日時:2023年11月11日(土)13:30 - 15:00
- グリッチ/バグを利用する者たち──ゲーム攻略、政治的主張、そしてホラー表象へ/藤原萌(京都大学)
- ゲーム的主体の誕生──ゲーム的規律型社会に対する批判/難波優輝(立命館大学)
【司会】吉田寛(東京大学)
本研究発表では、報告者を含む2名の研究者によって「ゲーム」というキーワードに関連した研究発表がなされた。以下、各研究発表および質疑応答の概要を報告する。
藤原萌の発表では「グリッチ/バグを利用する者たち──ゲーム攻略、政治的主張、そしてホラー表象へ」と題し、バグやグリッチと呼ばれる機械の一時的な不具合に焦点をあて、それらがどのように利用され表象されてきたのかについて、さらにグリッチ・ホラーと呼ばれる作品群についてそれ以前との関係性、グリッチと恐怖の関係性について議論がおこなわれた。
グリッチはもともと「ささいな故障や機能不良」という意味であり、エンジニアの世界においてはなるべく避けるべきものであったが、それらを積極的に利用しはじめた者たちがいる。発表ではその例がゲームコミュニティ、グリッチ・アート、グリッチ・ホラーの3つに分類され紹介された。ゲームコミュニティについては、日本のゲームマニアたちの例が紹介され、誰も知らないようなバグ/グリッチを知っていることがステータスとなったり、それらを用いた攻略法をシェアすることによってコミュニティ形成がなされてきたりした事実が示された。グリッチ・アートについては、その作品群に存在する様々な政治的主張も含めて紹介がなされ、グリッチ・ホラーについてはグリッチを用いた新しい恐怖の描写として2010年代以降その作品数が増加していることが述べられた。
発表の後半ではグリッチ・ホラーについて、近年このジャンルに属すると考えられる作品群が増えているのはなぜなのかという議論がおこなわれ、理由としてグリッチそのものの特徴と、グリッチが身近になったという事実の2点があげられた。まず、グリッチ自体が機械と人間との相互作用によって生まれるものであるために、そこに非人間の存在を想像する余白があるという性質を持っている。それに加えて、グリッチという現象がデジタル技術の発展と普及により身近になったことで実際に日常が侵食されるような危機が訪れる可能性も高まり、グリッチを恐怖の対象として表現することが増えたのではないかという主張がおこなわれた。最後に、日本のメディアホラーと呼ばれる作品の一部をグリッチ・ホラーとして議論されている恐怖の表象と地続きにして考えることはできるのかという問いについて今後検討する必要性が示され、発表が締めくくられた。
難波優輝氏の発表は「ゲーム的主体の誕生──ゲーム的規律型社会に対する批判」と題し、発表者が提案する4種類の主体のあり方のうちの一つである「ゲーム的主体」について説明がなされたのち、労働のあり方はゲーム的主体がおこなうゲーム的労働のみではなく、より多元的であるべきだという主張がなされた。
発表では最初に「これからどうしていきたいの?」と問われた難波氏の個人的な体験が紹介され、未来について尋ねる他者と未来について考えることをしない難波氏自身の考え方の違いに疑問を持ちそれを解明しようとする問題意識に至った経緯が説明された。難波氏は木村敏が論じた時間意識の3つの区分を参考にしながら、時間以外の軸においても氏と他の人々との意識の構造が異なるのではないかと考え、それらの構造、特に労働をおこなう際の構造を美学・ゲーム研究の視点から分析することを目的としている。本発表ではその中で難波氏が「ゲーム的主体」と呼ぶ主体の構造に焦点が当てられ議論がおこなわれた。
労働におけるゲーム的主体を考えるにあたって鍵となるのは「仕事とはそういうものだ」という正当化が行われその仕事をおこなう意義が検討されなくなり、代わりに「与えられた仕事をどのように遂行するか」を考えるようになることである。発表ではこのことがマーク・フィッシャーの「資本主義リアリズム」で語られる資本主義の正当化について、ミゲル・シカールの主張する資本主義を正当化するための「プレイ」についての議論に基づき主張された。難波氏が定義するゲーム的主体を持つ労働者・労働文化はニーチェの言う「力への意志」がみなぎり、今やっている仕事の意味を問うことはせず、その仕事を頑張ること、抵抗を克服することを目的とする。そのような主体は自身がおこなうことの意義や善悪を考えることがなく、時にはそれが倫理に反したおこないに繋がり得る危険性も示唆された。
最後に、発表で焦点が当てられたゲーム的主体に加えて難波氏が提案する「物語的主体」「おもちゃ的主体」「ギャンブル的主体」という他3つの主体についても簡単に紹介がなされた。これらの主体にはそれぞれ対応する労働のあり方、すなわち「物語的労働」「ゲーム的労働」「おもちゃ的労働」「ギャンブル的労働」という4つのプレイスタイルが存在している。難波氏は、このような4つの異なる主体と労働のあり方があるにも関わらず、ゲーム的労働が主流とされ、すべてがゲーム的主体の働き方に集約されてしまう社会には問題があるため、より多元的な労働のあり方・プレイスタイルを認めるべきなのではないかと主張した。
