(不)可視化された「記憶の闘争」
日々の感情規範やそれに連なる公的実践を基礎付ける歴史的経験の源として、第二次世界大戦という磁場は再構築を繰り返している。欧州諸国家では冷戦期以降の政治環境の下、「脱ナチ化」という国民国家の目標に沿いながら各種記念式典を通じて大戦時の反ファシズム的闘争が称揚されてきた。耳慣れた言辞となるが、その「記憶の場」では非常時における言説が日常空間の営みを侵犯し、国民という共同体への心情的統合を促す機会が再生産され得るだろう。その「凡庸」なナショナリズムの台頭は、特に前世紀末の体制転換を経て国民国家史観の再生を余儀なくされた東欧諸国においては喫緊の政治課題と認められている*1。
*1 各国の事例については以下を参照。橋本伸也編著『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題 ―ナチズムと社会主義の過去をめぐる葛藤―』ミネルヴァ書房、2017年。
この小文ではそのような第二次大戦に由来する「戦争の記憶」が冷戦期にいかなる「記憶の闘争」を導いたかを問うために、筆者が研究対象とする社会主義ユーゴスラヴィアでの記念碑建設事業を取り上げる。同国ではドイツによる占領から人民解放を達成したパルチザン闘争の成果を謳いながら多民族の「友愛と統一」を達成する目的を構えて、1960年代よりパルチザン闘争の激戦地あるいは過度な犠牲者を産んだ土地に独自の「社会主義リアリズム」的意匠を凝らしたコンクリート製の巨大モニュメントが多数建立された。原語で「スポメニク Spomenik」と呼ばれるこれらの抽象的建築物の多くはパルチザン闘争が実際に展開された山岳部に位置している。一例を挙げれば、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ南東部に位置するティエンティシュテの記念碑(下図参照)は、同地近郊を流れるスティエスカ川沿いで1943年初夏に繰り広げられた枢軸国軍との戦闘行為を称えるものだが、周囲の自然環境と相まって、訪問者は社会主義へのノスタルジアとも隔絶した幻想的イメージに興じることが可能だろう。
Nikdavid77, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
しかしながら、そもそもこのような巨大モニュメントの連邦政府主導による建設はパルチザン闘争の経験を後続世代に伝承することに一義を置くものであり、実際に建設地の多くには記念公園や博物館が併設されて学童対象の研修地として活用されていたことに注意すべきだろう。またパルチザン闘争に由来する一連の表象芸術を調査したガル・キルンは、このようなモニュメントは過去の闘争の記憶化のみならず、民族間の調和や性差別の克服、さらに富の公正な再配分を追求するような社会主義の理想的将来像を訪問者に対して思索させ、その普遍的価値観を共有するための機能を持ち得たと論じている*2。
*2 Gal Kirn, “Transnationalism in Reverse: From Yugoslav to Post-Yugoslav Memorial Sites” in Chiara De Cesari and Ann Rigney, eds. Transnational Memory: Circulation, Articulation, Scales. De Gruyter: Berlin, 2014.
美学的見地からパルチザン記念碑の潜在的可能性を読み解く作業は筆者の力量を超えた課題である*3。ただしナショナリズム研究に軸を置く筆者の関心に従えば、物質的存在としての記念碑、あるいはそれを中心とする「記憶の場」から様々な社会的分断を融解する未来志向的な効能を導き得るかという問いは、第二次大戦時にクロアチアで稼働した強制収容所の跡地にあたるヤセノヴァツ記念公園の複雑な歴史を想起させる。現在は収容所の過酷な実態を伝える博物館を入口として草原が広がる同地には、パルチザン記念碑の建立を数多く手がけた建築家ボグダン・ボグダノヴィチ(1922–2010)が設計した「花」(下図参照)が屹立している。この記念公園は毎年クロアチア政府主管による追悼式典の舞台でもあり、「花」は犠牲者を追悼するモニュメントの役割を果たしている*4。
*3 以下の旧ユーゴ諸国に現存するパルチザン記念碑のデータベースでは、個々の建築物の図像と共に建築過程などに関する網羅的説明が施されている。https://www.spomenikdatabase.org/
*4 第二次大戦時におけるヤセノヴァツ強制収容所の実態および社会主義ユーゴにおける記念碑建設に関しては以下の拙稿参照。「ヤセノヴァツ追悼式典を巡る「犠牲の記憶」 ―ナショナリズムと「反ファシズム」の政治潮流に注目して―」『ロシア・ユーラシアの社会』第1048号、2020年、21–39頁。
他方でこの記念碑が建立された1966年以降、ヤセノヴァツ記念公園は追悼式典を通じて「戦争の記憶」を継承するのみならず、複数の世代に跨がる市民たちが一時的な共同体を形成し、その集いを通じて社会主義イデオロギーを表現する場としても機能していたと考えられる。もともとパルチザン記念碑群の建立やそれに付随する区画整理には、ボランティア労働組織である「青年労働活動」の部隊が徴集されていた。同組織は社会主義期を通じて鉄道敷設などのインフラ事業に動員されたが、各共和国の都市および地方に居住する青年層が労働現場で寝食を共にすることで、民族間の融和を促進する役割も一部担ったと思われる。そしてヤセノヴァツでは記念碑建立後も「青年労働活動」が開墾や伐採などの奉仕活動へ再動員されていた。
