小特集:動物というトポス

寄稿2 いかに動物は語られるか 「マルチスピーシーズ民族誌」及びそれに対する批判から考える

塚本隆大(東京大学)

気候変動に対する危機意識の高まりや人新世の思想の浸透を背景に、近年、人文学において、非人間的存在──動物、植物、微生物など──への注目が集まっている。

筆者の専攻する文化人類学においても、こうした状況から多くの学問的潮流が生まれてきた。その代表例の一つに「マルチスピーシーズ民族誌」と呼ばれるものがあり、芸術分野なども巻き込みながら、世界中で影響力を発揮している。本邦でも、奥野克己や近藤祉秋らを中心に数多くの著書や論文が出版され、様々な議論を喚起している。

今回の論考では、マルチスピーシーズ民族誌及びこれに対する批判を通して、その中における“動物”の扱われ方の違いに注目していく。この過程において、それぞれの思想と関係の深い芸術作品も併せて見ていく。これらの作業を通して、論文や芸術作品という広い意味でのメディアにおいて、どのように動物という存在が落とし込まれてきたのかを見ていくこととなる。

構成は以下のようになる。まず、第一に「マルチスピーシーズ民族誌」の指針となる論文として「複数種の民族誌の創発」及び、“Multispecies Studies: Cultivating Arts of Attentiveness”を中心に取り上げる1。前者はマルチスピーシーズ民族誌のマニフェスト論文といえるもので、後者は国際的な環境系ジャーナル誌 Environmental HumanitiesのMultispecies Studies特集号の巻頭を飾っている。両論文とも、マルチスピーシーズ民族誌の立ち上げ人の一人といえる人類学者エベン・カークセイが執筆に関わっている。これらの論文の要旨を追いながら、マルチスピーシーズ民族誌における動物観を考える。続いてマルチスピーシーズ民族誌への批判を人類学や動物倫理学の視点から検証した議論を概観しながら、関連する芸術実践について見ていく。この作業を通して、動物の語られ方への考察を行う。

1 E. カークセイ & S. ヘルムライヒ 2017「複数種の民族誌の創発」近藤祉秋訳『現代思想』45(4): 96-127 (Kirksey, S. E. & Helmreich, S. 2010 “The Emergence of Multispecies Ethnography," Cultural Anthropology 25(4):545-576); Kirksey, S. E. & T. v. Dooren, 2016 “Multispecies Studies: Cultivating Arts of Attentiveness,” Environmental Humanities 8(1): 1–23.

マルチスピーシーズ民族誌における「種」と「動物」

マルチスピーシーズ民族誌における動物の語られ方を理解するために、まず、同動向の前提となる考え方を見ていく。その第一の目的は、非人間的存在への注目とそうした存在と人間の関係性の見直しを行うことにある。

この作業の起点となるのが、「種」の定義の刷新である。カークセイらは近年の生物学的発見に根拠を置く。例えば、人間という「種」もそれ単体で完結し、独立しているわけではない。各器官を詳しく見れば、人間という存在は、それらの部位で活動している微生物同士の生成活動によって構築されている。また、この人間存在の一部分である微生物たちは「種」という境界のみならず、科や門といったより高位の分類学的な枠組みを超えて遺伝子を交換していたことが明らかになったという。

つまり、ある「種」単体の身体を見ても、それは他「種」の生命活動の連なりによって構築されているし、遺伝子レベルで考えてみても、他種から運ばれてきた遺伝物質を持っている可能性がある。このように考えれば、従来の考え方と異なり、「種」という概念が開放的かつ流動的な概念であることが分かる。マルチスピーシーズ民族誌では、こうした考えをダナ・ハラウェイの「伴侶種」の思想などもテコにしながら、微生物やウィルスといったレベルから、人間、動物、植物、その他の様々な生き物までの範囲までに広げていく。

