翻訳

ジュディス・バトラー(著)、佐藤嘉幸清水知子(訳)

自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判(新版)

月曜社
2024年1月
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現代は、さまざまな倫理的規範が氾濫し、私たちに押し寄せてくる時代である。このことはソーシャルメディアの世界的な普及により多様な規範や価値観が可視化された結果であり、なにもいまに始まったことではない。今日突きつけられる倫理的規範は、明日には別の価値観と対立することもあるだろう。そして明後日にはまた新たなものが現れ、既存の規範を覆すかもしれない。私たちが次々と押し寄せてくる規範を無批判に受け入れると、それらの規範と自己とが同一化され、規範が自身にとって透明なものとなる。一度そうなれば、私たちはすでに内面化した規範とは異なる価値観に直面した際には旺盛に批判し、このほど批判した当該のものが倫理的規範として大手を振るって現れた際には沈黙するか無視するかである。このように私たちは無自覚に倫理的規範に従属するとともに、多様な価値観に翻弄されているのだ。そして内面化された規範は、批判するにせよ沈黙するにせよ、他者に対する倫理的暴力となっているのである。

では、倫理的規範に対してどう向き合えばよいのか。バトラーが提示する方法は、「私」の不透明性を認めることである。私たちは、その始まりからしてすでに他者であり、決して自分自身を完全には説明することはできない。この事実を冷徹に受け止めることが、規範との無批判な同一化を回避する手立てとなるのである。さらに、「私」の不透明性を認めることは、他者もまた、私たちにとって完全には理解できない存在であるという考えにおのずとつながっていく。私たちはこうした事実を否定するのではなく尊重し、他者に対して開かれた態度で向き合うことが倫理的な関係性、すなわち責任=応答可能性を築くための鍵となる。バトラーの次の言葉はこのことを平明に言い表している。

私たちが他者を知ろうと努める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるのかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生きさせるのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものと考えられるからだ。もし他者を自由に生きさせることが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすとすれば、そのときこうした承認の説明は、知に基づくというよりむしろ、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。ある意味で倫理的姿勢とは〔……〕「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。(63-64頁)

至極真っ当である。私たちは他者を自由に生きさせるべきであり、そしてもちろん私もまた自由に生きさせるべきなのである。そのためには、「私」や「あなた」が最終的に誰であるのか、という問いはつねに宙吊りにしたままでなければならない。他者に対する完全な判断や決定は、説明に他者を閉じ込め、所有する行為にほかならない。「私」であれ「あなた」であれ、説明することの限界を把握することにこそ、倫理的な地平が開かれるのである。

とはいえ、バトラーの一貫した呼びかけに応答し同調しつつも、はたしてこのような寛容な態度が可能なのだろうかという考えが脳裏をよぎる。現実には、他者からの傷や侵害によって報復の欲望が生まれることが多い。それは、暴力の連鎖を生み出し、倫理的関係そのものを破壊するリスクを孕んでいる。しかしバトラーは、他者からの苦しみを伴う解体こそが、倫理的な私となるための重要な契機だと説く。

最も重要なのは次の点だろう。私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認めなければならない。〔……〕他者によって解体されることは根本的な必然性であり、確実に苦しみである。しかし、それはまたチャンスー呼びかけられ、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、また動かされ、行為するよう促され、私自身をどこか別の場所へと送り届け、そうして一種の所有としての自己充足的な「私」を無効にするチャンスでもある。もし私たちがこうした場所から語り、説明しようとするなら、私たちは無責任ではないだろうし、あるいはもしそうであれば、私たちはきっと赦されるだろう。(191頁)

他者からの傷つきを恐れずに受け止め、その経験を通して倫理的な変容を遂げるということ。バトラーの議論は、ともすると理想主義的、楽観主義的に映るかもしれない。しかしながら、現在私たちが目の当たりにしている慢心した自己による暴力を考えれば、現実に深く根ざしたものとして浮かび上がってくるのではないだろうか。自己同一性を絶対視し、他者の存在を脅かす暴力、私たちが日々ニュースで目にする残酷な光景は、まさに自己中心的な論理の極致である。このような現実を前にして、本書におけるバトラーの透徹した「呼びかけ」は切実な様相を帯びてくるのである。

(大澤慶久)

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年6月30日 発行