研究発表3
日時:2023年11月12日(日)10:00 - 12:00
- 表象
されるヴァンパイア ── ダーシー 『 黒人 ヴァンパイア 』 とアダプテーション / 森口大地 ( 関西学院大学 ) 異形 の 詩学 ──松浦理英子『 葬儀 の 日 』 をめぐって / 今村純子 ( 立教大学 ) 糾 える 縄 ──警察小説 における 冤罪 / 熊木淳 ( 獨協大学 )
【司会】西原志保(東北大学)
11月12日(日)10:00からの研究発表3では、文学作品を主な対象とする3本の報告がなされた。とはいえ、司会の西原がこう述べたところ、熊木氏から「対象とするのは通常あまり文学作品と扱われない作品なので・・・」と驚かれたことが印象的だったが、森口氏はアダプテーションによるヴァンパイア表象の代表性、今村氏は松浦理英子の初期作品のまだ荒削りな「原石」のような部分をシモーヌ・ヴェイユ詩学によって考察する、熊木氏は「冤罪小説」を定義づけし、リストアップし、概観し、組織の表象について考察するという、いわゆる文学研究の領域に留まるのではない、表象文化論学会らしい広がりのある研究発表が行われた。
一人目の森口大地氏の発表は、ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』およびそのアダプテーションであるユーライア・D・ダーシー『黒人ヴァンパイア』を扱い、ヴァンパイアの「代表(リプレゼンテーション)」性について考察するものであった。
森口氏はまず、アダプテーションについて「なにか対象をアダプトして自己のテクストを生み出すことで、「他者性」を通して「同一性」を獲得するプロセス」と定義した上で、18世紀の「ヴァンパイア」について確認する。「ヴァンパイア」という「代表」的呼称に回収される以前には、「死から蘇って害をなす生ける死者」が、地域ごとに多様に存在したが、そのような東欧や南欧地域の民間伝承がアダプテーションされ、「金銭的搾取者/性的搾取者の比喩」として「ヴァンパイア」が用いられるようになる。
次に、ポリドリの『ヴァンパイア』とダーシーの『黒人ヴァンパイア』を二つのアダプテーションとして考察する。ポリドリの『ヴァンパイア』は、土着の信仰ではなく貴族的ヴァンパイアという新しいヴァンパイア表象が描かれ、バイロンの「断片」を下敷きに書かれたものであるが、ルスヴン卿のモデルとなったバイロンの名前で広まることで二重に「代表」される。バイロンは貴族的ヴァンパイアという新しいヴァンパイア表象と、『ヴァンパイア』の作者とを「代表」するのである。
一方でダーシーの『黒人ヴァンパイア』はポリドリの『ヴァンパイア』を参照するが、森口氏は参照も「搾取」であるとし、テクストを「搾取」することによって『ヴァンパイア』の「代表」性がより強化されることを明らかにする。また、『黒人ヴァンパイア』では、「18世紀民間伝承アダプテーションの継承」である、「寄生性や搾取」の側面も強調される。『黒人ヴァンパイア』出版当時は不況であったが、「人気あるポリドリの『ヴァンパイア』」や時事的な話題にかこつけた部分があり、そのような作風は、「金だけでなくテクストの搾取者として」ヴァンパイアを表象するものであり、それをダーシーの自己批判として位置づける。
二人目の今村純子氏の発表は、松浦理英子の初期作品、特にデビュー作『葬儀の日』(1978年)を、シモーヌ・ヴェイユ詩学の視座から考察するものであった。
今村氏はまず、『葬儀の日』の関係性について考察する。泣き屋である「わたし」と、笑い屋である「あなた」の間にあるものは「友情」とは明示されず、「ある関係性であり、ある方向性である」。そして、「そもそも差別と偏見に彩られた眼差しで見られる職業」を自ら選択しながら、「単なる不幸の「類例」と見られることを意に介さず」、誇り高く生きるが、その「自己への尊敬」ゆえに、「自己に到達し得ず、すなわち他者に到達し得ない」ため、「真の関係性」が築かれるのは、「互いに無であるときに限られる」とする。
