第18回大会報告

パネル1 ギャンブルの美学 パチンコ、麻雀、実存

報告:難波優輝

日時:2024年7月7日(日)10:00-12:00
場所:H号館 H302

ヴァナキュラー文化としての麻雀オカルト戦術そのメカニズムと美的意識齊藤竹善
ベイトソンによる人間関係の形式再考──パチプロ嫌いなパチプロの事例から松崎かさね(福井県立大学)
ギャンブル的主体──退屈と不可知性の崇高の美学難波優輝(立命館大学)
【コメンテイター】師田史子(京都大学)
【司会】難波優輝(立命館大学)


本発表パネルは、ギャンブルが私たちの人生に与える影響とその意味について、民俗学、人類学、美学の三つの観点から明らかにするものだ。ギャンブルはしばしば医療的な問題として扱われ、その倫理的な側面が議論の中心となるが、本発表はギャンブルがなぜ多くの人々を惹きつけ、私たちの人生にどのような意味をもたらすのかという美的な側面を探求する。ギャンブルを社会的/倫理的に非難するにせよ、擁護するにせよ、そもそもいかにしてギャンブルが私たちの人生にどんな意味をもたらすかを明らかにしない限り、それらの非難や擁護の適切な理由づけを行うことは難しいからだ。

本研究では、ギャンブル実践のなかで、ギャンブルという現象が、個人に対してどのようにスタイルや価値観の探求を促すのか、そしてギャンブルの中で発見され獲得された価値観や経験がどのように個人の人生の指針となり得るのかを分析する。民俗学的な観点からは、麻雀というゲームにおける「オカルト」概念をめぐる論争を考察し、人類学からは、パチンコによる稼ぎで生計を立てるパチプロたちの多元的なギャンブルとの付き合い方を分類し、分析美学の視点からは、ギャンブル的主体における賭けの経験を退屈と崇高概念から分析することで、「生の実感」の美学的分析を試みる。これらの横断的な研究を通じて、ギャンブル的事象が私たちの生に意味をもたらす力学を明らかにし、ギャンブルに対する一面的な見方を超えた多面的な理解を目指す。

まず、松崎かさね(福井県立大学)による「ベイトソンによる人間関係の形式再考––––パチプロ嫌いなパチプロの事例から」は、パチプロの語りから、パチンコとの付き合い方にどのような種類があるのか、そして「依存」というキーワードから、その付き合い方を分析するものである。

しかし、一括りにパチプロといっても、発表者の調査によれば、彼らは大きく二つのタイプに分けられる。この二つのタイプは、プロギャンブラーとしてのスタンスにおいて実に対照的な性質を持っているようである。発表では、特にパチプロ嫌いなパチプロという特異な人物の事例を通じて、この二つのタイプについて考察された。二つのタイプといえば、アルコール依存症の治癒過程について論じたグレゴリー・ベイトソンの議論が思い出される。彼は、人間関係の形式として「対称型」と「相補型」の二つを挙げている。前者の「対称型」は、相手の行動に対して同様の行動で応じるパターンである。この場合、相手の行動を強く受けるほど、個人は同じ型の行動へと駆り立てられるとされる。スポーツ競技や隣人同士の見栄張りなどがその例に挙げられる。一方で「相補型」は、片方の行動が相手の行動を強めるものの、その両者の行動は対をなし、互いを支え合う形で結びつく関係である。このパターンの例としては支配と服従、養育と依存、見ると見せる関係などが挙げられる。ベイトソンによれば、依存症者は徹底した「対称型」の関係を生きており、飲酒を止めようとする妻や友人に反発し、自分の強さを証明しようとして酒に手を伸ばすのである。したがって、そこに「相補型」を取り込むことが治療の目標とされる。しかし本発表では、パチプロの語りをもとに、両者の位置関係を逆にして考えた方がより適切であることが示された。むしろ非依存的なパチプロは競争的に店と戦っており、自分の手の内を他人に明かすことはないために、対称型の関係をパチンコ店と結んでいる。対して、元依存的なパチプロは、教育関係に入ることを望み、教師と教え子、という相補型の関係を人々を結びがちであるからだ。