ここでのポイントは、箭内匡が指摘するように「生命を持つ存在の、様々なレベルでの横断的な結び合い」である2。ある「種」の生き物は、その他の「種」と接触する「コンタクト・ゾーン」において、相互に影響し合う。それは、人間の皮膚の上で、ある微生物同士が影響し合う、あるいは、そうした微生物群と人間が影響し合うといったレベルから、同じ生息域に存在する人と動物とが互いの行動に影響を与えるようなレベル、あるいはそれ以上まで多様なレベルで起こるものだ。この相互変容の中で「種」は、ある特定の「種」になる(becoming)だけの存在ではなく、共になる(becoming with)ような存在であるのだ。

2 箭内匡 2022 「多種(マルチスピーシーズ)民族誌から地球の論理へ」『思想』1182: 87

マルチスピーシーズ民族誌及びそれに類する実践群では、こうした視点のもとに研究を行い、我々と他種の関係性を捉え直さなければならないという問題意識が共有されている。なぜなら、現在の人新世の世界において、人間は気候変動、大量絶滅といった惑星全体に影響を与えるような出来事を引き起こすほどの存在となっているからだ。こうした状況において、私たち人間は、前述のような新しい「種」の概念のもと、動物、植物、その他生物と「ともに生きる方法」を学ぶ必要があるという3

こうした学びを得る方法として、カークセイらによるもうひとつの論考“Multispecies Studies: Cultivating Arts of Attentiveness”では「情熱的な没入」という概念が紹介される。これは、積極的な交わり合いの中で、通常の科学的観察で得られる類の「種」の典型的行動からは離れた、他種の能力や創造性を認識しようとする試みである。例えば、マンハッタンの猫研究センターでは、研究者と猫たちとが共同生活を送っている。ここでは、研究者の側が問題設定を行い、研究対象をその視点から見るのではなく、日常生活における相互のやり取りから生じる猫たちの創意工夫や能力を見ることが目的となっており、より丁寧な関係が築かれているとされる。そして、カークセイらは、この「没入」を通して、他種へのより良い応答の仕方や相互に栄えていけるような方法を発見できるとする4

3 カークセイ & ヘルムライヒ 2017: 103
4 Kirksey & Dooren, “Multispecies Studies: Cultivating Arts of Attentiveness” 参照

これまでとは異なる観点からになるが、ヴァンシアンヌ・デプレとミシェル・ムーレの二人による研究も、これまでに見てきたマルチスピーシーズ民族誌の世界観をよく表している。彼らは南フランスの牧羊を題材に、人間と羊とが、新たな関係を結び合いながら、互いに変容し、そのことによって、ある種の絶滅から免れていく姿を描いている5

近年、フランスでは、かつて行われていたように、自然の牧草地や放牧地を用いて動物たちにより自由だと考えられる牧畜の形態を取り戻そうとする動きが存在している。これは、それまで主流となっていた、厩舎や小さな柵付きの土地で動物を管理するスタイルが、コストの面で限界を迎えたことによる。ブリーダーたちは、安価で自由な以前の伝統への回帰によって、問題を解決しようと試みたのだ。問題は、それを可能とする古い知識や技術が既に失われていたことだとデプレらは指摘する。

そのため、都市部からやってきた、新しい世代の羊飼いたちは、より自由な放牧環境下での、羊の導き方や教育方法を一から学ぶ必要があった。同時に、羊の側も人間との新たな共存方法や、より自由になった世界での生き方を学ばなければならなかった。羊飼いによれば、羊たちは新鮮な草原の上を歩いたりすることや、風が木々を揺らすような音にさえ怯えていたという。デプレらは、こうした相互の関わり合いを通して、羊飼いと羊たちとが「群れ」として存在しはじめたことを指摘する。羊飼いたちは羊たちの存在によって「羊飼い」になったのであり、同時に、羊たちも羊飼いたちとの関わり合いを通して、新たな個性を獲得しているからだ。さらにデプレらは、長距離の放牧は、伝統の途絶と共に失われていた土地と羊の関係性をも回復させているとする。羊飼いと羊は歩くことで、土地の中に「寝る場所、食べる場所、飲む場所、北風や南風からの避難所」を発見していく。羊飼いと羊は、土地を知ることで、自らの行動を変容させ、その結果として、土地たちも新たな意味性を獲得する。この点において、土地の茂みや泉、岩は羊飼いと羊たちの「群れ」の一員なのだ6

