読むことのエチカ ジャック・デリダとポール・ド・マン
哲学者ジャック・デリダその人と「アメリカにおける脱構築(ディコンストラクション)」を分けることがある。フランスで現象学研究からキャリアを開始したデリダは北米の文学研究のなかで受容され、脱構築はイェール学派の筆頭であるベルギー出身の文芸批評家ポール・ド・マンらによって方法論的に形式化されていくというのだ。この場合、ド・マンの名は悪名高きアメリカ的歪曲の一端を担う人物として矮小化されることにもなるだろう。しかし、デリダはおそらく生涯を通じてド・マンという人物に向き合い続けていたし、ド・マンのデフォルメは「脱構築」を見極める強い視差をなしたはずである。
本書があつかうのは「読むことの不可能性」をめぐって並走するデリダ/ド・マンらの「脱構築」である。デリダの言語論(第一部)、ド・マンの修辞学(第二部)が提示されたのち、両者の「脱構築」が切り結ぶ場面が順次展開されていく(第三部)。改めて言うまでもなく今日「フランス現代思想」はまったくフランスに閉じられていない。九〇年代から今日に至る著者の企図は英米独仏を横断する思考に関心を向けるものであり、読者は本書を通じてデリダ/ド・マンに伴走しつつ、国境に閉じ込められることのない「脱構築」の姿を読み取ることができるだろう。かつてバーバラ・ジョンソンはデリダ/ド・マンから知的な驚き=不意打ちを体験した読者がいかにしてその知的興奮を保ち続けられるのだろうかと書きつけていた。本書の起源は著者の1998年の修士論文に遡る。知的衝撃への四半世紀にわたる著者の絶えまない応答は『判断と崇高──カント美学のポリティクス』(2009年、知泉書館)、『ジャック・デリダ──死後の生を与える』(2020年、法政大学出版局)といった氏の他の著作にも広がるものであり、併せて味読に値するだろう。
またデリダ/ド・マンを並置する企図は『批評空間』を筆頭とした九〇年代の日本的文脈を受け継ぐものでもある。『存在論的、郵便的』において東浩紀はコミュニケーションの(不)可能性という問題から「何故デリダは奇妙なテクストを書いたのか」という「書くこと」の問いを提起し、「形式的脱構築」(ド・マン)/「郵便的脱構築」(デリダ)という複数のスタイル=文体を析出させたのだった。本書も理想化されたコミュニケーション、「コンセンサスの形而上学」に対する批判から出発しつつ、「読むこと」の不可能性をめぐって組織されている。では、この不可能性に直面した読むことの複数性はいかにして語られる/書かれるのか。「超越論的失読症」(三一頁)から読むことの新たな倫理を発明するとはいかなることなのか。「脱構築」と「批評」が声と文字、すなわち読み、書き、聞き、話すことをめぐるポリティクスであるとすれば、本書はその理論的実践を問う好機である。
(小川歩人)