パネル2 作品の物質的メディウムと共同性の場 受容経験の再定位をめざして
日時:2024年7月7日(日)13:45-15:45
場所:H号館 H201
・映像としての字幕──日本語を話すアニメと中国語で書かれた字幕は如何に受容されるのか/徐舒陽(早稲田大学)
・テクストの情動──チャック・パラニュークと「アメリカン・ドリーム」/鄧佳致(早稲田大学)
・猫を描く──大島弓子作品における「メディウムとしての猫」の諸相/石岡良治(早稲田大学)
【コメンテイター】三輪健太朗(東京大学)
【司会】石岡良治(早稲田大学)
本パネルでは、アニメ・小説・マンガの3つのジャンルにおける作品の受容経験や解釈について、そのメディウム性に注目した検討が行われた。ただしここで「メディウム」という概念は、必ずしも作品の物質的側面に注目するという意味合いにおいてのみ用いられたわけではなかったようだ。3つの発表では、この概念がそれぞれの仕方で展開され、各々のジャンルや対象に適した分析の視座が設定されることとなった。
最初の発表者である徐舒陽氏は、インターネット上で広く流通してきた字幕付きの海賊版日本アニメを対象に、その視聴経験を分析する。この種の海賊版は、厳しい検閲が行われてきた中国においては2010年代前半ごろまで日本アニメ視聴の中心的な形態となってきたという。これらの海賊版においてしばしば見られるのが、ファンによって自主的に加えられた外国語字幕、いわゆる「ファンサブ」である。日本語の音声に非公式の中国語字幕が加えられたアニメの視聴体験は、日本語を解さない中国の観客にとってどのようなものとなるのだろうか。
発表では、中国語ファンサブ動画の特徴として大きく2つの要素が指摘された。第一に、逐語訳的で原文に近い翻訳が行われる傾向にあること、第二に、翻訳された中国語字幕と元の日本語字幕の両方が表示されるケースが存在することである。そのため、視聴者は日本語の文章と中国語の文章を対照し、その対応関係を探りながらアニメを鑑賞することになる。結果として、代名詞のような頻出語や簡単な単語を手掛かりに日本語と中国語の字幕を比較し、パズルゲームのように文法の構造を推測する経験が生じるという。徐氏は、このような事態は吹き替え版の視聴においては起こり得ないものであり、ファンサブ動画の視聴に固有の多言語的経験として評価できるのではないかと結論づけた。
続く鄧佳致氏の発表では、アメリカの小説家チャック・パラニュークの初期作品が「孤立」と「共同性」という主題に沿って検討された。発表者によれば、初期の長編作品『ファイト・クラブ』『サバイバー』『インヴィジブル・モンスターズ』『チョーク』は同じ問題系をめぐって展開されているという。その主題とは、華々しい「アメリカの夢」の反面としての個人の孤立であり、また孤立した人間たちが他者との繋がりを取り戻す方法である。発表では、小説を通してポストモダン的な社会における孤立からの脱出方法を模索したパラニュークの道のりを明らかにすることが目指された。
これらの作品の登場人物たちは、世界から孤立し「閉じ込め」られているという感覚に苛まれる。この閉塞感を打破するため、4作品はそれぞれ少しずつ異なる方法を採用した。すなわち、手段としての暴力を描く『インヴィジブル・モンスターズ』および目的化した暴力を描く『ファイト・クラブ』、逆に暴力に巻き込まれる無力な存在を描いた『サバイバー』を経て、無力への志向が力に反転する様を主題とした『チョーク』へと至ったというのが、鄧氏による整理だ。この主題的な展開に加えて、互助グループ的な価値観への関心やパラニュークのジャーナリスト性が指摘された。パラニュークはその活動を通して、各々が自らの無力を受け入れることによって新たな共同体を作り出すことを目指したのだという。
最後の石岡良治氏による発表では、マンガ家・大島弓子の作品における猫のイメージを渉猟し、作家のキャリアを貫くモチーフがいかに現れ展開したかを明らかにすることが試みられた。石岡氏はまず大島の初期作品において猫への関心が希薄であることを確認したうえで、擬人化された猫を主人公に据えた代表作『綿の国星』シリーズ以降に現実の猫への関心も高まり、『グーグーだって猫である』に代表されるその後の猫エッセイマンガへと展開した流れを詳細に辿っていく。ただし、発表者が強調するのはこのような図式的な整理の難しさである。
『綿の国星』シリーズ内だけでなく雑誌『LaLa』の表紙など様々な場に登場した「チビ猫」のイメージや、複数の雑誌にまたがって展開されたことで全体像を掴むのが困難な飼い猫「サバ」関連のエッセイマンガ、『グーグーだって猫である』と並行して展開された絵本形式の『ちびねこ』シリーズなど、猫のイメージはフィクションとエッセイの間を揺れ動きながら、大島の活動のいたるところに出没している。これらはしばしば独立した作品としての輪郭を定めるのが困難であり、大島は「猫」というモチーフを変奏しつつ複数の媒体で表現を展開した人物として理解されなければならない。このような意味で、大島にとって「猫」とは一連の活動を可能にする「メディウム」であったと石岡氏は結論づける。
