第18回大会報告

個人研究発表セッション3

報告:佐藤守弘

日時:2024年7月7日(日)13:45-15:45

場所:関西学院大学 H号館 H302

・「どうして子どもなんて」に対する応答──『夏物語』における死と生の連鎖/安保夏絵(中部大学)
・尾辻克彦「父が消えた」におけるテクスト内写真制作について/五十嵐千夏(北海道大学)
・ジョン・バージャー、ジャン・モア『七番目の男』と逃走の権利/田尻歩(東京理科大学)
【司会】佐藤守弘(同志社大学)


個人研究発表セッション3は、個別の文学作品を対象としながら、それぞれ異なるアプローチを採った3つの研究発表によって構成された。

最初に発表した安保夏絵氏は、川上未映子の長編小説『夏物語』(2019)を対象として、その物語の世界で何が描かれているのかを丹念に分析した上で、その中に作者のメッセージを読み取るというかたちの研究発表をした。そこで問われたのは、「子どもを産むこと」の意味であった。『夏物語』は、第一章にこの作家を一躍有名にした小説「乳と卵」(2007)をまるごと含むという入れ子構造をなしていて、「生殖」をテーマとし、反出生主義やAID(非配偶者間人工授精)による出産、多様なセクシュアリティなど、今日的な問題を提示しつつ、出産することの意味を根源的に問うた作品である。このテクストに対し安保氏は、クィア理論やケアの哲学を参照しながら、主人公の夏子をはじめとするさまざまな登場人物が、まるでこの世の中に存在しているかのように、そのメッセージを解読し、受け止めていく。そこで注目されるのが、夏子の「想像力」を使った他者との関わり方であり、それこそが現実と想像を曖昧にすることで、読者に現実とフィクションの間を行き来させる作者の川上独自の技法であるとされる。

ただし、現実とフィクションの間を行き来させるのが川上自身の目論見が、実際のテクストにおける修辞法や文体、構造のレヴェルでどのように仕掛けられているかという分析がより深くなされていれば——言い換えると、何が描かれているかだけではなく、どのように描かれているかというレヴェルがはっきりと弁別されていれば——、本発表の意図がよりよく伝わったのではないかと考えた。

安保氏が語られた内容に重点を置いたのに対し、二人目に発表した五十嵐千夏氏は、物語の描かれ方、とくに比喩というレトリックに注目した。分析の対象としたのは、芸術家/著述家・赤瀬川原平が尾辻克彦という筆名で発表した小説「父が消えた」(1980)における、「写真」を比喩として用いる手法——とくに「遺影の変容」——である。五十嵐氏のいう「遺影の変容」とは、父の遺体にかけられた白いハンカチが、父の黒い遺影に変容し、さらにそれが白い御飯、すなわち父の実体の喩えへ変容するという比喩によるメタモルフォーズのことである。五十嵐氏は、ネガからポジへと反転するような写真制作という動的プロセスが、小説テクストに埋め込まれていると解釈した上で、赤瀬川自身による小説論にある「小説は特定の意味内容を「中空にホログラフィのように」 浮かび上がらせる」という機能、そしてそうしたホログラフが「動く」状態が小説であるという言明の証左をこのレトリックの操作に見るのである。

「父が消えた」における比喩をずらしていく技法に、赤瀬川独自の動的な小説観を読み取る五十嵐氏の手つきは興味深いものであった。ただ今後の研究においては、こうした小説技法が、赤瀬川の前衛芸術から「超芸術トマソン」、さらには『老人力』にまで至る幅広く脱領域的な活動全体の中でどのように位置づけられるのかという点に視野を広げて、考察を進めてもらいたいという個人的な期待を抱いた。

最後に発表した田尻歩氏は、作家であり美術批評家でもあったジョン・バージャーが、写真家ジャン・モアとのコラボレーションで作った『第七の男(A Seventh Man)』(1975)という書物を扱った。『第七の男』は、バージャーが長年コミットしてきた反帝国主義/反植民地主義運動のコンテクストにおいて編まれたもので、ドイツなどにおける移民の生活を、テクスト——バージャー自身による文だけではなく先行するさまざまなテクストや、移民自身による声までも組み込まれる——とモアの写真による、ある種のモンタージュで描き出している作品である。田尻氏は、この書物が移民を一方的に見られる対象=他者として代表=表象するのではなく、資本主義体制の中の「主体」として、その自律性を描きだしていると解釈する。その上で、この書物は、想像力を駆使することで、一見は個別的に見える移民それぞれの経験を社会的に共有される記憶へと変換するのだが、それは写真と写真を組み合わせるモンタージュによって可能になると言うのである。こうした社会的記憶を提示することは、移民を脱モノ化することにつながる。移民たちは、同様に、資本主義社会に物象化の力によって、その主体性をうばわれているのだが、そのことは「第一世界」の都市部に生きる人びとも同様であり、バージャーは単に移民のみを見るのではなく、移民と非移民の経験を連続的なものとみなすことによって、いまここではない、オルタナティヴな社会のあり様を考えるように読者に迫っているのではないかという結論が提示された。