5 Despret, V. & Meuret, M. 2016 “Cosmoecological Sheep and the Arts of Living on a Damaged Planet,” Environmental Humanities 8(1): 24–36.
6 Despret & Meuret 2016: 33

デプレらの論文における羊は、今までにない自由に怯えつつも、徐々に他種との共存の方法を学び、新たな環境にも適応していくような、確かな感情と能力を持った存在として描かれている。羊は、人間に対して受け身な存在ではないし、むしろ、互いに影響を与え合いながら、共に新たな群れという「種」を作る、becoming withな関係性で結ばれている。ここにおいて、羊と人間とは、失われたかつての放牧の技術と土地との関係性を回復させていく対等なパートナーのようにさえ見える。

マルチスピーシーズ民族誌批判における「種」と「動物」

以上のようなマルチスピーシーズ民族誌やそれに類する思想は、現在に至るまでも多数の研究や論文、実践を生み続けている。一方で、それらに対する批判も様々な形でなされてきた。こうした批判の内では、マルチスピーシーズ民族誌とは異なった形での動物への眼差しが示される。

人類学者のマシュー・ワトソンは、マルチスピーシーズ民族誌のもとでは、動物が、研究者たちの語りたい物語を作るための「資源」になってしまっていると指摘する。彼は、トム・ヴァン・ドゥーレンの2016年の論文を材料に、この点について考察を行っていく7

7 C. Watson, M. 2016 “On Multispecies Mythology: A Critique of Animal Anthropology,” Theory, Culture & Society 33(5): 159-172. なお、ドゥーレンの論文は以下を指す。Van Dooren, T. 2016 “Authentic crows: Identity, captivity and emergent forms of life,” Theory, Culture & Society 33(2): 29–52.

ドゥーレンの論文では、ハワイの絶滅危惧種のカラス(ʻalalā)の繁殖保護施設を舞台に論が展開されていく。ʻalalāは既に野生では絶滅しており、飼育下で残されてきた種が存在するのみである。繁殖飼育施設では、成長した個体を放鳥することで、ʻalalāの再野生化を目指している。ここに関わる人々を悩ましているのが、「種」の「真正性」の問題だという。飼育下で育ったʻalalāは、放鳥された後でも、かつて観察された純粋野生のʻalalāと異なった行動をとる。人との関わり合いによって、その行動を変容させたカラスのアイデンティティをどのように捉え、いかに保全するべきなのだろうか?

ドゥーレンは、関係者たちが、「種」の概念に本質主義を採用する傾向にあること、つまり、かつて観察された野生下の行動に沿うか否かで、ʻalalāのアイデンティティを決定しようとする点を批判している。彼からすれば、重要なのは周囲の環境に反応して自らの行動を変化させることのできる、カラスの適応能力だ。ハラウェイに代表されるような、流動的な「種」概念──すなわち「種」とは、別の「種」と交わることで互いに互いを変化させていくものだという観点──からすれば、進む時間の中で変容していくカラスの行動と、それを可能とする能力にこそ、彼ら/彼女らのアイデンティティが宿っている。