次に、「位相をずらすことによる、屈辱から美への展開」について考察する。今村氏は、「群れる強い傾向」に関するシモーヌ・ヴェイユの言葉を踏まえつつ、「大衆をある一定の方向に導きたい為政者」が「泣くあるいは笑うという感情を巧みに利用してきた」ことから、「泣き屋」「笑い屋」である「わたし」と「あなた」も「集団のもつ均一化、水平化の陥穽」から逃れられていないという。ある葬儀の際に故人の妹から言われた「片割れ」と「結びついて安心しようとした」という言葉はそれを指摘するものであり、「深い屈辱」となって「突き刺さった」。しかしながら、「別々の綱に掴まっているはずの二人が」「一緒に歩いていて、それぞれの根元を探り当てつつあるのは」「絶望的」だが「絶望とは快楽だから」「出会いの苦々しさをちゃんと楽しんでいる」という言葉には、「位相をずらすことによる、屈辱から美への展開」が垣間見えるという。
最後に、常にアコーディオンをもっている、一貫して語り部の役割を果たす泣き屋の老婆が、「私のずっと後ろで」「狂い咲きの演奏をしている」空間で、「わたし」が「解決不可能なものを解決不可能なままに見つめて」葬儀場に向かう姿を、シモーヌ・ヴェイユの言う「知性をとことん突き詰めた後に、壁の外側で目覚める」ことの予感として、「美の閃光」として位置づける。
三人目の熊木淳氏の発表は、組織の表象という観点から、警察小説において冤罪がどのように描かれてきたかを考察するものである。熊木氏はまず次のような目的を示す。専門としているフランスには「企業小説」というジャンルが存在するが、日本における「経済小説」においては組織の表象がさほど描かれない。その中で2000年代以降の「警察小説」において組織の表象が描かれるが、先行研究においては、警察を「外から」眺めるものが多く、警察組織の「中」からの視点にはさほど注目されていない。一方で「冤罪」に注目すると、近年、警察組織を描くものへとジャンルが寄っている。
次に「冤罪小説」の発表数を年代ごとに概観し、時期ごとに区切って、それぞれの特徴について説明する。1970年代頃までは、「運命」として冤罪を描くものがあり、警察捜査の問題が指摘されることはない。ただし数自体が少ない。1980年代も「不毛の時代」であるが、それ以降の冤罪小説の方向性を決定づけた作家として、島田荘司と加賀乙彦をとりあげる。島田荘司においては、過去の間違った捜査の振り返り、加賀乙彦においては、「なぜ警察は冤罪を起こしたのか」という問いについて、陰謀を否定し、組織の恣意と捉える物語が描かれる。2000年代以降はこの二つ、冤罪と警察組織(「組織の恣意」)、過去の誤った捜査の批判的検証(「捜査の捜査」)が「冤罪小説」の主要な軸となるのだという。朔立木『死亡推定時刻』(2006年)は、「糾える縄」という慣用句を意図的に読み替え、組織の中で合理的であったり、善き行いであったりするものが、「冤罪」につながっていくことを描く。このことと、「捜査の捜査」が、2010年代以降の大きなトレンドとなっていくという。
熊木氏は以上の内容を、「糾える縄」という表現によってまとめる。2000年より前は、「禍福は糾える縄の如し」という言葉の、「禍福のコントロール不可能性」゠「運命としての冤罪」を描き、2000年以降は、「糾える縄」が読み替えられ、「縄」゠「複数の意図や行為の総合としての冤罪」を象徴するものとして、「個人の意図に還元しえない組織の論理」が描かれるようになるというのである。
表象されるヴァンパイア──ダーシー『黒人ヴァンパイア』とアダプテーション/森口大地(関西学院大学)
ユーライア・D・ダーシーの『黒人ヴァンパイア(The Black Vampyre)』(1819)は、当時流行したジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』のパロディとして書かれた。ハイチ革命を下敷きとした本作が、黒人やムラートへの同時代の恐怖をヴァンパイアに仮託していることは既に指摘されている(庄司宏子 2018)。ただし、庄司は黒人・ムラート表象を分析するのみで、ヴァンパイア自体の表象は詳論していない。
