個人研究発表セッション1
日時:2024 年7月7日(日)10:00-12:00
場所:H号館 H201
・ポスト・メディウム的状況において芸術作品の「フォルム」をどのように記述するのか──マリリン・ストラザーンによる人類学的な記述の再概念化/藤田周(東京外国語大学)
・音声というメディア——言語的意味の伝達に「失敗」するとき/堀内彩虹(早稲田大学)
・コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の検討──「タスク」概念を通して/藤堂寛子(信州大学)
【司会】大橋完太郎(神戸大学)
個人研究発表セッション1では、大橋完太郎氏司会のもと、藤田周氏(東京外国語大学)による『ポスト・メディウム的状況において芸術作品の「フォルム」をどのように記述するのか─マリリン・ストラザーンによる人類学的な記述の再概念化』、堀内彩虹氏(早稲田大学)による『音声というメディア─言語的意味の伝達に「失敗」するとき』、そして藤堂寛子(信州大学、報告者)『コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の検討:「タスク」概念を通して』の3つの研究発表が行われた。
最初の登壇者である藤田氏の発表では、形式主義が有効性を失っているはずの現代アートのポストメディウム的状況において、なおも作品の「フォルム(form/forme)」が問題になっていることが指摘され、現代アート作品のフォルムを記述するためには、文化人類学で論じられる「置換」という枠組みを補助線に引いて考察する方法論が有効であることが示された。本発表ではまず、リクリット・ティラヴァーニャによるUntitled (Free) (1992)に対する批評において、作品の要素の中で有意義であると認められるものに関して批評家の間で一致がないこと、さらに永田康祐によるAudio Guide (2019)において、作品の要素から際限なく文脈が広がっていってしまうことなどが確認された。ここで藤田氏は「どのような要素のいかなる同定ができれば、作品の構造が、あるいは要素と構造からなるものとしての作品がわかったことになるのか?」と問う。その上で参照されたのがストラザーンによる『部分的つながり』(1991)における「記述」についての主張である。藤田氏は「比較」とは、事例を一般化・抽象化し、何が意義のある差異であるかを提示するものであることを確認した上で、ストラザーンによるメラネシア地域を対象とした比較について読解し、ワントアトの像やマッシム群島のカヌーにみられるイメージは、「精霊の力の現前」や「産出力」といった「イメージャリー (imagery)」を喚起するものとしてあり、複数のイメージが次々と提示される場合、それらは一つ前のものを「置換 (displace)」しながら後に続くイメージを「引き出したり拡張したりする」ものであって、この「イメージの置換において、それぞれのイメージは異なった効果を生み出しながらも同一視されるアナロジー」であり、これは「関係を明らかにするという特定の効果をもたらす」と述べる。本発表ではこの「イメージの置換」という観点をもって現代アートが考察され、この「置換」される要素から喚起される構造において有意義であるか否かによって作品のフォルムを判断することが可能であり、この「構造の喚起」に関与しない限り、「要素のようなものや、要素の細部や文脈への言及それ自体は不要」であるという主張が説得的に示された。
続く堀内氏の発表は、「日常の発話において人が音声を通じて何かを伝えるとき、発せられた内容がその言語的意味とは異なる意味で解釈される」=「失敗する」場合を問題として提起し、「言語的意味」と「言語上の意味とは異なる意味」の境界に存在する音声のありさまについて詳らかにするものであった。本発表ではまず、体調を崩していた友人の「大丈夫」という発言の言語的意味とは裏腹に、その「音響的現れ」から体調の悪さを受け取ったり、「兵士たちよ、攻撃せよ!」と命令する指揮官の発言の言語的意味とは無関係に、その声の美しさに注意が向いたりする例 (Mladen Dolar)—言語的意味が「音声というメディアによって解体される」=伝達に「失敗」する例—が提示された。このような時、発話側が意図した言語的意味ではなく、受信側は「音声の音自体に対して何らかの意味解釈をしている」と考えられる。堀内氏は、音声が「『言語ではない』方へ転がっていくとき、音声の何がそうさせるのか?」と問う。