人新世と芸術
本書は主に十七世紀から二十世紀の西洋における芸術と人新世の関係を検討し、西洋美術の新たな見取り図の提案を試みる著作である。
本書の企図が最も明確なのが、ヨーロッパが一時的に寒冷であった十四世紀から十八世紀のアートを取り上げる第一章「かつて地球は寒かった」である。第一章は、一方で、ピート(泥炭)の運搬や捕鯨船についての風景画といった、近代化の発端とみなされるような現象を捉えたアートを紹介し、また植民地の人々の支配とプランテーション化のような自然の支配を同時に行ったとされる植民地主義をアートが描き、時に正当化してきたと述べる。他方でそこで著者は、オランダの海外進出と不可分な地図製作の発展が風景画に結びついていることや、アートを享受するための富が植民地支配から得られたものであったことなどを述べる。本書は基本的に、人新世を近代の展開とほぼ同一視した上で、近代がアートを作り、アートが近代を作ったという関係を提示する。
この図式のもと『人新世と芸術』で扱われるのは、小氷期、植民地主義、生態学、火山、氷河、産業革命、大気汚染など、人新世と結びつけられる多様な現象であり、それらがピーテル・ブリューゲル、フランス・ポスト、ジョセフ・ライト、牧野義雄、ウィリアム・ターナー、クロード・モネといった画家や、アレクサンダー・フォン・フンボルト、ウィルアム・ハミルトン、オラス=ベネディクト・ド・ソシュール、ジョン・ラスキン、夏目漱石、オスカー・ワイルドなど科学者や著述家によってどのように描かれてきたか論じられる。こうした西洋近代を代表する様々な人物や主題から人新世について扱ってみせたのが、本書の意義の一つと言える。人新世的な現象が誰の目にも明らかになり、その名称がよく聞かれるようになって以降に制作されたアートについて、人新世という観点で検討することはすでに珍しくないが(著者自身がそうした芸術について執筆したのが『アートの潜勢力』(共和国、2024年)である)、ブリューゲルやラスキンといった芸術や美学思想を人新世から解釈することは今のところそれほど一般的ではないだろう。
重要なのは、本書の解釈の方針が、本書で扱われなかった事物や場所に対しても有効となる点である。ここでは風景画が取り上げられることが多いにせよ、初期資本主義のオランダで裕福な市民の欲望を刺激したとされる「ヴァニタス」の寓意が込められた静物画や、ピートや鯨油を燃料としていたことに関係づけられる火災を描いた絵画から、人新世的な状況につながるオランダ社会を読み込むことができるならば、本書の視座から精査できる現象が無数にあることがわかる。また、人新世と植民地主義を結びつつも、香辛料や砂糖、象牙などが東インド会社によって調達されて日本にもたらされたことについて言及している点から、著者は西洋以外のアートについても人新世的に考える可能性を示唆しているようでもある。
『人新世と芸術』による展望のこのような提示は、第二章「エコロジーとエコノミー」の論点から引き出されている。地理学、気象学、植物学、動物学、火山学、地質学、物理学、天文学、民族学など多岐にわたる研究を行ったフンボルトは、自然を部分や要素に還元せず、自然環境のうちに多様な植生や地形が全体としてどのように相互作用しているか研究するような全体論に依拠しているとされる。同時に、フンボルトは後者の発想を風景画になぞらえながら、科学が芸術と相互に補い合う必要性を訴えている。そして著者によれば、フンボルトの科学と芸術の見方には、分類や分析を担う科学に対して、諸要素の統合を芸術とみなすゲーテの信念との対応があるとされる。それとともに、本書は至るところで地球を全体論的な仕方で捉えることを重要だと述べている。すなわち『人新世と芸術』は、芸術を全体論のイメージとして位置づけるとともに、人新世的な視座を全体論のイメージとして提起している。そうであるならば、どのような芸術からも人新世について考えられることになる。
これを踏まえると、第三章「火山の噴火」と第四章「アルプスの氷河」に対して一部の読者が抱く疑問が解消されるとともに、本書のもう一つの図式が理解できる。これらの章では、主に一八世紀から十九世紀において、それぞれ火山と氷河をめぐって芸術と科学がどのように関わってきたかが辿られるが、まず火山は、人新世的な変化と同様にこれまで気候に大きな変動をもたらしてきたにせよ、それ自体として人新世的な人間の活動によってあり方が変化した自然現象ではない。同じようにして氷山は、それが気候変動によって現在甚大な影響を受けているとしても、一八世紀から十九世紀にその影響がすでに現れていたとはやや考えにくい。すなわち、火山と、一八世紀から十九世紀の氷河は、直接的には人新世の現れでも、その原因でも結果でもない。だが著者はおそらく、科学が人新世に対して決定的な役割を持っていることと、科学にとっての芸術の重要性をもって、一八世紀から十九世紀にかけての火山や氷河についての芸術を描いた。げんに、「まえがき」や第二章をはじめ本書のいたるところで、芸術と人新世の関係についての言及は、芸術と科学の関係についての言及へと滑らかに置き換えられている。
むろん、人新世における科学の位置づけを考えればこのような置き換えは決して見当違いではないし、こうした等置により本書は多様な芸術から人新世を読み解くことに成功している。加えて、著者が植民地主義や資本主義を介して人新世と芸術の関係について検討したことも先に見た通りであり、ここで人新世が単純に科学に還元されているわけではない。とはいえ、以下では「人新世的なもの」と「科学的なもの」を置き換えることにともなって生じた『人新世と芸術』の全体論的な企図の綻びを以下では簡単に指摘したい。主に西洋美術史にかかわる本書の書評が人類学者である筆者に任されたならば、人新世について、そして全体論について論じてきた人類学的な知見から評が書かれるべきだろう。以下の評が美術史的に確固とした知見にもとづいた論述ではないことを先にお詫びしておく。
