非美学 ジル・ドゥルーズの言葉と物
〈非-[in-]〉や〈反-[anti-]〉など、本書のタイトルにもついている否定の接頭辞は芸術や美学、哲学の領野では繰り返し使用されてきた。美術展では「アンチ・イリュージョン[anti-illusion]」展(1969年)、「非物質的なものたち[Les immatériaux]」展(1985年)など、そして美学ではハル・フォスター『反美学[The anti-aesthetic]』(1983年)、アラン・バディウ『非美学への手引き[Petit manuel d'inesthétique]』(1998年)あたりが有名だろうか。以上のような試みは、既存の体制や概念を強く意識しつつも、それを乗り越え、創造性をもって新たにみずからを位置づけ直す、ある種の〈前衛〉的仕草のために否定の接頭辞を使ってきた。その点では本書も似た試みであり、芸術に触発される哲学の創造性を再考するものである。
しかし本書ではそれ以上に、日本の現代批評固有の問題圏である「否定神学批判」が意識される。否定神学とは世界認識のために必要とされる絶対的なもの、思考不可能なものを措定し、それを否定的に思考しようとしてしまう傾向である。それについて本書は特に東浩紀、千葉雅也、平倉圭らによる「誤配」「失認的非理論」「非意味的切断」といった諸概念に対する批判的試みとしてみずからの「非美学」を位置づけている。東をはじめとするデリダ的な否定神学批判が言語の物質的有限性という点から出発しているとすれば、「非美学」の試みはフーコー-ドゥルーズ的な言葉と物の分離という批判的方法をそこに合流させることである。
その戦略はドゥルーズの初期の能力論を基軸に、晩年の『哲学とはなにか』までを読み直すことに存する。福尾は初期ドゥルーズの『カントと批判哲学』と『差異と反復』にある挫折を読み取る。それはカントの能力論で打ち立てられた悟性と感性の調和───この諸能力の協働それ自体をドゥルーズは「共通感覚」と呼ぶ───という「図式論的」な構図を、さらに言えばそこに与する構想力の媒介作用を乗り越えられないという問題である。多様における一致という「予定調和」を避け、構想力の媒介なしで、感性的なものと概念的なものを直接的に、かつ悟性にとって内在的に出会わせること。それに対してドゥルーズが全生涯を通していかなるアプローチを試みたか。これが本書を貫く課題である。これによって哲学は芸術という他者から触発され、かつ超越なしで自律的に思考することが可能になる。この課題が「悟性-言葉」と「感性-物」という基本的な構図のもとで───それがたびたび自と他の区分にスイッチされながら───展開される。特にこれは『シネマ』映画論における(構想力(イマジネーション)ではなく)イメージ論で、そして『千のプラトー』におけるシステム論および言語論で、そして『哲学とはなにか』における人称論で変様を見せていく。この仔細は本書を開き、実際に読んで確かめてもらいたい。これらの実践は、非美学の〈非〉のポジティビティを評価することに結実され、〈非〉が〈触発の自由〉と〈仕事の自律性〉とを両立させる関係を示す───哲学が芸術という他者に対して、自身の領分をわきまえつつ、それによって芸術から受けた触発に報いる関係を示す───ことが論じられることになる。
以上のように要約したものの、本書には汲み尽くしがたい多くの論点が配置されている。本書は普通の学術書とは全く異質な読み味であり、しっかり読もうとすれば多大な労力を必要とする本であることは間違いない。急に議論の位相が変わったかと思えば、先の見えない綿密で詳細な分析がなされる。個々の分析それ自体を、半ば全体の構図の忘却のもとで読み進めていくと、当の考察がたびたびその前までで行われてきた議論と「類比」によって結び付けられる。こうしてあたかも下図を透かしながら上から連続性の見えにくい何枚ものスケッチを重ねてゆくかのように進んでいく。こうした魔術的な思考の積み重ねが束となったのが本書であり、例えば「非美学」という主題を一貫的に認めるだけでも一筋縄ではいかない。
本書から広がりうる論点を一点だけ提起しておく。以上で述べた通り、福尾は初期ドゥルーズのカント論にある挫折を読み取っており、そこでの問題のひとつとして構想力の媒介作用を置いている。しかしこの点に美学という哲学的実践の美点があったのではないだろうか。福尾を通したドゥルーズはあたかも図式性という悪の根源が構想力であるかのように捉えている。カントは『判断力批判』において図式性に留まらない構想力のはたらきを考えていたし、同時代のフランスの思想家───特にハイデガーを引き継いだ現象学者たち───の中にはそうした構想力の探求を行っていた者もいた。この点に関して、福尾が本書で現象学を限られた側面でしか扱っていないところに構想力論のまた別の圏域を見出しうる契機があるのではないだろうか。
(浅野雄大)