芸術における疎外と内包 M.フリードとS.カヴェルにおける思想上の影響関係から
序
アメリカの美術批評家、美術史家および詩人であるマイケル・フリード(Michael Fried: 1939-)の芸術における主たる問題関心は、芸術作品の成立に観者の存在が関わっているか否かにある。それは1980年に刊行された著作である『没入と演劇性』の記述に沿えば、18世紀フランスの画家ジャン=バティスト・グルーズの作品のように「没入」状態が描かれた絵画はその絵画の登場人物が観者に見られていることを意識していないために観者が作品世界の外部に位置づけられるが、他方で肖像画の場合は見られることが前提とされる絵画であるために観者は作品世界の内部に位置づけられるという作品の成立条件の違いを指している*1。加えて肖像画の場合、フリードが独自の術語として用いた「演劇性」という言葉が付与されるが*2、それはフリードが批評文「芸術と客体性」(1967年)で明示するようにまるで演劇の舞台のように観者がその作品世界の一部になるということである*3。これにより、私たちは作品から疎外されたり作品に内包されたりすることを経験する。
*1 Michael Fried, Absorption and Theatricality:Painting and Beholder in the Age of Diderot, The University of Chicago Press, 1988(初版は1980), pp. 66-68, 109-110. [マイケル・フリード、伊藤亜紗訳『没入と演劇性:ディドロの時代の絵画と観者』水声社、2020年、109-110、179-180頁。]
*2 Ibid, p. 109.[マイケル・フリード、上掲書、179頁。]
*3 Michael Fried, “Art and Objecthood,” Art and Objecthood: Essay and Reviews, The University of Chicago Press, 1998, p. 155. [マイケル・フリード、川田都樹子・藤枝晃雄訳「芸術と客体性」『モダニズムのハードコア:現代美術批評の地平』太田出版、1995年、73頁。]
しかしながら、フリードの芸術理論においてこの疎外と内包の経験が観者の存在のみの問題へと回収されるならば話は単純であるが、そこにはその経験に付随する心の哲学とでも呼べるような問題も含み込まれていることに着目しなければならないだろう。このことを次節以降では考察していく。
芸術作品における疎外と内包
フリードは2011年にFive Books社がオンライン上で公開した記事の中で心の哲学への関心とその思想上の手続きを明らかにした。この記事ではその社名の字面通り、自身にとって最も優れた書籍を5つ紹介するものである。フリードはここで「芸術における哲学的な関与」というテーマで5つの書籍を紹介し自分の仕事に影響を与えたのは美術史家のみならず哲学者であったということを回想している*4。つまり自身の著作物は哲学からの影響を多分に受けており、それは美学者のスティーブン・メルヴィルに言わせればこの記事でのフリードの発言を待たずとも「ほとんど最初の段階から批評にとって顕著な特徴であった」*5。実際、フリードの初期の仕事にあたるモダニズム芸術批評を集めた批評集『芸術と客体性:論考と評論』(1998年)でも序文や各批評の冒頭のエピグラフを見ればそこには美術史家ではなくハイデガーやウィトゲンシュタイン、マルクスなどの哲学者たちの言葉が置かれておりこれらの批評に哲学が関与していることは容易に理解される*6。
*4 “The best books on The Philosophical Stakes of Art,” 2011, https://fivebooks.com/best-books/michael-fried-philosophical-stakes-art/, 最終閲覧 2024年1月11日.
*5 Stephen Melville, “ ‘Art and Objecthood’, Philosophy,” Journal of Visual Culture, 2017, p. 12.
*6 Michael Fried, Art and Objecthood: Essay and Reviews, The University of Chicago Press, 1998, p. 1, 77, 101.
