかもしれない。そうした状況のなかで、ドキュメンタリー映画の制作、映画祭という場での上映、一観客としての映画祭への参加に果たしてどのような意味があるのか、そしてドキュメンタリーは社会のなかでどのような存在であるべきなのか、今一度考える必要があるだろう。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年10月5日 発行