The Routledge Companion to Performance-Related Concepts in Non-European Languages
ドイツの演劇学者エリカ・フィッシャー=リヒテと舞踊学者ガブリエレ・ブラントシュテッターが2008年に開設したベルリン自由大学国際研究センター»Interweaving Performance Cultures/Verflechtungen von Theaterkulturen «から、『非ヨーロッパ言語におけるパフォーマンス関連概念ハンドブック』が刊行された。600ページを超えるこのハンドブックは、同センターで足掛け10年にわたって遂行された出版プロジェクトの一つである。舞台の時空間や人間の身体に依拠するパフォーマンスの分野では、それぞれの言語や文化の中で築かれた美学的な重要概念が数多く見られ、非欧米圏のパフォーマンスを語る際の言語には困難がつきまとう。この本ではパフォーマンスの分野において、アラビア語、中国語、日本語、韓国語、ヨルバ語、先住民英語、そして3つのインド言語(サンスクリット語、ヒンディー語、タミール語)という非ヨーロッパ言語で使用される70の関連概念を 65人の第一線の研究者が解説する。言語と概念の選択は、国際研究センターで働いた私たちフェローと、このプロジェクトで協働した専門家が共同で行っている。
私は日本の舞台芸術部門の「概説」(スタンカ・ショルツ=チョンカとの共著)と、「藝」の概念の項目執筆を担当しており、日本の舞台芸術セクションに携わった経験からこのハンドブックを紹介する。このセクションでは他に、「花/華」「序破急」「型」「間」「見立」「物真似とリアル」「夢幻」「身体/神体」「幽玄」といった概念を取り上げ、アンドレアス・レーゲルスベルガー、山下純照、ピーター・エッカサルらが掘り下げている。
これらの美学的な概念は、各言語文化圏に深く根差した独特の思考や批評実践を背景にしており、翻訳が非常に困難なものである。編者の一人であるトーステン・ジョストは、このハンドブックの重要な目的のひとつは、今日、多様性を謳う世界の舞台芸術の分野において、非欧米圏のアーティストや研究者が使用している認識論的ツールを、欧米人がほぼ何も知らないことを認知させることだという。もう一つの目的は、そうであっても知の体系(エピステーメー)の翻訳は可能であり、その意義を実証することである。つまり、この試みは多様な認識論的規則、ツール、実践の狭間にある新たな知識を生み出すのだという。そういった試みが、フィッシャー=リヒテが提唱した»Interweaving Performance Cultures«のモデル、つまりお互いの価値観を押し付けずに、その受容モデルとともに多様なパフォーマンス文化を、一つの布地へと織り込む試みともいえよう。実際このハンドブックにおいても、私たち執筆者は、ネイティブ・インフォーマントとローカル・エクスパートの狭間を揺れ動きながら、対極にある価値観の間で、ある着地点を見出したにすぎない。
このハンドブックでどの概念を取り上げるかは、当該言語を話す執筆者全員で討議を行なった。しかし、日本の舞台芸術を内から見る視点と外から見る視点との対立で、意見が大きく相違し、その選定は困難を極めた。また選択した概念が、執筆者の専門分野の概念に偏ったことも否めない。またアジア拠点の日本研究者が執筆に加われなかったことも残念であった。原稿執筆の段階に至っても、日本の研究者は詳細にわたって文化的概念の歴史的進化を説明する(文化の歴史化)のに対して、欧米の研究者は欧米文化との比較で日本のパフォーマンスの現代的用法を説く傾向(歴史の文化化)が強かった。
このハンドブックは、ウォルター・ミニョロの指摘した六つの植民地言語(イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、英語、フランス語、ドイツ語)が支配する、ヨーロッパ中心主義的パラダイムを乗り越えようとする試みではある。しかし、ルストム・バルーチャが警告するように、これらの概念が主要な言説で汎用されないなら、脱植民地化どころかドイツ主導の百科事典的な実践に陥るだろう*1。私自身も欧米の日本研究者との壮絶なディベートを経験しており、ディペシュ・チャクラバルティに倣ってドイツ演劇学を辺境化(provincialize)したフィッシャー=リヒテの編集方針が公に示されるまで、この執筆を引き受ける気になれなかった。ドイツ演劇学ベルリン学派を背負った彼女の威光を背景に、膨大な資本と時間、労力を費やした舞台芸術研究史上初めての試みである。このような壮大な研究プロジェクトの実現は、日本はおろか、グローバルサウスの地域では今も実現できないことに配慮しながら、このプロジェクトの評価は、今後このハンドブックを活用した新たなエピステモロジーが生まれるかどうかに託されている。
選定された10の美学的概念を理解したところで、日本の舞台芸術への理解には程遠いように、このハンドブックは手引書にすぎない。ただそれは、ドイツの研究者に限った問題ではなく、自国と異なるパフォーマンス文化について、日本の舞台芸術に携わる私たちも、ほぼ何も知らないことを、反省を込めて付け加えたい。
付記)この本とほぼ同時にパフォーマンス文化における認識論を脱植民地化の視点でまとめたPerformance Cultures as Epistemic Cultures, Volume I & IIも刊行された。
*1 Rustom Bharucha, Walter Mignolo, Torsten Jost and Christel Weiler, “Epilogue: Decolonial Aesthetics in Theater and Performance — Theatrical Strategies of Delinking,” Performance Cultures as Epistemic Cultures, Volume II: Interweaving Epistemologies, edited by Torsten Jost, Erika Fischer-Lichte, Milos Kosic, Astrid Schenka, Routledge, 2023, p. 236.
(中島那奈子)