ここで問いはエセキエル・ディ・パオロらの主張にみられるエナクティヴィズムの根本的な考え方である、「認知者の身体行為が認知を成り立たせる(認知内容は、認知者の身体条件に依存する)」という視点から照射された。「発声」とは「解剖学的には異なる複数の部分の、それぞれの個別的だが連動する複数の運動と、その身体運動が環境との相互作用において受ける反応とが織り込まれた、時間性と空間性を伴った出来事」であって、この出来事は「繰り返される発声経験を通じて行為主体の身体に刻み込まれ、蓄積され、発動する循環」をつくるのであり、発声は人それぞれにそのときどきで異なる経験でありうるがゆえに、発声の記憶に基づいて音声を聴く聴き手の解釈には複数の可能性が開かれている。一方でその可能性は無限ではなく、この「音声と身体の物質的関係」こそが「個人の言語をめぐる身体行為とその経験の蓄積を通じて弁証法的に成り立って」いるがゆえに「個人的」であり、自らの意志に関わらず「人はそのときたった一つの仕方でしか対象に接近」できないのである。そして何らかの不調を患っている人の声から「『患い』が聴こえる」のは、患いの経験における声は「視覚的に確認することは基本的にできない」「身体内部を指し示す音」として身体と物質的に強く結びついており、他者の声を聴取する際にも自己の患いの経験が強く想起される可能性があるからであり、「他者の身体の現前をよりありありとしたもの」にするのである。堀内氏の議論は、発声の聴き手は、「自己の身体経験に基づく音声と身体の物質的関係の蓄積がつくり出した身体の音の解釈学で他者の音声の意味をとらえようとする」のであり、「他者の声の意味とは、聴き手の身体上に開かれている」のであるという結論へと導かれた。
3つ目の発表で藤堂は、1960年代にあらゆる様式性を否定したポストモダン・ダンスの出現を見た後に名指されるようになった「コンテンポラリー・ダンス」において、西洋の伝統的な舞踊様式であるクラシック・バレエが利用されている現状について、1960年代以降に即興的なムーヴメントを誘発するための装置として利用されるようになった「タスク」の概念に着目しながら、特にウィリアム・フォーサイスによるクラシック・バレエ利用を検討することで読解を試みた。フォーサイスはクラシック・バレエ再解釈の仕事の一つとして、バレエの言語体系の解析とインプロヴィゼーションの適用により、動きの多様性の幅を押し広げながらダンサー自身がダンスを即興で組み立てていくことを可能にした。この再解釈は、15世紀からバレエが獲得してきたイデオロギー性を取り去ったジョージ・バランシンの影響が大きいものであることは広く知られているが、本発表では、このようなクラシシズムの利用が「コンテンポラリー・ダンス」として認識される背景に、ポストモダン・ダンスにおける「タスク」概念があることを強調した。「タスク」とは、即興を採用することで逆説的に足かせとなってしまう「無限の可能性」をある程度限定し、動きを効率的に作り出すために利用された動きの指示書きなどのことを指し(Nalina Wait)、このように環境を設定することで動きを発生させようとする考え方は、それ以前のダンスの組み立て方と方向性が異なっている。コンテンポラリー・ダンスにおいて利用されるクラシック・バレエとはこの「タスク」として機能することで、歴史の再演ではなく、身体に働きかけ、また働き返されることでダンスを組織する装置として読み直されているのである。
発表後に質疑応答と全体討議がなされた。三者の発表は、領域、対象、方法論のいずれにおいても異なるものであったが、司会の大橋氏とフロアから投げかけられた質問により、「フォルム」「無限のアナロジーの制限」「組織化」「全体と部分」などの共通のキーワードを軸に連関した活発な議論が行われ、今後の研究の発展に寄与する有意義なものとなった。
ポスト・メディウム的状況において芸術作品の「フォルム」をどのように記述するのか──マリリン・ストラザーンによる人類学的な記述の再概念化/藤田周(東京外国語大学)
本発表は芸術作品の「フォルム」(form/forme)をどのように判断するかという問いについて、人類学者マリリン・ストラザーンの『部分的つながり』(2004年)をもとに考察する。
現代アートにおけるメディウムの多様化にもかかわらず、そして「フォルム」という概念によって作品の構成要素や作品の構造などのうち何を指示するかについて同意がないにもかかわらず、作品分析における「フォルム」の重要性は失われていない。ニコラ・ブリオーやクレア・ビショップ、ジャック・ランシエールといった批評家は関係性の美学の代表例とされる作品について、互いに他が作品の要素を十分に論じていないと述べた上で、その構造について自身の主張を展開する。