発表を受け、コメンテイターの三輪健太朗氏からは以下のような議論が提起された。
まず徐氏の発表について、音声表現と字幕の対応が主に扱われたのに対して映像表現と字幕との関係はどのように考えられるのか、また実写の映像作品とアニメとの違いはあるのか、という2つの質問が投げかけられた。発表者からは、映像の内容に関する注など映像表現に対して文字情報を付加する例があること、ファンサブ的な活動はこれまでアニメ文化を中心に展開してきたものであることが説明された。
続く鄧氏の発表に対しては、『インヴィジブル・モンスターズ』『ファイト・クラブ』における手段としての暴力と目的としての暴力の区別の難しさが指摘されたうえで、パラニューク作品における文体など表現の次元が今回検討された主題とどのように関わるのかという問いが提起された。発表者からは、作品の表現やそれを受けたファンの活動に関する調査を今後の課題としたいとの応答があった。
最後の発表者である石岡氏に対しては、「猫」の特異性をめぐる議論が投げかけられた。その後会場から挙がった『綿の国星』1作目における猫モチーフの機能に関する質問とあわせて、大島作品の中心的モチーフが猫であることの意味やその作品内での機能についての問いである。これに対し石岡氏は、大島作品においては動物種としての「猫」よりも作者が出会った個々の猫との経験が重要であり、猫はその時々の多様な関心や経験を受け入れることのできる器として機能していたと回答する。さらにそのうえで、同じテーマやモチーフの変奏という傾向自体に大島の作家性を見ることができるのではないかという見解が示唆された。
以上が当日に行われた議論の概要である。最後に、それぞれの発表における「メディウム」の位置を検討し、パネル全体としてのコンセプトについて報告者が感じた可能性を記しておきたい。
最初の発表は、日本語を理解しない観客と日本語音声作品をつなぐメディウムとしての字幕を検討したものと言えるだろう。コンテンツの内容よりもそれが伝達される際の物質的あるいは形式的な条件に着目するという点で、3つの発表のなかで最も一般的な意味で「メディウム」が捉えられている。
続く発表で指摘されたのは、パラニュークにとって小説がジャーナリスティックな課題への回答を模索するためのメディウムとなっていたことだった。こちらは受容経験というよりも作家の活動にとっての表現のメディウム性に着目したものと言えるだろう。
最後の発表では、大島弓子という作家あるいはその作品群において「猫」というモチーフがその活動を可能にするメディウムとして機能していたことが指摘された。これも受容経験よりは作家の活動に注目したものだが、「小説」がメディウムとなったパラニュークの場合とは異なり、モチーフが作品群を生み出すメディウムとなる事態が分析されている。
これらに通底するのは、個々の作品の内容以上に、複数の作品の制作や受容を通して現れる経験に注目する態度だと考えられる。自立した作品というよりも何らかの経験をもたらすメディウムとして表現を捉えることで、古典的な作品/作家研究とは異なる視座がもたらされるだろう。このような方法は、とりわけ多様な形で表現が発表/流通/受容され、個々の作品の輪郭を捉えることが難しい大衆的な文化現象の分析において効果を発揮しやすいものと考えられる。
パネル概要
小説やマンガ・アニメなどの作品受容において、文字、音声、映像といったメディウムは、静的な記号の集合体にはとどまらず、動的に作用することで、受容者の身体に働きかける意味形成性のプロセスに関与している。たとえ単独的な経験と解されているときであっても、物質的なメディウムは、受容経験における共同性の場を形成しているように思われる。
本パネルはこうした問題意識に基づく3つの発表から構成される。徐は、日本アニメの中国語字幕による受容の場において、言語翻訳と記号性が交錯する多種多様な媒介性が作動していることを分析する。鄭は、暴力的なマチズモの作家とみられやすいパラニュークの小説作品を「接触性」という観点から検討し、そこで形成される共同性がいかにアメリカン・ドリームの多面性を照射しているのかの可能性を探る。石岡は、大島弓子のマンガ作品をメディウムとしての猫という観点から検討し、人間と猫を含む多種多様な行為者の役割に注目する。
以上の3つの発表を通じて、本パネルではメディウムの物質性が作動している様々な場面を精査することで、作品受容におけるメディウムの役割を分析する。その上で、多様な行為体が介在する「共同性の場」を開く可能性を明らかにし、人間中心的な知覚にとどまらない多種多様な行為者性が作品受容に働いていることを示したい。
