写真文学論 見えるものと見えないもの
三歳からの記憶はすべてあると豪語する七十代半ばの叔父は、早くに両親を亡くしていて、とくに彼が三歳になるかならないかで亡くなった父親については、髪を洗ってもらったという記憶以外には何も残っていないらしい。反対に、十代半ばで失った母親については、瑣末な日常の記憶についてとても詳細に話してくれることがある。訳あって、叔父の手元には幼少期はおろか、これまでの家族写真が一枚も残っていない。あるとき、すべての写真を不幸な事故で失ってしまったのだ。それでも、自分の記憶力は月並みなものではなく、物心がついた三歳くらいからの人生についてはすべて明晰に覚えているという。そんなことは到底信じられる話ではなかった。しかし、もしかしたら、写真がないということが、叔父が言う並外れた記憶力と関係しているのではないか。写真の不在が、ほとんど幻想とも呼べるような詳細で明晰な記憶を「作り上げた」のではないのだろうか。「一人の人間の核心にあるものは、ひとつの幻想(詩)として、後から構築される。幻想だからといって、現実と対応していないということではない。事後的に再構成されるとき、自分の姿が織りこまれ、一度もなかった情景として結晶化するのだ」(240頁)。この美しいパッセージを読みながら、そう思うようになった。
塚本昌則『写真文学論』によれば、フランスを中心に最近よく使われるようになった「写真文学(photolittérature)」という言葉は、いまだその定義に揺れがあるものの、大きく言えば「小説の危機」が叫ばれるようになった1890年代から1920年代に誕生したという。小説が読者に驚異を感じさせる力を失い、退屈な現実の報告にすぎなくなったという批判に対して、新興メディアである写真映像をテクスト内に挿入することで、文学言語と映像言語が交差する領域が創出された。写真が物語の説明となるような挿絵の役割を果たすのではなく、あくまで写真と物語という二つの異なるメディアが交差し、作用しあうことで生み出される、目に見えない領域の豊かさに着目することが『写真文学論』の狙いである。
ローデンバック『死の都ブリュージュ』、ブルトン『ナジャ』、谷崎潤一郎『吉野葛』を分析した第一部では、作品内に挿入された写真が、読者の想像力をいかに広げていったのかが論じられる。写真がかつてあったものに対するメランコリーの道を開くというだけでなく、物語の核心に関わる対象そのものを見せないことによって、あるいは、写真そのものが虚構であることを示すことによって、反対に、読者の想像力を歴史の真実へと強力に誘う。もちろんそのような真実へ到達することは決してないが、文字テクストの物語だけでは到底開かれなかったであろう想像世界への扉が、決して芸術性の高いわけではないヴァナキュラーな写真によって開かれる。第二部では、写真そのものは挿入されていないが、写真の存在によってしか存在しえない文学作品が扱われる。ペレック、モディアノ、デュラス、エルノーらの作品(エルノーの『写真の使用法』は別の視点から分析されている)が示しているのは、写真がないという事実によってたちあらわれる空白のスクリーンが、失われた過去への接近を可能にしてくれるという逆説的な事態だ。写真は対象に対するいかなる思い出も甦らせてはくれないが、そのことはただちに忘却を意味しない。空白のスクリーンは、わずかな現実の痕跡から過去についての幻想を作り出す。その幻想はたとえ現実ではないとしても、真実でないとも言いきれない。決定的に失われた過去へは幻想を通してしか接近できず、そのための装置として不在の写真は利用されるのだ。もっとも紙幅が割かれたゼーバルト論では、それまでの分析によってえられた知見が総動員されるかたちで、作品内に挿入された写真、挿入されなかった不在の写真、物語世界の三者が複雑におりなす作品世界の全貌が明らかにされていく。この論で重要なのは「外的焦点化」と呼ばれる写真の能力だ。写真はひたすらに見ることを求めてくるが、そのイメージの完璧さによって、本来あったはずの過去の思い出が消去され、記憶が再編成されることがある。この「外的焦点化」が『アウステルリッツ』においていかに有効に用いられているのかが明らかにされる。最終章のバルト論では、いわば魂のコミュニケーションの道具としての写真が扱われる。個人的な日常を映した芸術的価値をもたない写真が、自らの身体の一部としていかに他者の身体に伝達されるのか。いかにして写真は身体間の共振を引き起こすのか。この問いは、個別的なものについての記述がいかに普遍的な価値をもちうるか、というバルトの小説論にも通じているだろう。
いずれの章も新しい発見があり、写真研究、文学研究に携わるすべての人に読んでもらいたい。「写真文学」のリストは今後も増えていくだろう。同書では扱われなかった古典的な作品もある。写真文学論は端緒についたばかりだ。
(桑田光平)