ニューメディアの言語 デジタル時代のアート、デザイン、映画 (ちくま学芸文庫)
デジタル文化が開花した1990年代における「ニューメディアのオブジェクト」の数々をオプティミズムに満ちたスピード感のある筆致で鮮やかに分析した本書は、2001年の原著刊行からおよそ四半世紀が経つにもかかわらず、デジタルメディア基礎論として今なお再読する価値を失っていない。その意味で、2013年にみすず書房から刊行した拙訳が、この度、ちくま学芸文庫の分厚い一冊として生まれ変わったのは喜ばしいことだ(この機会に、全体にわたって翻訳にも細かく手を入れた)。
ただし、その再読は、本書に何が不足しているのかを絶えず確認する作業と表裏一体であるべきだろう。タイトルからも明らかであるように本書はデジタル文化の「言語」(「美学」と言い換えてもよい)しか扱っていないし、刊行当初から指摘されていたように「映画」のプリズムを重視しすぎているし、デジタル・テクノロジーがもたらす美学的な可能性に大きな期待を寄せる反面、それがもたらす負の社会的インパクトは等閑視している。
こうした徹底的なテクノ・オプティミズムは、本書以降のマノヴィッチの歩みにも一貫している。いや、むしろビッグ・データ分析とそれに基づく視覚化を中心とする「カルチュラル・アナリティクス」のプロジェクトでは、その傾向をますます強めている(その一端は、久保田晃弘・きりとりめでる編『インスタグラムと現代視覚文化──レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』、ビー・エヌ・エヌ新社、2018年で紹介されている)。あらゆるデジタルデータをくまなく分析したいという彼のメガロマニアックな欲望には半ば心を惹かれるところもあるが、デジタル・テクノロジーに対して次第に懐疑的な目を向けるようになってきた時代との乖離が広がっているようにみえるのは否めない。
その点、『ニューメディアの言語』は、デジタル文化の黎明期にみなぎっていた高揚感と筆者のオプティミズムが見事に共振した幸福な書物だったと思う。1990年代の沸騰するニューメディア文化の記録としての価値も持つ本書が、文庫化によってさらに広く読まれることを期待してやまない。
(堀潤之)