萩原朔太郎と詩的言語の近代 江戸川乱歩、丸山薫、中原中也、四季派、民衆詩派など
本書は朔太郎を起点にしながら、そこから導き出した身体表象や暴力、電気=光や抒情と物象といった問題から同時代の文学者・詩人との関係を探り、最後にまたソングという観点から『純情小曲集』の朔太郎へと回帰するという円環構造をとった、全18章に資料翻刻も加えた大作である。第2章「萩原朔太郎・メディアとしての身体」で、前著『萩原朔太郎というメディア』がとらえ返されつつ、本書内の論にも別の章として補論を加えていくことで、有機的な構成と重層的な視点が提供されており、粘り強く対象に迫っていく著者の真摯な姿勢に感嘆を禁じえない。
日本近代最大の詩人・朔太郎について、著者が注目するのはまずは日本語に対するアンビバレンツな態度であり(「今の日本語は限りなく醜い。けれども私は限りなく日本語を愛する。醜ければ醜いほど愛する。」(436))、むしろこれを逆用することで『青猫』の柔軟な詩語による倦怠感や、『氷島』の擬似漢文調による苛烈な現実世界の表出が可能となったとする。そこで典拠とされるマラルメ『詩の危機』など、朔太郎は近代欧米の詩想を転用して日本詩の世界を拡張することを目指している。ボードレールのフラヌールは「遊歩者」というよりも「漂泊者」(52(以下数字は頁数))さらには「乱歩者」として『猫町』をさまよい、第一次世界大戦や死刑における暴力の発露は、雷光にも似た電流という崇高な力の権限として、あこがれと恐怖の対象となる(106)。毀損する身体のオプセッションは、朔太郎においては自己処罰というマゾヒズム的表象として現れ出ることが特徴といえるだろうか。人工生命体の夢想など、ポストヒューマン的な情景も遠望しながら、20世紀前半の豊饒かつ屈折した詩的世界が読者の目の前に展開されるのである。
また朔太郎が深い関係をもった四季派や日本浪漫派、それに対する『詩と詩論』という詩壇上の対立を、抒情/モダニズムの対立としてとらえるありかたに再考を加えている点も重要であろう。日本詩史に十分に慣れ親しんでいない書評者にとっては、とりわけ丸山薫の詩作に感銘を受けた。「私」の抒情を超えた、「〈無機体〉=物象たちと、主体とのあいだの運動によってもたらされる抒情」(266)、「物象そのものに、一人称を仮託する」(316)という観点が示され、それをシュルレアリスムにおける「オブジェ」と解釈してよいかはさらに掘り下げる必要を感じるものの、詩と散文というジャンルやイデアリズム/リアリズムという文芸思潮の区別を超えて「抒情」を考えるという重要な視点がもたらされている。最終章で参照されている「こころをばなににたとへん」という朔太郎の詩句は、スタンダード・ナンバーにも聞こえる「抒情」に対して、戦後、「匂ひのない路上の無限」を歩もうとした吉本隆明が言うようには容易には決別できないこと、むしろ新たな「抒情」を言葉によって探ることを喚起し続けているのではないか。
ここに列挙した問題だけでは到底、本書の意義を示すことはできない。実際の詩句の分析等も含めて、ぜひ実際に本著に当たられてみてほしい。
(熊谷謙介)