ワトソンは、ここまでのドゥーレンの意見について、カラスを過度に擬人化し、論文の舞台となったハワイにおける自然保護の歴史や政治を見えなくしてしまっていると指摘する。ここでのドゥーレンの関心は、ローカルな場の問題における人間と自然、動物の関係性へと目を向けることよりも、絶滅寸前の「種」が変化する能力によって、その危機から逃れようとしている点にある。彼はカラスが新しい生き方を学ぶことで、間近に迫った破滅から逃れたという物語を積極的に示す。しかしながらワトソンは、これによってドゥーレンが、人間も同様のことができるのだと間接的に語ろうとしていると指摘する。つまり、我々も、新しい生き方を学ぶことで、自身に迫る地球規模の危機──気候変動や産業・環境の荒廃──から逃れられるというのだ。ワトソンの言うように、ここにおいて動物は、人間の「生存神話のための記号論的資源」になってしまっている8

8 Watson 2016: 160-166.

同様の指摘をコロラド大学の准教授であり、サイエンスコミュニケーションを専攻するエリカ・アメジスト・シマンスキ(Erika Amethyst Szymanski)も行っている。彼女によれば、マルチスピーシーズ民族誌などに見られる「レトリックの多くは……〔中略〕……人間を脱中心化することを約束、あるいはそれを前提としている」ものの、実際には、人間のみが能動的に語ることが許されているのであり、結局のところ、従来の人文学的な研究が問題としてきた、語る主体(としての人間)語られる客体(としての非人間)というヒエラルキーが温存されてしまっている9

また動物の権利(アニマル・ライツ)の観点から、より踏み込んだ批判を行っている者もいる。ヘレン・コプニナ(Helen Kopnina)は動物の権利や福祉、ディープ・エコロジーなどの歴史や意味を概観したうえで、既存の人類学がより、それらと積極的に関わっていく必要性を説く。その上で、マルチスピーシーズ民族誌などの動向の意義を認めつつも、幾つかの問題点を指摘する10

9 Szymanski, E. A. 2023 “Conversations with Other-than-Human Creatures: Unpacking the Ambiguity of “with” for Multispecies Rhetorics” Rhetoric Society Quarterly 53(2): 138-152.
10 Kopnina, H. 2017 “Beyond multispecies ethnography: Engaging with violence and animal rights in anthropology,” Critique of Anthropology 37(3): 333-357.

第一の問題点は、マルチスピーシーズ民族誌に見られる楽観的姿勢である。コプニナによれば、マルチスピーシーズ民族誌の関係者たちは、近年の人文学などにおける脱人間中心主義的な傾向を指して、人類が倫理的に進歩を遂げたと信じているという。しかし、WWFやPETA及びアメリカ動物虐待防止協会などが示す具体的なデータをもとに、コプニナは反論を行う。それらによれば、毎年、一億匹以上の動物たちが医薬品や化粧品の実験、医学的訓練の犠牲となっているし、米国に限定しても、年間900万頭以上の家畜が肉や乳製品の生産に使われ、また、120万頭の犬と140万頭の猫が安楽死をさせられている。そして、こうした状況を踏まえれば、人類学が、工場畜産や動物を使用する医療実験の問題に、より批判的に取り組まない限り、本当に意味での脱人間中心主義は行われえないとする。

第二に、コプニナはマルチスピーシーズ民族誌における、アニマル・ライツの軽視を指摘する。例えば、ダナ・ハラウェイは、医学における動物実験について尋ねられた際、それを一定の条件下では認めると発言し、同時に、独自のレトリックを用いて、アニマル・ライツの問題について語ることを逃れようとしたという。通常、動物実験は、そこに人間社会全体に資する善があるため、動物の苦しみにもかかわらず認められている。一方で、そもそも「動物が人間の介入を受けずに自由に生きる権利を持つべきだという哲学的信念」を持ったアニマル・ライツの立場からすれば、実験がどれだけ人間に有用であっても認められえない11

11 Kopnina 2017: 336

もしマルチスピーシーズ民族誌が、その主張のように、人間と人間以外の生物という二分法を捨て去り、真の意味で、脱人間中心化を成し遂げるのならば、人の生命と動物の生命との間のダブル・スタンダードから脱却し、動物実験や食肉加工といった、人間の幸福と動物の幸福が対立する現場にこそ、目を向ける必要があるとコプニナは主張する。

