オンライン研究フォーラム2023

研究発表4

報告:村山雄紀

日時:2023年11月11日(土)13:00-15:00

  • 樹木に同一化するとき──クロード・ロランの「ロクス・アモエヌス」をめぐって/村山雄紀(早稲田大学)
  • 出版物としての浮世絵から見る現代メディアの可能性──江戸後期の浮世絵と『週刊少年ジャンプ』の消費状況を比較して/髙橋百華(名古屋大学)
  • 長島有里枝「Self-Portrait」シリーズについての研究──図像分析を用いて/西川瞭(滋賀県立大学)

【司会】松谷容作(追手門学院大学)

スクリーンショット 2024-01-30 14.14.44.png


研究発表4のセッションでは、松谷容作氏の司会のもと、村山雄紀(報告者)、髙橋百華氏、西川瞭氏が報告を行った。題目はそれぞれに、「樹木に同一化するとき──クロード・ロランの「ロクス・アモエヌス」をめぐって」(村山)、「出版物としての浮世絵から見る現代メディアの可能性──江戸後期の浮世絵と『週刊少年ジャンプ』の消費状況を比較して」(髙橋)、「長島有里枝「Self-Portrait」シリーズについての研究──図像分析を用いて」(西川)と冠されているように、時代、主題、手法、問題関心は多岐に及んでおり、一見すると、それらに通底する要素を見出すのが困難であるかのように思われる。しかしながら、本セッションは、イメージの自生的運動に魅せられ(村山)、イメージの流通・消費過程に分け入り(髙橋)、イメージの偏った性的受容を是正する(西川)という点において、司会の松谷氏がいみじくも指摘したように、「イメージの力」を通奏低音とすることによって、ゆるやかながらもダイナミックな共鳴を生み出すことができた。図らずとも、ディヴィッド・フリードバーグの古典的名著の書名を鍵概念とすることとなった本セッションは、既存の学問的・制度的な棲み分けを取り払うことによって、イメージが孕む時間性の顕れを捕捉し(村山)、イメージの物質的な変容を調査し(髙橋)、イメージのセクシャリティを問い直すこととなった(西川)。

1人目の村山は、クロード・ロランの風景画を、ラテン語の「心地よき場所(locus amoenus)」に相当する概念である「ロクス・アモエヌス」の観点から分析した。クロードが描く情景には、人物による行為も、波乱に満ちた情念も、ペリペテイア(筋の急転)も、悲劇的な展開もなく、アリストテレス的カタルシスのモデルに従えば、観者を巻き込み感動させる要素は存在しない。それにもかかわらず、観者がクロードの風景画に魅了されるのはなぜか。村山が着目するのが、クロードが描く樹木、とくに風に揺れる葉叢の形象である。クロードが描く葉叢は、フランス古典主義時代の絵画理論家・愛好家であるロジェ・ド・ピールが説いた「優美さ(grâce)」の概念と関連している。ド・ピールによれば、風景画には、数値やプロポーションと結び付いた美とは異なる魅力として、「一瞬しか続かない美しさ」としての「優美さ」が胚胎されており、それは「瞬間」の時間性と結び付いている。ド・ピールが提起し、クロードが描いた「優美さ」の運動は、絵画の枠組みを超えて、リュミエールの映画『赤ん坊の食事』の背後で揺れ動く葉叢へと接続されるだろう。村山の企図は、クロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」として感受されるときのメカニズムを、「優美さ」が内包する「瞬間」の時間性に求めることにより、クロードからリュミエールの時代までを貫通するひとつの系譜を摘出することであった。

質疑応答では、クルツィウスがヨーロッパの文学や詩篇において明らかにした「ロクス・アモエヌス」というトポス概念を「瞬間」という時間性から考察することの齟齬と意義、ならびに、クロードの絵画をリュミエールの映画につなげることの是非についての質問が寄せられた。それについて村山は、「ロクス・アモエヌス」をトポスの問題に限定することから距離をおき、その空間的概念が孕む時間性(あるいは「優美さ」)の位相に着目することによって、クロードの時代とリュミエールの時代を同じ俎上に載せることが主眼であったとし、そのような力技を可能にするのが、空間芸術であり時間芸術でもある映画であると回答した。さらに「瞬間」に着目する本発表において、写真はどのような位置付けなのかについての指摘があったが、それに対しては、19世紀の写真(術)は露光時間などの技術的制約があるために、ド・ピールが「優美さ」の魅力として強調した「一瞬しか続かない美しさ」を捉え損ね続け、リュミエールの映画こそが、写真(術)が取り逃がした「瞬間」の時間性を提示し、観客を驚かせることができたとした。

2人目の髙橋氏は、従来の浮世絵研究が美術史的観点からのものが中心だったことを受けて、出版史・メディア史研究の立場から、浮世絵をめぐる流通・消費状況の実態把握を試みた。髙橋氏が浮世絵における流通・消費状況を分析するために注目するのが、現代の「マンガ雑誌」である。髙橋氏は先行研究に基づきつつも、これまでは明らかにされなかった浮世絵の流通・消費状況を明らかにするために、それを現代の『週刊少年ジャンプ』と比較しながら考察した。髙橋氏はさらに、浮世絵とマンガには、生産工程や価格、読者層といった多くの類似点があるにとどまらず、絵画として享受された浮世絵が後に屏風に再利用されたり、マンガの一コマが洋服にプリントされ販売されたりといった、イメージの2次利用の点においても共通点を見出すことが可能であるとした。

