翻訳とパラテクスト ユングマン、アイスネル、クンデラ
本書は、1967年の第4回チェコスロヴァキア作家大会でのミラン・クンデラの問いかけ「民族の存在にはいったい価値があるのか? 民族の言語は存在する価値があるのか」への言及から始まる。クンデラは、「いついかなる時にもその存在が脅かされ、消失すらしてしまいかねない民族であり、そのことを自覚している民族」である「小民族」の運命への危機感を募らせたが、本書が着目するのは、「小民族」という意識を抱いていた人物たちの他の言語文化との対峙の方法、そして、辞書、書籍、言語の運用能力などの文化資本の蓄積が異なる言語間における翻訳の問題である。
本書は三部構成であり、第一部では、19世紀初頭、民族再生運動期の言語学者で、『チェコ語=ドイツ語辞典』の編者として近代チェコ語の基礎を築いたヨゼフ・ユングマンに焦点を当て、ハプスブルク帝国の主たる言語であったドイツ語が優勢だった状況において、いかに辞典編纂や翻訳によってチェコ語の可能性を高めたかをつぶさに描き出す。ユングマンによるシャトーブリアンの『アタラ、あるいは砂漠での二人の野蛮人の愛』の翻訳において、訳注というパラテクストが、文化的含意の補足ではなく、新語や造語などの独自の表現に対する注釈という側面が強いことを指摘し、この翻訳はチェコ語の語彙の多様化を意図したものであったことを分析した箇所も、ユングマンの活動に新たな光を当てたものである。
第二部では、20世紀初頭の翻訳家パヴェル・アイスネルの活動が、ドイツ語話者、チェコ語話者の共生を推し進めるものであったことを読み解いていく。アイスネルはアンソロジーの編纂や翻訳を通じ、「何語を用いて、誰に対して、何を翻訳すべきか」、そしてその翻訳がどのように相互理解を深めるのかという問題に真摯に向き合い続けた。自分自身もユダヤ系の出自だったアイスネルの、チェコ系ユダヤ人の同化をめぐる思索に迫る論考も興味深い。
第三部では、20世紀後半の冷戦下におけるミラン・クンデラの創作と翻訳に注目し、翻訳者としての時代、チェコ語で執筆した自作の外国語への翻訳を注視する時代、フランス語で執筆した自作のチェコ語への翻訳を促す時代といった変遷を追いつつ、それらの各段階において、クンデラの翻訳とパラテクストにいかに作家の文学論・言語観が現れているかを鮮やかに論じている。
本書が対象とするのはボヘミアの文学だが、文化資本の蓄積が少ないあらゆる言語について考えるための重要な視座となっている。また、翻訳者がどのような機能を翻訳とパラテクストに託そうとしたかについて、社会的・文化的環境を視野に入れて多面的に考察した本書は、自身も数々の名訳を手掛けてきた著者による優れた翻訳論、文化接触論であり、翻訳の持つ創造性と可能性を指し示し、困難な道程を経て為される言語と文化の交歓についてこの混迷の時代にも希望を抱かせる。
(鴻野わか菜)