その様子は当時主に強制収容所の歴史などを詳説する記事を掲載していた同地発行の新聞『通信 Poruke』から確認出来る。作業に勤しむ青年達の肉体は度々紙面を飾るモティーフであった(下図参照)。かつてヤセノヴァツ強制収容所で対独協力者であるクロアチア人の極右組織が「民族の敵」と認定されたセルビア人を大量虐殺したことが社会主義ユーゴスラヴィア社会内部では広く知られていたが、この青年達はそうした過去の戦争に由来する重荷を取り除き、多民族共生を実現すべく国家の土台を再生する肉体として表象されていると言えないか。国家あるいは国土に奉仕する彼らの営みに「友愛と統一」の社会主義イデオロギーの理想像が投影されているのではないか。
1979年7月に発行された『通信』には、ヤセノヴァツ強制収容所の解放34周年記念式典の光景も写し出されている(下図参照)。「花」の根元に集う共産主義者同盟幹部を含めた市民達の個々の肉体は、民族の差異や性差、あるいは階級差を超克して複数の世代から成る共同体が社会主義イデオロギーを具現化した姿の一部として記憶されただろう。その空間においてパルチザン記念碑たる「花」は民族間で発生した大量虐殺を追悼するモニュメントとしての役割を後景に退け、キルンが述べるように国民の平等を支持する社会主義イデオロギーの普遍的価値観を謳う装置として新たな公共的イメージを獲得していないだろうか。
それではヤセノヴァツの記念碑や記念公園を一つの記憶装置と捉えた場合、冷戦期が進むに従って虐殺の問題は消去された、あるいは顧みられることも少なくなっていたのだろうか。1975年4月の『通信』紙面上に、ボスニアからの博物館訪問団とヤセノヴァツ強制収容所からの生還者が一堂に会した写真が掲載されている(下図参照)。そもそも社会主義ユーゴの各地におけるパルチザン記念碑の建立には、第二次大戦時に従軍した元パルチザン闘士やその家族から成る退役軍人団体が積極的に支援運動を展開したとされる*5。戦後直後から活動を開始した同団体の当初の目的は、戦時資料の保存や出版を通じたパルチザン闘争の記憶の継承だった。1960年代には記念碑建立もその方法の一部に組み込まれたのだろう。また併せて退役軍人自身に対する社会福祉活動にも関与しており、戦傷者の保護のみならず住宅供与や職業斡旋などを当局側に働きかけていた*6。ヤセノヴァツにおいて強制収容所からの生還者と一市民らが遭遇する機会が作り出された背景には、戦後30年を経ても退役軍人団体による前者の社会的統合を推進する試みがあったと見ることも出来るかもしれない。その上で特徴的なことに、このイメージからサヴァイヴァーと市民らの間に身体的差異を確認することは出来ない。ここに繰り返し述べているような社会主義イデオロギーに基づく平等性の重視と、戦争経験者の社会的統合を追求する退役軍人団体の切実なる願望を読み取ることは出来るだろうか。またここであらためて虐殺の問題に目を向ければ、『通信』においては強制収容所の経験という社会主義ユーゴ内部に残存する問題から目を逸らしてはいないものの、その「未来志向」に則した形で、大量虐殺の対象となった犠牲者への関心も抑制されていたかもしれない。
*5 Hejke Karge (prev. Aleksandra Kostić). Sećanje u kamenu — okamenjeno sećanje? Beograd: Biblioteka XX vek, 2014.
*6 Filipović, Tina. “Osnutak, struktura i djelovanje boračke organizacije na lokalnoj razini: općinski odbor SUBNOR-a Labin.” Časopis za suvremenu povijest, 53 (1), 2021.
ただし1980年代以降、社会主義ユーゴ内部で第二次大戦時におけるセルビア人の「犠牲の記憶」が文学作品やメディアなどの媒体を通じて再燃することになる。他方で次第にクロアチアの公的記憶政策も自らのナショナリズムを正当化する傾向を強めていく*7。ユーゴ解体を契機として発生した凄惨なる紛争、そして各継承諸国の独立は、これまで概観してきたような、ヤセノヴァツにおける社会主義イデオロギーの具現化の試みを忘却するという結末を導いた。そして前述したように、ヤセノヴァツ記念公園というかつて豊穣かつ多様な身体が遭遇する機会を提供した政治空間は、毎年の追悼式典で謝罪のレトリックを披露する政治家がその身をメディアの前に晒す場に転化してしまった。ヤセノヴァツをめぐる記憶と歴史の再生に身を投じてきた人々の営為が、その是非はどうあれ、現状の政治的潮流によって忘却されることを防ぐため、社会主義ユーゴにおける「記憶の闘争」の顛末をさらに精緻に語ることは一定の意義を有するだろう。
*7 社会主義ユーゴにおける体制転換期の記憶政治の動向については以下の論考に詳しい。宇野真佑子「体制転換期クロアチアにおける第二次世界大戦をめぐる記憶の政治 ─「和解」の論理と「ヨーロッパへの回帰」─」『スラヴ研究』第69号、2022年。