質疑応答では、浮世絵(近世)とマンガ(近代)の流通・消費構造を比較することの是非についての根本的な指摘があったが、髙橋氏はそれに関して、近世と近代において流通網や技術面の断絶があることは認めつつも、一面的な理解にとどまらない浮世絵の多面性を物差しとすることで、両者の懸隔をつなぎ合わせることを今後の課題としたい、と応答した。具体的には、明治以降における浮世絵の流通・消費状況にも射程を拡大し、さらには、現代のマンガに見出される「浮世絵的なもの」の要素など(印刷時における和紙の利用など)にも着目することによって、両者の連続性を印象づける論点を抽出したいとした。加えて、マンガの一コマをプリントした衣服を着用するという現代の事例のほかにも、浮世絵を袂に入れて持ち運んだり、版木に納めて再利用したりなど、イメージが物質化し変容する過程を浮世絵(近世)とマンガ(近代)の双方において見出した本発表における今後の展望が確認された。

3人目の西川氏が分析対象とする長島有里枝の「Self-Portrait」シリーズ(1993年)は、長島が自身とその家族3人を、アパートの室内を背景としてヌードで撮影した9枚組の写真シリーズである。西川氏によれば、長島はインタビューや著書を通じて、制作当時に抱えていた家族との軋轢や社会が強制する女性像への違和感を語っていたのにもかかわらず、本作品は、若い女性が撮影した「女の子写真」という固定観念によって、親密さを表現した性的なイメージとして歪曲化されてきた。西川氏はこのような穿った受容を是正するために、仔細で緻密な図像分析によって、同作を親密さや性的関係の暗示から引き離した。西川氏の目的は、裸のまま身を寄せ合う家族の姿に親密さや性的な含意を読み取る観者の視線そのものを問い直すことであり、そのことによって、長島が「眼差される客体としてではなく、あらゆる行動の主体として自らを捉え返した」ことを明らかにすることであった。

質疑応答では、同時代において、ジェンダーおよびセクシャリティの観点から、長島の「Self-Portrait」シリーズと同じような試みは存在しなかったのかについての質問があった。西川氏はそれについて、長島の作品と問題意識を共有した同時代あるいは先行世代の言説や作品(笠原美智子の『ジェンダー写真論』やナン・ゴールディンの諸作品)はあるものの、長島自身はそれらの潮流からは距離をおいたことを指摘し、むしろ、同作が「女の子写真」として通俗的かつ一面的に受容されてきたことにこそ目を向けるべきであると回答した。一方で、同作が「女の子写真」として受容され評価されていた90年代の文脈を否定することはできないのではという指摘があったが、それに対しても西川氏は、長島自身がフェミニズムを学び直したうえで発表した近作(『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』2020年)から窺えるように、フェミニズムの視点から反省的に問い直すことによって、「女の子写真」という同時代の指標には収まり切らない射程を拾い出すことこそが本発表の目的であることを改めて強調した。その点において、長島の作品は同じく「女の子写真」としてカテゴライズされることを享受していたように見える蜷川実花やHIROMIXらの作品とは趣が異なることが確認された。また同時に、長島のみを他の写真家から差異化することよりも、コンパクトカメラや使い捨てカメラによって撮影するという行為自体が女性と結び付けられることを、写真史そのものが抱えるジェンダーの差別的構造として論じることの方が、西川氏の問題意識をより生産的に展開することができるのではないのかという建設的な助言がなされた。部屋の乱雑さの度合いを家族関係の指標とすることなど(Family#26とMother#35Aの写真)、一部の図像解釈に関しての疑義が呈されたものの、長島の「Self-Portrait」シリーズを「女の子写真」として性的に消費し馴致してきた、観者の偏向的なまなざしを暴き出したという点において、本セッションの中でもとりわけ、多くの反応を呼び寄せることとなった。

3者の発表はそれぞれにまったく異なるものだったが、既存の枠組みに縛られない多様な論点が提示された。このような場を生成させたものこそ、冒頭で述べた「イメージの力」にほかならない。固定的な解釈を揺さぶるような「イメージの力」によって結集した本セッションは、表象文化論という、これもまた、既存の学問的・制度的な領域に収斂することを拒む学会においてこそ相応しいものだったように思われる。

なお、今回は研究発表の後に、20分間の懇談時間が設けられ、発表内容とは直接的に関係のない話題についても積極的な議論が交わされ、報告者自身を含め、自らの研究を見直し、さらに発展させるための貴重な機会となった。この場を借りて、司会の松谷氏、発表者の髙橋氏と西川氏、ならびに、参加者や関係者、そして何よりも、大会の企画・運営をしてくださった表象文化論学会企画委員会の方々に厚く御礼を申し上げたい。