「人新世的なもの」と「科学的なもの」の同一視によると思われる短絡は、例えば、第七章「印象派と大気汚染」に現れている。これは、光が散乱してぼやけたような印象派の描き方が、工場の噴煙のような大気汚染に由来すると論じた研究に触発され、印象派に関わる画家や思想家にとっての産業化を論じた章である。評者の理解では、大気の色彩のような、旧来の科学に根ざした見方では「自然」だと想像されがちなものが、実のところ大気汚染などの人間による活動の結果だったと主張するのは、人新世的な説明によくある手つきである。
対して評者が困惑させられるのは、「客観的な光景を目の前に主観的にアプローチするビジョンを色彩にぶつけるのが印象派の理念であったとするなら、彼ら[印象派の画家]はあくまでも楽観的な見通しをもっていて、それを美的に昇華していったように思われる」(本文223頁)という一節である。その根拠は、「彼ら[印象派の画家]の作品において、工場は自然のなかに抵抗なく溶け込んでいるのであって、ぶつかり合っているわけではない」(本文223頁)ことに置かれる。また、「モネにとってロンドンの代名詞たる霧は、汚染された空気の結果というよりも、神秘のヴェールに包まれた壮麗にして壮大な美の権限なのである」とされる(本文221頁)。しかし、自然と人工が溶け合っていることや、そのような風景に美を見出すことが、なぜ産業化による自然への影響の矮小化になるのだろう。
同様の疑問は、第五章の「産業革命の表象」と第六章「霧のロンドン」に対しても投げかけることができる。本書によれば、印象派の「雲と煙の合体、自然と産業の一体化の光景は[中略]ターナーが先鞭をつけた」(本文223頁)とされ、ターナーは産業革命によってもたらされた工場や蒸気機関車と自然と溶け合うような絵画をいくつも描いたという。加えて著者は、テムズ川に開通したばかりの鉄道橋を描くターナーの《雨、蒸気、スピード グレート・ウェスタン鉄道》について、その新しい橋の構造から人々は「安定性を危ぶんでいたが、そんな心配などご無用、まるでターナーはそういいたげである。まさに新しいテクノロジーの勝利である」(本文157頁)と記す。その絵において「自然の霧と雲はいつのまにか人工の蒸気や煙とひとつになって、もはや見分けがつかなくなっている。あたかも自然と人工(文化)が何の衝突もなく調和して溶け合うかのように」(本文157-8頁)。だが、自然と人工の混交をその調和や人間の勝利であるとターナーが捉えているかどうか、本文を読んだ限り評者にはわからない。
言い換えれば本書は、ターナーや印象派が自然と人工の混淆を、「科学的な世界観」のように、人工による自然の支配の称揚として捉えていると十分に論じられていないのではないか。著者は、科学的なものと人新世的なものを置き換えることによって西洋美術史の再記述を無数に生み出したが、その方便としての置き換えによって、ターナーや印象派の「人新世的な」可能性を見過ごしてしまったのではないか。
この疑問は、まさに『人新世と芸術』の読解からもたらされた。上記のターナーへの言及の直前に置かれた節は「崇高なる工場」と題されており、産業革命期に牧歌的な自然の風景の中に建てられた巨大な工場が数多く描かれたと述べる。そうした絵画で「サブライムの対象はいまや、自然の景観や現象ばかりではなくて、人工物あるいは科学技術の成果に広がっていく」(本文152頁)。このような見方は、第三章で言及された、火山を崇高として描く感性につながっているとされる。第四章もまた、氷河が崇高とピクチャレスクの美学のもとに想像されたと書いている。この論述を辿るならば、本書の主張に反して、ターナーや印象派は自然と人工が渾然一体となったような風景を、自然と人工の区別によらず、崇高という観点から、天変地異のような巨大さや危険さ、異様さ、不気味さ(第三章)として描いたのではないか、とも考えたくなる。
こうした読みは、植民地の開拓に際して描かれた地図などについて、幾何学によって象徴される文明と、現地の混沌とした自然や人々の暮らしが対比されると論じた第一章にも誘われている。田園風景の中の工場が幾何学による秩序の実現であるとするならば、むしろ工場や霧が曖昧に一体化したような風景のほうが混沌としての世界を提示するようである。第二章でも、フンボルトのスケッチやフンボルトに影響された画家による風景画は、ピクチャレスクな美学に沿って、無数の事物が絡み合い、人間を超えた壮大な自然を描いていた。
同時にこの議論は、人新世についての人類学的研究に由来している。そうした研究は、旧来の自然科学的な見方やそれを共有していた人類学が、自然と、文化や社会を区別する科学的な二分法を普遍的に適用することによって、さまざまな現象を誤解してきたと述べる。人新世的な人類学は主に、近代西洋でないとされる人々や事物に自然と文化の二分法を押し付けることを批判してきたが、近代西洋のすべてを従来の科学に根ざした二分法で考える必要もない。フンボルトの感性に多様な要素の相互作用への志向を見出すのをはじめ、本書は近代の芸術や科学、思想の至るところに要素還元的ではなく全体論的な世界観があったことを示しているが、そのような感性を印象派に見出すこともできるだろう。
『人新世と芸術』は、科学や政治、芸術をはじめとする多様な事象が野放図的な仕方で結ばれるような、人新世という全体論のイメージと、芸術が描くような全体論のイメージを重ねることによる美術史の可能性を明示した。本書評の後半で検討したようにそれらがいまだ同一でないからこそ、あるいは原理的にそれらが同一にならないからこそ、人新世は芸術にとって意義のある視座となる。
(藤田周)