「動物」の語られ方と、その新たな可能性

これまでの議論をまとめると以下のようになる。

まず、マルチスピーシーズ民族誌において、「種」とは固定的なものではない。多種間の相互影響の中で、互いに互いを形作っていくようなものなのだ。そのため、ここには「種」間の、一方的な主体-客体関係も存在しない。こうした前提のもと、マルチスピーシーズ民族誌における動物は、デプレらの論文における羊のように、確かな感情と能力を持った存在として眼差される。そして「種」が流動的で、時間と共に変化するものだとするマルチスピーシーズ民族誌では、そこで語られる物語も基本的に未来志向となる。

そのため、物語や議論の焦点が人と動物の間にある、過去や現在の問題の清算や即時的な解決といった方向には向かいにくい性質を持っているといえるだろう。むしろ、動物と人とは、互いに影響を与え合いながら、破滅的な未来を回避したり、起きてしまった荒廃を回復させる、仲間のように描写されることさえある。

論を広げれば、このような傾向は、マルチスピーシーズ民族誌に大きな影響を与えているダナ・ハラウェイの思想を背景に持つアート実践などにも見られる。例えば、マヤ・スムレカー(Maja Smrekar)の2016年の作品《Hyblid Family》では、アーティストが自らの母乳を犬に与え、育てるという長期間のパフォーマンスが行われた。スムレカーは、この活動を通しての自身の身体の変化を記述している12。この作品は授乳行為を通して、犬と共に疑似的な親子関係になろうとする試みであるとみなしうるし、前述のアニマル・ライツの立場からすれば、犬の権利を侵害しているとも言えるだろう。

12 作者のウェブサイトを参照のこと。https://www.majasmrekar.org/k-9topology-hybrid-family

一方で、これまでに見てきたマルチスピーシーズ民族誌への批判群における動物観は、マルチスピーシーズ民族誌におけるそれとはかなり違ったものとなっている。ここでの動物たちは、その能力を認められつつも、人間によって、その能動性や権利を簒奪されたり利用されたりしてきた(している)存在として描かれるからだ。

「種」という概念への捉え方も異なっている。マルチスピーシーズ民族誌では、これを流動的なものと見なし、それ故、従来の科学的な視点から提供される「種」の定義やそれにまつわるデータを軽視する傾向にある。これに対し、コプニナは、アニマル・ライツの立場から、マルチスピーシーズ民族誌の「種」概念の中に潜むダブル・スタンダードを指摘する13。またワトソンは、従来の意味での「種」概念も一定以上、尊重するものとする立場にたつ14。前者は「種」概念の開放性をより徹底することで、後者は「種」概念のより固定的な側面に着目することで、人に搾取される「種」としての動物像の描写を試みる。付言すれば、前記のシマンスキは、こうした搾取関係が、マルチスピーシーズ民族誌特有の未来志向的な曖昧なレトリックによって覆い隠されていると指摘している15

13 Kopnina 2017: 341-342, 347-349
14 Watson 2016: 166
15 Szymanski 2023: 140

ホーンビーアイランド自然史センターでプログラムディレクターを務めるサラット・コリングは、その著書で、こうした搾取関係に関連する二つの芸術実践を紹介している16。ここでは、ある屠殺場から逃亡した豚のフランシスに関するエピソードが前提となる。1990年、フランシスは畜殺室へ向かう途中、フェンスを飛び越し、脱出に成功した。彼は数か月に渡り、森で暮らし、自由な生活を満喫していたという。しかし、ハンターの撃った麻酔矢によって負った傷が原因で亡くなってしまう。