こういったフリードの哲学への関心と自身の仕事への反映は、作品の成立条件としての観者の疎外と内包がより深化した複雑なものであるということを裏づけている。というのも、フリードはこの記事の中で、この問題にさらに心の哲学に関する問いを付随させることで、彼自身の理論をより立体的なものにしているからである。それは推薦書に取り上げたスタンリー・カヴェルの『悲劇の構造:シェイクスピアと懐疑の哲学』(2016年)*7に関する説明の箇所で展開される。
*7 Stanley Cavell, Disowning Knowledge: In Seven Plays of Shakespeare, Cambridge University Press, 2003.[スタンリー・カヴェル、中川雄一訳『悲劇の構造:シェイクスピアと懐疑の哲学』春秋社、2016年。]
フリードは『悲劇の構造』でカヴェルが扱うシェイクスピアの作品と自著である『カラヴァッジョの時代』(2010年)*8で取り上げたカラヴァッジョの作品を比較することで、自身の理論と心の繋がりを示した。カヴェルはこの書籍の中でシェイクスピアの作品である『オセロ』や『冬物語』における夫から妻への嫉妬を分析の対象としており、フリードはこの本を介して嫉妬を、愛している人の思っていることを全て知っていたいという独特な欲望を満たすことへの要求であると解釈し、カヴェルのシェイクスピア作品への洞察にあるのは、そういった、人が人の気持ちを知ることができないことで生じる懐疑にあるとしてこの本を評した*9。
*8 Michael Fried, The Moment of Caravaggio, Princeton University Press, 2010.
*9 “The best books on The Philosophical Stakes of Art,” 2011, https://fivebooks.com/best-books/michael-fried-philosophical-stakes-art/, 最終閲覧 2024年1月11日.
一方で『カラヴァッジョの時代』ではカラヴァッジョの《法悦のマグダラのマリア》を作品として取り上げ、フリードは私たちがこの作品に対して「この若い女性は深く心を動かされている」*10と評すること、つまり「深く」動かされているとなぜか言ってしまうぐらい私たちが彼女の心の中へと接続してしまうことに言及し、シェイクスピア作品の懐疑と対置している*11。このような心への接続は、フリード曰く、ここに描かれた「没入」行為のなせる技である*12。
*10 Ibid.
*11 Ibid.
*12 Ibid.
以上をまとめれば、シェイクスピアの作品で扱われる嫉妬、つまり愛している人の気持ちを知ることができないという事態は、カラヴァッジョ作品における没入した状態の人の気持ちは知ることができるという事態と対にあり、これはおそらく以下のように言い換えることもできるだろう。すなわち、人は自分自身に関する他者の心を知ることはできないが、それ以外の別の対象に関する他者の心は知ることができる生き物であるのだと。
そして、ここにおいてフリードの芸術理論が立体的に浮かび上がってくる。『没入と演劇性』の中では、「没入」状態の人物を描く絵画の場合には観者の存在は疎外されるが、肖像画の場合は内包されている。そして、前者の場合、私たちは眼差しを向けられることはないが、後者の場合は眼差しを向けられる。さらに、後者はその眼差しにより私たち自身に直接関わってくるために、その肖像画が何を思っているのか知ることはできなくなる。
つまり、心という観点から見れば前者においては心の共有が可能である点で心的には内包され、後者は心の共有が不可能であるために心的には疎外された状態になっている。それゆえ、観者の存在の物理的なあり方と心的なあり方は逆転しているのである。
これを踏まえれば肖像画に付与された「演劇性」は懐疑論に結びつけて考える必要があるが、これはフリードにおいてもおそらく自明のことであり『没入と演劇性』の注釈の中で「演劇性」をカヴェルの『目に映る世界:映画の存在論についての考察』(1971年)*13と『言ったとおりの意味でなければならないか』(1969年)及び『悲劇の構造』に所収された「愛の回避:『リア王』を読む」*14において「概念と目的の共通性がある」*15としていることから、この心的な疎外と内包についてはさらにカヴェルの著作物を読解していく必要がある。
*13 Stanley Cavell, The World Viewed : Reflections on the Ontology of Film, Harvard University Press, 1971.[スタンリー・カヴェル、石原陽一郎訳『目に映る世界:映画の存在論についての考察』法政大学出版局、2012年。]
*14 Stanley Cavell, Must We Mean What We Say?, Cambridge University Press, 1969.