樹木に同一化するとき──クロード・ロランの「ロクス・アモエヌス」をめぐって/村山雄紀(早稲田大学)

本発表は、クロード・ロランの風景画を、ラテン語の「心地よき場所(locus amoenus)」に相当する概念である「ロクス・アモエヌス」の観点から分析する。「ロクス・アモエヌス」とは、ウェリギリウスの『農耕詩』に描かれているような、都市の実務や喧騒から離れた長閑な牧歌的風景のことである。

小針由紀隆はクロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」と結びつく理由について、木々、樹陰、牧人、羊飼い、笛吹き、小川、鳥の鳴き声、山羊の群れといった、さまざまな要素を取りあげながら論じている。本発表は小針の研究に基づきつつも、とくに樹木の形象に着目することで、クロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」であることの理由について理論的に考察したい。

クロードが描く情景には、人物による行為も、波乱に満ちた情念も、ペリペテイア(筋の急転)も、悲劇的な展開もなく、アリストテレス的カタルシスのモデルに従えば、観者を巻き込み感動させる要素は存在しない。それにもかかわらず、観者がクロードの風景画に魅了されるのは、観者は人物ではなく、樹木に同一化するからである。オウィディウス『変身物語』のダフネの樹木への変身が物語るように、太古より、樹木は擬人化されてきたが、本発表は、観者が樹木に同一化するプロセスを「瞬間」の時間性の観点から考察する。クロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」として感受されるときのメカニズムを、「瞬間」の時間性に求めることにより、描かれた樹木が観者に及ぼす効果を明らかにすることが本発表の目的である。

出版物としての浮世絵から見る現代メディアの可能性──江戸後期の浮世絵と『週刊少年ジャンプ』の消費状況を比較して/髙橋百華(名古屋大学)

これまでの浮世絵研究は美術史によるものが中心であり、出版史/メディア史による研究は数が少ない。高橋誠一郎(1938)に端を発し、大久保純一(2013)、堀じゅん子(2016)等、当時の流通・消費状況の実態把握は近年盛んになりつつあるが、いずれも流通・消費状況が浮世絵の画風や主題にどのような影響を及ぼしたのかを明らかにすることを主目的としている。そのため、そうした研究が現代のメディアの流通・消費状況に対していかなる意義をもつかは明確でない。

そこで本研究は、現代の出版物の流通・消費状況という光のもとで、浮世絵の出版物としての側面を浮かび上がらせ、そこから得られる新たな可能性を示唆することを目指す。ここで注目するのが現代の出版物の中でも大衆に浸透している「マンガ雑誌」の流通・消費状況である。浮世絵とマンガはこれまでも比較されてきたが、流通・消費状況についてはまだ行われていない。発表では白戸満喜子(2010)の先行研究等をもとに甘泉堂や伊場仙をはじめとする江戸後期の版元から出版された浮世絵と『週刊少年ジャンプ』(集英社)を例に比較を行う。

この比較を通し、浮世絵とマンガには生産工程や価格、読者層等出版物としての在り方に多くの類似点があることを明らかにするだけでなく、例えば絵として楽しまれた浮世絵が後に屏風に張り交ぜられたり、マンガの一コマがそのまま洋服に印刷されたりと、当初の役目を終えた商品が再び異なる役割を果たす点でも類似していることに触れる。それにより、現代のメディアにおいても、役目を終えたイメージのその後に着目する重要性を示唆することができると考える。

長島有里枝「Self-Portrait」シリーズについての研究──図像分析を用いて/西川瞭(滋賀県立大学)

長島有里枝の「Self-Portrait」シリーズ(1993年)は、長島が自身とその家族3人を、アパートの室内を背景にヌードで撮影した9枚組の写真シリーズである。長島は本作発表後、インタビューや著書を通じ制作当時抱えていた家族との軋轢や社会が要請する女性像への違和感を語っている。こういった主張は顧みられず、また詳細な図像分析も行われないまま、若い女性が撮影した「女の子写真」という偏見のもと、また時にセクシュアルなイメージとして本作は解釈された。本研究では図像分析を行うことで制作意図を明確にすることを試みた。

本作には、異常なまでに親密に両親と裸で身を寄せ合う写真や、弟と裸になって布団に寝そべる、姉弟の関係を性的関係を持った男女関係のように見せる写真と共に、家族四人が記念写真のような配置をとり画面中央に整列する写真が示される。機能不全に陥った家族がそれでも「家族」として同じ空間で過ごさなければならないイメージとして観ることができるこの写真の中で裸体は、親密さの象徴としても性的関係の暗示としても機能しない。写真から親密さやセクシャルさを読み取る鑑賞者の視線は裏切られることとなる。

長島は、自身を束縛していた家族観や女性観を写真を通して客観視し、相対化したと言えるだろう。シリーズを通してカメラ、すなわち鑑賞者に向けられた長島の視線は、写真に親密さやセクシュアルさを読み取ろうとする鑑賞者を嘲笑っているかのようにも見える。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年2月11日 発行