この事件を前提とした第一の芸術実践は、フランシスの物語を称えるという名目で、彼の死後に地元の商工会によって作られた銅像である。皮肉なことに、自由を求めたフランシスの試みは「市によって観光と動物アグリビジネスの推進に利用」された。コリングは、フランシスの苦しみをもとに利益を生み出す畜産業が、彼の闘いすらも流用していると語る。第二の実践は、ウィニペグのパンク集団プロパガンディによって作られた歌である。プロパガンディは、フランシスの逃走とその後の出来事に焦点を当てながら、彼が自身の母との触れ合いの中で感じたであろう愛についても歌っている。コリングによれば、この作品は、「情感ある生きもの」を苦しめる動物搾取によって支えられた、我々の社会の「意図的無知を批判」しているという17。搾取を利用し、隠ぺいする表象と、それを批判する表象との関係は、コプニナのマルチスピーシーズ民族誌に対する批判と響き合う部分を持っているかもしれない。

16 コリング S. 2023『抵抗する動物たち グローバル資本主義時代の種を超えた連帯』井上太一訳 青土社
17 コリング 2023: 231-232

これまでに見てきたように、動物をどのように物語るかは、語る側の人間が、どういった視点・目的を採用するかによって変動することが分かる。マルチスピーシーズ民族誌とその批判的な研究群においては、「種」という概念に関する考え方や、未来における問題を回避しようとするのか、いま目の前にある過去から続く問題を解決しようとするかといった目的意識の違いなどが、動物の語り方への違いを生み出している。

最後に、この「種」概念と目的意識の違いが、マルチスピーシーズ民族誌とその批判的な研究群との間にある種のかみ合わなさを生み出している点を指摘したい。

これまでも見てきたように、マルチスピーシーズ民族誌は未来の破滅を避けるという前提のもと、多くの語りを行ってきた。ここでの目的が、箭内がいうところの「生物同士の関係をめぐる我々の想像力の全体」を動かすことにあるとすれば、そもそも自分たちへの批判内容は既に織り込み済みのものである可能性がある18。なぜなら、これまでの批判群に存在するような通常の科学的知見への一定の評価、動物と人との間に存在する権力関係の詳細な記述などは、むしろ人間と他種の間の想像力を特定の方向へと誘導しかねない力を持っているからだ。批判の対象ともなっていた、マルチスピーシーズ民族誌の曖昧さは、想像力を自由に広げるために必要な要素だともいえる。

18 箭内匡 2022: 88

無論、これまでに見てきた批判の価値を否定するつもりはない。特に、アニマル・ライツの立場からの批判は、マルチスピーシーズ民族誌的な世界観を現実のレベルで構築しようと試みる際に、必須の通過点となるだろう。一方で、マルチスピーシーズ民族誌の目的意識によりそった形での批判も可能であろう。もし、マルチスピーシーズ民族誌のいうように「種」をより開放的なものとして考えるのならば、「個」の概念もより開放的に考えることができるはずだ。事実、先にも触れたデプレの提示する「群れ」の概念は、個々の人間と羊とが相互の関わり合いを通して「人間+羊」に、さらに土地との交流によって「人間+羊+茂み」、「人間+羊+茂み+泉」にといったような広がりを持った個体単位として変化していく様子を描写している。そして、このように考えれば、より多様な民族誌の描き方があり得る。デプレの実際の論文は、あくまで「人」、「羊」、「人+羊」からの視点における「人間+羊+茂み+泉」等の記述に留まっている。だが、もし「個」を開放的に考えるのならば、「人間+羊+茂み+泉」という単位は維持しつつも、「茂み」、「泉」あるいは「茂み+泉」の視点からの記述も行えるのではないか。

そして、こうした視点の移動が可能になれば、あるフィールドにおける「人+植物」の視点から見た「動物」や、「人+ある動物」から見た「別の動物」など、より自由で想像力に富んだ動物の描写が可能となっていくだろう。これらの作業を通してこそ、マルチスピーシーズ民族誌の唱える「種」間の開放がより推し進められると思われる。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年6月30日 発行