しかし奇妙なことに、三者はそうした作品の要素が何であるか異なる見解を持ちながら、それらの要素にもとづくはずの構造が社会関係に関わることには同意している。似た事態は永田康祐の《Audio Guide》(2019年-)でも生じている。これは平面作品や古地図、3DCGといった展⽰物と、それらに付帯するオーディオガイドからなるインスタレーションだが、その展示物は視覚的性質だけでなくそれらが由来する文脈から意味を得ているので、記述すべき要素は際限なく広がるようでもある。だがおそらく、観客はその構造が視覚の構築に関わると理解できるだろう。では、作品の「フォルム」──要素であれ構造であれ──についていかに考えるべきなのか。
これと類似した問い、つまり人類学者は現象をいかに記述すべきかという問題を検討したのが、ストラザーンの『部分的つながり』である。本発表は、同書が論じたメラネシア的な「フォルム」の概念化について考察し、それをもとに《Audio Guide》を考えることで、「フォルム」の記述のための枠組みを提起する。
音声というメディア──言語的意味の伝達に「失敗」するとき/堀内彩虹(早稲田大学)
人が声で何かを伝えるとき、発せられた内容がその言語的意味とは異なる意味として解釈されることがある。例えば、しばらく体調をくずしていた友人に会った人が友人に向かって「大丈夫?」とたずねたとき、友人は「大丈夫」と答えたものの、その人は友人の声の現れから友人の体調はまだよくないようだと判断する場面が挙げられる。この例では、音声を通じて表された言語的意味内容がその音声自体によって解体され、別の意味解釈の可能性が生みだされているようにみえる。このとき、声はいったい何を伝えているのだろうか。
本発表は、前述のような日常の発話の例を言語的意味の伝達の「失敗」と位置づけ、音声の何が伝達を「失敗」へ導くのかを身体の「患い」を手がかりとしながら身体とその音の関係から考える。エセキエル・ディ・パオロは、言語行為をエナクティヴな視点から論じるなかで、言語の音がその物質性ゆえに解釈において開放性をもつと述べる。本発表は、言語のエナクティヴ研究に依拠にしつつ、音声はその生成において身体と強い結びつきをもつために発声者の身体との関係において理解されがちだが、聴き手も発声する経験をもつ場合、伝達される意味の解釈においては聴き手の身体が強く関与すると論を展開する。本発表を通じて、不安定な意味の境界にたつ音声の聴取において「患い」の音が、音声の言語的意味解釈の可能性を退け、その音の記号論的解釈を聴き手の身体上の意味へとひらいていくことを明らかにしたい。
コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の検討──「タスク」概念を通して/藤堂寛子(信州大学)
「コンテンポラリー・ダンス」という名称が人口に膾炙するようになってから久しいが、そもそも定義されることそれ自体を否定するといってもよいこのジャンルにおいて、古典的な様式の代表であるクラシック・バレエの諸要素が利用されることは珍しいことではない。
西洋劇場舞踊において何を「クラシック」として名指すのかについては厳密に画定されてはおらず、16〜18世紀にかけて成立した規律を基盤とし、18世紀ノヴェールらの「バレエ・ダクシオン(ballet d’action)」によるナラティヴ、19世紀ロマンティック・バレエ、そしてマリウス・プティパによるコード化を経たいわゆる「クラシック・バレエ」と、20世紀のジョージ・バランシンやジョン・ノイマイヤーらによる「ネオ・クラシック」、そしてヴィジュアル・アートなど他分野との垣根が曖昧になったコンテンポラリー・ダンス内でクラシック・バレエの要素が利用される場合などが混在している状態であるといってよい。
本発表では上記のうち、コンテンポラリー・ダンス内で利用されるクラシック・バレエに焦点を絞り、これを分析するための補助線として、1960年代以降にムーヴメントを誘発するための装置として利用されるようになった「タスク」の概念に着目したい。そして特にウィリアム・フォーサイスによるクラシック利用の検討から出発することで、コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の一端について読解を試みたい。