*15 Michael Fried, op. cit., p. 182.[フリード、上掲書、360頁。]
知の欠如における価値づけ
ただ、本論では紙幅の関係上、「演劇性」とカヴェルの著作物の精緻な照応は別の機会に回すこととし、フリードの「演劇性」とカヴェルの懐疑論について知という観点からその共通性を指摘することに留めておきたい。フリードは、カヴェルのシェイクスピア論において解釈した嫉妬を、愛する者に対する「完全な知(absolute knowledge)」*16の要求であるとしている。すなわち、「完全な知」の獲得できなさによって人は懐疑的になり嫉妬が生じるのである。「演劇性」は既に述べたように懐疑論に結びつけられるが、これを踏まえれば「演劇性」が付与された他の作品においても「完全な知」の欠如が生じている可能性がある。
*16 “The best books on The Philosophical Stakes of Art,” 2011, https://fivebooks.com/best-books/michael-fried-philosophical-stakes-art/, accessed:11/01/2024.
フリードは『没入と演劇性』の中で18世紀において肖像画は芸術作品として考慮するに値しないものであるとみなされていたと言及しているが*17、このような評価は「完全な知」の欠如から生じていることが推測される。
*17 Fried, op. cit., p. 109.[フリード、上掲書、179頁。]
また、この推測はさらに「芸術と客体性」の中で扱われるミニマル・アートにおいても敷衍されるのである。この批評文の中でフリードはミニマル・アートに「演劇性」を付与することで芸術として低い評価を下したが、こういった評価にはフリードの情動が絡んでいることが既にクリスタ・ノエル・ロビンスの論文「マイケル・フリードの感受性」*18において指摘された。この論文では、フリードが1967年にその当時の『アートフォーラム』の編集者であったフィリップ・ライダーに「演劇性」の感性を同性愛の感性と結びつけた手紙を送っていたことが明らかにされているが、このような背景にあるのは懐疑であるとも言及されている*19。そして、ロビンスは、この論文の中で1900年代半ばのアメリカでは男性の振る舞いが異性愛的なものなのか、それとも同性愛的なものなのか見かけ上では区別できないことによる不安が生じていたと他の文献を参照することにより述べ、それがフリード自身にも生じていたことを述べる*20。つまり、フリード自身も自らの男性との交友関係の中で、自身の振る舞いが異性愛的なものとみなされるのか同性愛的なものとみなされるのか、つまり自分自身のアイデンティティに不安が生じていたのである*21。そして、ロビンスによれば、同性愛の感性と結びつけた「演劇性」の感性はこれを踏まえて読まれる必要がある*22。つまり、ここまでの議論を踏まえれば「演劇性」の感性が付与された作品も同性愛者もフリードにとっては理解の範疇を超えるものであり、フリードはミニマル・アートを完全に理解できていたというわけではなく、むしろ理解し得ないからこそ生じる懐疑とそれに伴う不安から、ミニマル・アートを非難しているとも言えるのである。そうであるならば、フリードのミニマル・アートへの評価は今後十分に再考されるべきであろう。
*18 Christa Noel Robbins, “The Sensibility of Michael Fried,” Criticism, vol. 60, 2018.
*19 もちろん、この懐疑はカヴェルの懐疑論が念頭に置かれている。Ibid, p. 429, pp. 439-441.
*20 Ibid, pp. 440-441.
*21 Ibid, p. 441.
*22 Ibid.
結
本論では、フリードの芸術理論をカヴェルの懐疑論を踏まえることで、フリードが芸術作品と観者の関係を観者の存在という物理的なあり方だけでなく、心的なあり方としても捉えているということが理解された。そして、その心的なあり方を「演劇性」に反映させた場合、「演劇性」が付与される肖像画だけでなく、批評である「芸術と客体性」の中でも同様に付与されるミニマル・アートにおいて、そこには作品を完全に理解することができないことへの懐疑と不安が生じていたことを結論づけた。しかしながら、そうであるならば、何が適切な作品受容であるのか、そして、どのようにすればこのような作品によって生じる懐疑や不安は克服されるのかを、フリード自身への批判に留まらずさらに検討することが今後の課題として残されている。
*本稿は、JST次世代研究者挑戦的研究プログラムJPMJSP2