次に、齊藤竹善(大阪公立大学)による発表は、「ヴァナキュラー文化としての麻雀オカルト戦術––––そのメカニズムと美的意識––––」と題し、「オカルト」という否定的な言明の下に扱われた戦術を唱えていた、阿佐田哲也(色川武大)、小島武夫、土田浩翔らの麻雀論を紹介し、その中で培われた独自の理論をヴァナキュラーな文化の中で培われた独自の風習として捉え、そのメカニズムと、そこに内在する美的感覚について検証するものだ。齊藤は民俗学研究の観点から、麻雀の分析に取り組んでおり、「麻雀戦術の歴史人類学––––「オカルト/デジタル」戦術のアクターネットワーク––––」は、ブルーノ・ラトゥールらが提唱するアクターネットワークセオリーを用い、「オカルト」と見做された麻雀戦術と、「デジタル」とされる麻雀戦術とを相対性の原理の元に分析している。本発表では、齊藤の研究をより具体的な麻雀実践に即して発展させるものだった。麻雀において、「オカルト」と見做される人々は、「流れ」といった感覚的な概念を用い、それを選択の根拠としたり、「流れ」をうまく生み出すために、様々な独自の理論に基づく選択を行ったりする。この戦術は「デジタル」とされる派閥の人々によって否定されてきたが、現代においても、「オカルト」戦術を用いる人々は存在する。発表では、なぜ戦後知識人であり、「近代人」であるはずの彼らが「流れ」や「ツキ」といった非科学的とみなされる現象を用い、前近代的な説明を行うのか、麻雀というゲームの持つ性質を踏まえながら論じ、最終的に、彼らが麻雀という不確定要素の強い遊びを馴致し、コントロール可能なものにしようとする取り組みとして「オカルト」的な実践が行われていることが明らかになった。

最後に、難波優輝(newQ/立命館大学/慶應義塾大学)は「ギャンブル的主体──退屈と不可知性の崇高の美学──」で、ギャンブラーの美的経験と実存を美学から考察する。発表では、ギャンブル的主体における賭けの経験を退屈と崇高概念から分析することで、「生の実感」の美学的分析を試み、新たなタイプの実存主義的美学を提示する。ギャンブル的主体である人々は、賭けていない日常にしばしば「退屈」の気分を覚える。この気分は現在の主体が本来的な自己ではないことを予感させ、人々を賭けの機会へと誘う。なぜなら、ギャンブル的主体は賭けの中でこそ本来的な生き生きとした生を実感するからだ。ギャンブル的主体にとっての生の実感は「不可知性の崇高」である。ギャンブルの中で、マシンや対戦相手の傾向性を把握し、計算可能なエビデンスに基づき合理的判断を行う。しかし、ギャンブルの美的な快楽は、こうした可知性で塗りつぶした先に、究極的に偶然と運命に委ねざるを得ない不可知の領域がまざまざとクリアに認識されることから生じる。自らの認識能力を超えた偶然と遭遇することがギャンブル的崇高であり、このおののきの瞬間に身を投じる瞬間、ギャンブル的主体は生の実感を覚える。しかし、現状では、ギャンブル的主体にとっての生の実感を覚える場所は搾取的なカジノなどに限定されている。これは他の主体のあり方においては分配されているはずの生の実感が正当に分配されていない点で不正義であり、より多元的な場でギャンブル的経験を可能にすること、すなわち「ギャンブル正義」を実現する必要性を発表者は主張した。