バージャーの主著『イメージ——視覚とメディア(Ways of Seeing)』(1972)が視覚文化論の古典として読みつがれている一方で、彼のなした仕事に関する検証は、とくに日本では意外にも進んでいない。そんな中でタイムリーにも翻訳が刊行された『第七の男』——田尻氏の研究はそれとは無関係で進められたようだ——を取り上げ、そこにおけるイメージとテクストの編集を精緻に読み解いて、バージャー自身の政治的思考に切り込んだ本発表は見事なものであった——個人的にバージャーに関わる仕事を引き受け、呻吟している私自身にとっては、きわめてありがたい機会になったことは申し添えておきたい。


「どうして子どもなんて」に対する応答──『夏物語』における死と生の連鎖/安保夏絵(中部大学)

 本発表では、川上未映子の『夏物語』(2019年)を取り上げる。主人公である夏子が、なぜ非配偶者間人工受精(AID)を利用してでも自分の血の繋がりのある存在を求め、さらに「どうして子どもなんて」産もうとするのかという問いについて考えたい。
 この問いに対する答えを明確にするために、AIDの結果産まれた善百合子の反出生主義的な思想を参考にする。百合子は夏子に対して、子を産むことは「賭け」ではないのか、出産は夏子の欲望に過ぎないのではないかと問いかける。そこでさらに着目したいのは、夏子の出産願望と百合子の反出生主義的な思想の対立ではなく、百合子の意見を受け止める夏子の姿勢である。たとえば、夏子は出産を望むことにより反出生主義に抗うような行動を取りながらも、「生まれてこなければ良かった」と思い続ける「子ども」のままの百合子の声を聴こうとする。
 以上の推論から、結論として、夏子は男性と結婚して子を出産するというジェンダー規範に従った異性愛者の立場にいながらも、反出生主義的な思想を拒んでいないとまとめる。その反出生主義的な思想を持つ百合子との出会いをきっかけに、夏子は貧困問題を抱える「笑橋」の人々の生きる意味や、AIDを選択肢に入れているような同性愛者たちが子を持つことの意味も見出そうとしている。最終的に、夏子は「どうして子どもなんて」という問いかけに絶えず悩みつつも、子を産むことの意味/無意味を受けとめている存在だとまとめたい。

尾辻克彦「父が消えた」におけるテクスト内写真制作について/五十嵐千夏(北海道大学)

 芸術家・赤瀬川原平(1937-2014)が尾辻克彦の筆名で発表した短編小説「父が消えた」(1980年12月)は、語り手にとって身近な人物の重病/死という主題、写真撮影や遺影モチーフの頻用において、約半年前に発表された連作短編「牡蠣の季節」(同年5月)と「冷蔵庫」(同年6月)との連関が指摘できる。これらの作品は、旧友の病や父の死という経験の解釈過程を語り手の独白や会話で表しながら、語り手を含む登場人物に発言や記述といった言語表現の遂行をしばしば成就させないことで、言語表現の行き詰まりをも書き込んでいる。しかしここで注意すべきなのは、言葉の空白を補填するように、写真のモチーフや写真撮影・加工の手つきが作品全編に点在していることである。
 本発表は、三作品のうち最後に執筆・発表された「父が消えた」を主な対象に、身近な人々の病や死に対して同作の語りが編み出している、写真制作の手法を交えた独自の制作的アプローチを考究する。作業としてはまず、尾辻作品の技法上の特徴として知られる比喩の用法を手掛かりに、小説からずれた位置にあるもう一つの制作手法として、作中に読み取れる写真制作の手つきを指摘する。そのうえで、三作品の主題にとって最も象徴的なモチーフ・遺影が、海の香り、化学物質による体質変化などの各作品に共有された要素の作用によって、テクスト上で作り変えられてゆく過程を明らかにする。

ジョン・バージャー、ジャン・モア『七番目の男』と逃走の権利/田尻歩(東京理科大学)

 本発表は、イギリス出身の作家ジョン・バージャーが文章を、スイス出身の写真家ジャン・モアが写真を担当したドキュメンタリー作品『第七の男A Seventh Man』(1975)における移民の主体性の描かれ方に焦点を当てる。
 1950年代にはマルクス主義的な立場からの芸術批評で論争を巻き起こしていたバージャーは、60年代半ばから反帝国主義・脱植民地化の国際的な運動への共感を強めていった。ヨーロッパにおける移民の経験を主題とする『第七の男』は、この問題関心の延長線上に作られている。ドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせ、移民の個人的経験とその経験を条件づける客観的状況の記述を並置する文章は、モアの写真と合わさり、異種混交的で複雑なモンタージュを成している。
 政治理論家サンドロ・メッザードラは、資本主義は一方で労働者の移動性の制限を至上命題とするが、他方で資本主義的な規範の拒否や逃走といった実践に直面するため、移民たちの移動は構造的な過剰性・自律性を持つと論じ、主体的実践や欲望の側から移民たちを考える視点の重要性を強調した。本発表はこの見方を援用し、複雑な芸術形式によってしか可能でないかたちで資本主義における男性移民労働者の主体性の生産プロセスを表象したドキュメンタリー写真作品として『第七の男』を分析する。その際、小説『G.』でのブッカー賞受賞スピーチやバージャーの黒人知識人・活動家との交流関係、当時の社会状況から作品を文脈化する。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年10月5日 発行