EXPERIENCE 生命科学が変える建築のデザイン
アメリカの建築史家ハリー・フランシス・マルグレイヴによる著書From Object to Experience: The New Culture of Architectural Design(London: Bloomsbury, 2018)の全訳である本書は、『近代建築理論全史 1673-1968』(加藤耕一監訳、丸善出版、2016年)および『現代建築理論序説 1968年以降の系譜』(デイヴィッド・グッドマンとの共著、澤岡清秀監訳、鹿島出版会、2018年)に続く、著者三冊目の邦訳書となる。前二冊が近現代における建築理論の展開を通史的にたどるものであったのに対し、本書はマルグレイヴが近年精力的に取り組んでいる、生命科学あるいは神経科学の知見にもとづく新たな建築デザインの方針を提示するものであり、一般的な歴史家のあり方からするとチャレンジングな一冊といえるかもしれない*。
原題からうかがえる通り、本書の目標とするところは要約すればシンプルである。すなわち、建築をもっぱら視覚的な側面から捉えられる「オブジェクト」としてではなく、生命体としての人間に根ざした多感覚的な「体験(experience)」という面から捉え直すこと。そのために動員されるのが、人間の知覚や生態にかかわる諸科学の分野における最新の研究成果であり、同時にまた、先の二書で扱われていたような過去の建築理論もこうした視点からさまざまに再解釈されることになる。
建築を専門とする訳者としては、比較的よく知った建築史上の人名や概念と、生命科学や神経科学の分野における見慣れないそれが本書のなかで入れ替わり立ち替わり現れるのが新鮮だったが、おそらくその印象は読者それぞれの属してきた「文化」によっても異なるものだろう。本書のなかでは、「われわれの認知的な健康や幸福に貢献するもの」として「新奇性」と「慣れ」のあいだの揺れ動きが論じられている箇所があるが、本書の読書体験それ自体が、既知と未知のあいだのこうした(心地よい)揺れ動きをもたらすものとなっているのではないだろうか。
* ただし、建築理論についての歴史的研究から、今後の建築デザインに対するひとつの方向性の提示へというこの展開が決して唐突なものではないことは、1968年から現代までの建築理論の展開を追った『現代建築理論序説』の末尾が「神経美学」によって締め括られていること、あるいは『近代建築理論全史』の記述の折り返し地点に位置し、マルグレイヴ独自の視点が明瞭に示された章である「補説:20世紀ドイツモダニズムの概念的基礎」で着目されている「感情移入(Einfühlung)」をめぐる議論が、本書において現代の神経科学と過去の建築理論をつなぐ重要な役割を果たしていることからもわかる。さらに遡れば、これらの発端にはマルグレイヴのキャリア初期におけるゲッティ・センターでの一連の仕事が存在するが、この点については『近代建築理論全史』監訳者の加藤耕一による書評(https://kajima-publishing.co.jp/books/architecture/7fmux3vsbi/)に詳しい。
(印牧岳彦)