その後のディスカッションではいくつもの興味深い論点が生まれた。

松崎の発表に対しては、「ギャンブルの究極的なかたちは、呼びかけたときに運の女神のようなものに振り向いてもらえるかもらえないか分からない、裏切られたりする緊張感ではないか?」と問われた。言い換えれば、 ギャンブルにおいては、ギャンブルを行う者が、ゲームの「流れ」や運のような抽象的で目には見えない対象と何らかの関係を結んでいることが重要であり、その関係性は、対称型でも相補型でもない、独特な関係としてさらに分析が可能なのではないか、というアイデアが生まれた。

斎藤の発表に対しては、「オカルトが生き続けるのは、それがないと楽しくないからでは?」という質問がなされた。例えギャンブルに対する統計学的な分析が発展したとしても、なお現実に裏切られることが独特の不可知性の快楽を生み出し、「驚き」の一瞬の後に予想を乗り越えるような現実性が露呈するときにギャンブルの喜びをオカルトの魅力が垣間見られるのではないか、と議論が発展していった。

難波の発表に対しては、「ギャンブル的主体が疎外されてこなかったことはないのではないか?」という質問がなされた。確かに、人類はギャンブル的な生き方を人生の規範例としてはこなかったように思われる。しかし、もし生活から一切のギャンブルがなくなってしまえば人生の重要な意義深さがなくなってしまう可能性がディスカッションのなかで指摘された。

人文学的なギャンブル研究はいまだ発展の途上であるが、本発表では参加者からの質問やその後のディスカッションの様子から、ギャンブル研究が非常に魅力的で生産的な分野であることが予感された。よりいっそうギャンブル研究が広がっていくことを期待する。


パネル概要

本発表は、ギャンブルが私たちの人生に与える影響とその意味について、民俗学、人類学、美学の三つの観点から明らかにする。ギャンブルはしばしば医療的な問題として扱われ、その倫理的な側面が議論の中心となるが、本発表はギャンブルがなぜ多くの人々を惹きつけ、私たちの人生にどのような意味をもたらすのかという美的な側面を探求する。ギャンブルを社会的/倫理的に非難するにせよ、擁護するにせよ、そもそもいかにしてギャンブルが私たちの人生にどんな意味をもたらすかを明らかにしない限り、それらの非難や擁護の適切な理由づけを行うことは難しいからだ。

本研究では、ギャンブル実践のなかで、ギャンブルという現象が、個人に対してどのようにスタイルや価値観の探求を促すのか、そしてギャンブルの中で発見され獲得された価値観や経験がどのように個人の人生の指針となり得るのかを分析する。民俗学的な観点からは、麻雀というゲームにおける「オカルト」概念をめぐる論争を考察し、人類学からは、パチンコによる稼ぎで生計を立てるパチプロたちの多元的なギャンブルとの付き合い方を分類し、分析美学の視点からは、ギャンブル的主体における賭けの経験を退屈と崇高概念から分析することで、「生の実感」の美学的分析を試みる。これらの横断的な研究を通じて、ギャンブル的事象が私たちの生に意味をもたらす力学を明らかにし、ギャンブルに対する一面的な見方を超えた多面的な理解を目指す。

ヴァナキュラー文化としての麻雀オカルト戦術そのメカニズムと美的意識齊藤竹善

発表者は以前、「麻雀戦術の歴史人類学―「オカルト/デジタル」戦術のアクターネットワーク―」と銘打った論文を著した。前掲論文は、ブルーノ・ラトゥールらが提唱するアクターネットワークセオリーを用い、「オカルト」と見做された麻雀戦術と、「デジタル」とされる麻雀戦術とを相対性の原理の元に分析したものである。本発表では、特に「オカルト」という否定的な言明の下に扱われた戦術を唱えていた、阿佐田哲也(色川武大)、小島武夫、土田浩翔らの麻雀論を紹介し、その中で培われた独自の理論をヴァナキュラーな文化の中で培われた独自の風習として捉え、そのメカニズムと、そこに内在する美的感覚について検証する。麻雀において、「オカルト」と見做される人々は、「流れ」といった感覚的な概念を用い、それを選択の根拠としたり、「流れ」をうまく生み出すために、様々な独自の理論に基づく選択を行ったりする。この戦術は「デジタル」とされる派閥の人々によって否定されたが、現代においても、「オカルト」戦術を用いる人々は存在する。