それぞれの発表の後、司会の吉田寛氏からコメント・質問がなされた。藤原の発表については、表象文化論学会においてゲーム研究についての発表をすることの意義、また、発表内容が音楽研究やホラー研究など他の研究分野にもまたがることから今後の議論の広がりの可能性が指摘されたのち、バグとグリッチという用語の違いについての意見と質問がなされた。難波氏の発表については狭い意味でのゲーム論というよりはより広い主体論の話であり、主体、労働、資本主義がゲーム的構造を持っているというクリティカルな発表であるというコメントに加え、「人生はゲームである」と主張する様々な先行研究と本発表との違いについて、ゲーム的主体をこれまでの西洋的な主体として紹介するのではなくあえて名前を付けたことの意味、ゲームにおける安全性を本議論でどう考えるかについて質問がなされた。
その後の質疑応答では両者に様々な角度から質問がなされた。藤原の発表については吉田氏からもコメントのあったグリッチという語とバグという語の用いられ方の違いについて、グリッチがもたらす笑いについて、メタゲームとの関係性、バグやグリッチを精神不調や不安を表す表現としてゲーム内で用いること、グリッチ・ホラー以前のメディアホラーとの繋がりについてなどが問われた。難波氏の発表についてはゲームをやること自体が報酬になる、つまり労働が一階の欲求になる場合はどう考えるべきか、ゲーム的主体とメンタルヘルスの関係について、仮想空間と現実空間が近づいている現状とゲーム的主体との関連についてなどの質問がなされた。司会の吉田氏からの質問も含めた多くの質疑に対する両者の応答によって発表でおこなわれた議論がより深められた。2つの発表にまたがる質問やコメントもあり、それによって新たな研究や分析の方向性が示唆されたことも本研究発表の成果であろう。
グリッチ/バグを利用する者たち──ゲーム攻略、政治的主張、そしてホラー表象へ/藤原萌(京都大学)
「グリッチ」は機械の一時的不具合を表す言葉として英語圏で用いられてきた。日本では同様の意味で「バグ」という語が広く使用されている。グリッチ/バグは単に不具合として無視・忌避されることが多いが、それらをあえて利用する者たちも存在する。
1980~1990年代の日本ではゲーム文化の興隆と共にバグを利用しゲームを攻略するマニア達が登場した。ここでバグは高得点を狙ったり、他者へ優位性を示したりするための道具となった。また、1990~2000年代に北米やヨーロッパで登場したJodiやイマン・モラディなどのグリッチアーティスト達はグリッチによって、システムの中にある反逆の可能性や、現実を問い直すことを提案した。
これらを経て近年増えているのは、グリッチをホラー表現に用いる作品だ。映画『アンフレンデッド』(2014)やゲーム『Pony Island』(2016)に代表されるグリッチホラーはそれまでのグリッチアートやゲーム攻略とは異なる形で人々の前に現れている。
本発表ではグリッチ/バグを単なる不具合ではなく手段として利用した例としてゲームの攻略、グリッチアート、グリッチホラーを紹介する。これにより、グリッチ/バグを表現活動やコミュニティ形成のために重要な要素として提示すると共に、地域・時代におけるそれらの利用や表現方法の比較を通して、テクノロジーとそれを受容する社会との関係性の一端を示すことも試みる。
ゲーム的主体の誕生──ゲーム的規律型社会に対する批判/難波優輝(立命館大学)
本発表は、ゲーム的なフレームワークにおいて世界や他人と関わる存在者をゲーム的主体(Gamic Subjectivity)、ゲーム的自己(Gamic Self)として概念化し、ゲーム的主体・自己を生み出す言説群を考察することで、批判的ゲーム研究およびメディア研究への貢献を目指す。
ゲーム的主体とは、生活、パートナーシップ、ケア、労働といった生のいずれかの側面で、その都度特定の目標を設定し、それを効率的に達成することそのものの価値に駆動されて行為を組み立て、失敗への反省を繰り返していくことで、絶え間ないスキルアップを目指す主体である。
遊びとゲーム研究者のミゲル・シカールは、マーク・フィッシャーの「資本主義リアリズム」の議論を引き、資本主義的制度しか選択しえない世界において、ある主体が無力感を覚えるとき、無意味に思える労働をカモフラージュするために、労働にゲームの要素を組み込む仕組みを「遊び心資本主義」と呼び批判している。
こうした仕組み、ルールの側面への批判に対し、本発表では、主体のあり方を分析する。ゲーム的主体が世界を表象し理解可能にする方略を『弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、講談社、2016年〜)や自己啓発研究を取り上げつつ明確化していく。
本発表は、ゲーム研究における資本主義批判を明確化できる有用な概念を提示することで、文化批判のための新たなアプローチを開くことを目指す。