映像としての字幕―日本語を話すアニメと中国語で書かれた字幕は如何に受容されるのか/徐舒陽(早稲田大学)
字幕というメディウムは台詞などの音声言語を文字言語に変換してから視聴者に示す。故に字幕を介する視聴は不思議な映像体験をもたらす。語学の知識がなくても、話されている言葉の「意味」だけは目で読んで分かり、導かれた「意味形成」を辿って言葉レベルで異文化に近づけた感覚を味わえるのである。
本発表は中国語の字幕を介して日本のアニメを視聴する体験に注目しつつ、従来の言語学・翻訳学では十分にさばききれていないように思われる字幕のあり方を分析したい。字幕への注目は、映像の物質性の作用から来ている。文字言語が空間的に提示されるのに対して、音声言語と画面の運動は時間的に提示される。二つの「言語」が互いに異質性を抱えたまま統一体として示されると、文法の差異は必然的に我々の前で立ち上がることになるだろう。語学の前提知識なしでも一部の音読みの単語や反復される単語を文の中で特定できるとなると、語順の差異はどうしても隠しきれない。
つまりこの受容は、異質性を明確に認識し、何等かの手段でそれを解消しながら理解する行為として考えられる。そして受容の捉え方次第で、字幕のあり方も大きく変わる。
そこで本発表は「映像としての字幕」を探求すべく、日本語知識のない視聴者にフォーカスし、中国で字幕を介して日本のアニメを楽しむ映像体験について分析し、字幕による意味形成を実証的に考察することで、そのあり方を問い直すことを目指したい。
テクストの情動──チャック・パラニュークと「アメリカン・ドリーム」/鄧佳致(早稲田大学)
『ファイト・クラブ』の作者として知られるチャック・パラニュークはポストモダン社会のリズムに合わせた文体を持つ。彼の小説は社会における前反省的な情動を明確に捉えると同時に、それ自体が様々なニューメディアのテクニックを取り入れることで情動的なテクストとなる。
この前提に基づく本発表は以下のような構成をもつ。第一節では、ポストモダン消費社会とそこで生きる人間の身体表象に注目し、そこで前反省な情動はどのように描かれるのかを明らかにする。第二節では、パラニュークの「マッチョではない」側面に光を当て、暴力とは異なる接触という、より間主観的な視点から、肉体的接触、幻想の接触、文明と個人の接触など様々な接触を取り上げ、彼の小説の再構成を試みる。第三節では、パラニュークの小説における社会と個人を媒介する「互助グループ」という共同体のあり方に注目し、「アメリカン・ドリーム」がもたらす疎外をどのように克服できるのか、という問題についてのパラニュークの思考を明らかにする。第四節では、パラニュークの思考を歴史的に相対化し、ビートジェネレーションとヒッピー世代の系譜に位置づけ、そのポテンシャルと限界を論じる。
以上、本発表は「アメリカン・ドリーム」とそこに対抗する人たちがパラニュークのテクストに現れていることに注目し、前反省的な情動という視点から、ポストモダンにおける社会と個人の関係およびその変更可能性を論じる。
猫を描く──大島弓子作品における「メディウムとしての猫」の諸相/石岡良治(早稲田大学)
ストーリーマンガ『綿の国星』(1978-87)やエッセイマンガ『グーグーだって猫である』(1996-2011)などで知られる大島弓子は、「猫耳少女」の表象ひいては猫マンガの第一人者とみなされている。本発表は、大島弓子作品における「猫を描く」という主題の意義を、「メディウムとしての猫」に注目しつつ辿り直し、作品の総体を照らし出すことを目指す。
まず大島弓子の初期作品における「猫の希薄さ」に着目し、主として『綿の国星』第一作(1978)以前の猫の表象を検討する。第二に、猫耳とともに擬人化された猫の表象で広く知られる『綿の国星』が連作となる過程を分析しつつ、飼い猫「サバ」との生活をテーマとしたエッセイマンガ群(1985-92)を、猫という主題におけるフィクションとドキュメントの交錯という観点から分析する。第三に、猫が擬人化されなくなる『グーグーだって猫である』の執筆期とほぼ同時期に、絵本に分類され、『綿の国星』のスピンオフとみなされる『ちびねこ』(1994-2006)が執筆されていたことの意義を検討する。
以上、猫の表象の推移を年代順にたどった後、これらの作品群に現れる「猫以外の動植物」の役割を概観し、人間をその一部として含む多種多様な行為者性の機能を分析することで、大島弓子作品言説における「内面」描写をめぐる通念を「外に置かれた」表現という点から問い直し、猫マンガの第一人者というイメージを再定位する手がかりを得たいと考えている。