本発表では、なぜ戦後知識人であり、「近代人」であるはずの彼らが「流れ」や「ツキ」といった非科学的とみなされる現象を用い、前近代的な説明を行うのか、麻雀というゲームの持つ性質を踏まえながら論じる。

ベイトソンによる人間関係の形式再考──パチプロ嫌いなパチプロの事例から/松崎かさね(福井県立大学)

パチプロとは一般的に、パチンコ・パチスロで得たお金で生計を立てている人のことを指す。しかし、一括りにパチプロといえども、これまでの発表者の調査経験によれば、彼らは大きく2つのタイプに分けることができるようである。そして、この2つのタイプはプロギャンブラーのスタンスに関して実に対照的な性質を持っているように思われる。本発表では、主にパチプロ嫌いなパチプロという特異な人物の事例を通して、この2つのタイプがどのようなものであるかを考察する。2つのタイプと言えば、アルコール依存症の治癒過程について論じたグレゴリー・ベイトソンの議論が思い出される。彼は、人間関係の形式として「対称型」と「相補型」の2つを挙げている。前者の「対称型」とは、相手がとった行動に、それと同様の行動をもって応じるパターンのことである。この場合、相手の行動を強く受ければ受けるほど、個人はそれと同じ型の行動へと駆り立てられるといい、スポーツ競技、隣人同士の見栄張りなどがその例に挙げられる。一方で「相補型」とは、同じように片方の行動が相手の行動を強めるものの、その両者の行動は対をなし、互いを支え合う形で結びつく関係にあるといい、このパターンの例としては支配ー服従、養育―依存、見るー見せる関係などが挙げられている。ベイトソンによれば、依存症者は徹底した「対称型」の関係を生きているがゆえ、飲酒を止めようとする妻や友人に反発し、自分の強さを証明しようとして酒に手を伸ばすのだという。したがって、そこに「相補型」を取り込むことが治療において目指されていると説明される。しかし本発表では、パチプロによる語りをもとに、この両者の位置関係を逆にして考えた方がより適切であることを示す。

ギャンブル的主体──退屈と不可知性の崇高の美学/難波優輝(立命館大学)

本発表では、ギャンブル的主体における賭けの経験を退屈と崇高概念から分析することで、「生の実感」の美学的分析を試み、新たなタイプの実存主義的美学を提示する。ギャンブル的主体である金融トレーダーといった人々は、賭けていない日常にしばしば「退屈」の気分を覚える。この気分は現在の主体が本来的な自己ではないことを予感させ、人々を賭けの機会へと誘う。なぜなら、ギャンブル的主体は賭けの中でこそ本来的な生き生きとした生を実感するからだ。ギャンブル的主体にとっての生の実感は「不可知性の崇高」である。ギャンブルの中で、マシンや対戦相手の傾向性を把握し、計算可能なエビデンスに基づき合理的判断を行う。しかし、ギャンブルの美的な快楽は、こうした可知性で塗りつぶした先に、究極的に偶然と運命に委ねざるを得ない不可知の領域がまざまざとクリアに認識されることから生じる。自らの認識能力を超えた偶然と遭遇することがギャンブル的崇高であり、このおののきの瞬間に身を投じる瞬間、ギャンブル的主体は生の実感を覚える。しかし、現状では、ギャンブル的主体にとっての生の実感を覚える場所は搾取的なカジノなどに限定されている。これは他の主体のあり方においては分配されているはずの生の実感が正当に分配されていない点で不正義であり、より多元的な場でギャンブル的経験を可能にすること、すなわち「ギャンブル正義」を実現する必要性を発表者は主張する。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年10月5日 発行