表象(representation)とは、何かを代理する゠表す(stand for)ことだけでなく、代表(representation)=他者に代わって行為するという政治的意味合いも含む。本発表では、『黒人ヴァンパイア』がポリドリ作のパロディであることの意味や、作中でヴァンパイアが演説する=他者を代表することの意味をはじめとする様々な動的なヴァンパイア表象を分析する。
ヴァンパイア表象の問題は、リンダ・ハッチオンなどのアダプテーション概念を介して、最終的には現実をアダプトするという問題まで射程に収めうる。アダプテーションとは「原作」を別のメディアだけでなく、別の文脈にも適合させる文化的行為だからである。もともと〈周縁〉にいたヴァンパイアは、神聖ローマ帝国の調査報告書を介して西洋という〈中心〉に輸入された後に新聞メディアで広まり、知識人たちの議論で言説空間が形成されたので、現実とテクストの合間に位置する。以前、発表者は本作のヴァンパイアが示す貴族性や搾取の問題について発表したが、本発表はこれと異なり、作品間だけでなくテクスト上に現実をアダプトする行為において、ヴァンパイアがどう表象されるかもまた考察する。
異形の詩学──松浦理英子『葬儀の日』をめぐって/今村純子(立教大学)
松浦理英子(1958-)のデビュー作『葬儀の日』(1978)は、『ナチュラル・ウーマン』(1988)にいたるまでの「異形の系譜」の原石となる短篇小説である。今日では禁忌とされる言葉を多用しつつ、非日常的な不気味さ・異様さを背景に、死や老いといったものに深く関わりつつそれらを嘲笑する仕事に携わる者たちの意識、あるいはまた、わたしたちが通常「なかったこと」にしがちな、自らのうちに湧き起こる邪悪さや醜悪さを孕むネガティヴな感情を、鮮烈な光のもとに晒してみせる。
かのプラトンは社会を「巨獣」に譬え、この「巨獣」の好みが善悪を決定するという。松浦が描く人と人との関係性/方向性をめぐるさまざまな問題系は、この「巨獣」から「異形なるもの」とみなされた人物たちがその感情を押し潰され、捻じ曲げられながらも、いかにして自らの個性と資質を失わずに自らの生を創造することができるのかを求め、そしてその落魄する様を描き出している。その極北に『葬儀の日』は位置している。
シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909-43)は、ギリシア悲劇やプラトンの作品から強烈なインスピレーションを得て、本来ならば交わらないはずの平行線は「無限遠で」交わるという非ユークリッド的直観をその詩学の支柱に据えている。本発表では、シモーヌ・ヴェイユ詩学の視座に立ち、松浦理英子初期作品全般を念頭に置きつつ、『葬儀の日』に焦点を当て、「異形の詩学」と呼ぶべきものを浮き彫りにしてみたい。
糾える縄──警察小説における冤罪/熊木淳(獨協大学)
本発表の目的は、日本の小説、とりわけ警察小説において冤罪がいかに描かれてきたかを明らかにすることである。
冤罪を描く主要なジャンルである法廷もの、リーガルミステリーとは別に、日本においては2000年代以降、多くの警察小説がこのテーマを扱うことになる。それまでは冤罪を描く物語は、例えば松本清張「不運な名前」や西村寿行『君よ憤怒の河を渉れ』など冤罪を個人があらがえない運命として捉えるものが多かった。換言すれば、冤罪にいたる捜査、司法の問題点などについてはほとんど描かれてこなかった。
だが2000年代以降、冤罪は捜査当局の捜査や官僚的組織のあり方に批判的な視線を向ける有効な手段として機能することになる。その理由として、1990年代後半から警察組織の表象に大きな変化があったのではないか。それまで警察とは単に事件を解決する機関に過ぎなかった。だが横山秀夫以降警察組織は厚みを持ち、場合によっては妨害や隠蔽を行うようになる。こういった背景のもとで、冤罪とは捜査員と警察が対峙する重要な要因となるのだ。朔立木は『死亡推定時刻』(2004年)の中で、冤罪を「糾える縄」にたとえたが、ここでこの語の読み替えを行っている。冤罪は個人の意思によるのではなく、成員たちの悪意や善意さえも含めた組織の行為の結果だとするのだ。かつて松本や西村にとって冤罪はある意味で「塞翁が馬」といったものだった。だとすればこの「糾える縄」の読み替えは日本における冤罪の表象の変化を表しているのではないか。