単著

本田晃子

革命と住宅 (ゲンロン叢書)

ゲンロン
2023年10月

1917年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦は、「実現した社会主義国家」として、世界の若者や文化人、芸術家の思想や行動様式に大きな影響を与えた。しかし、1930年代には粛清の嵐が吹き荒れ、20世紀後半にソ連はむしろ、独裁的・官僚的な国家とみなされるようになった。こうした反転はなぜ起こってしまったのか? マルクス主義が国家規模の現実化には耐えられなかったのか? それとも高い理想が万古不易の「ロシア性」にからめとられてしまったのか? はたまた、西洋をも包摂する、地球規模の「普遍国家」を希求するあまり、自ら破綻してしまったのか? さらに、ロシアによるウクライナへの侵攻が始まって以来、そこに新たな問いが加わった。冷戦末期から、「ソ連」と「ロシア」の間には、違いよりも連続性が認められるようになった。だとするなら、現在目にしている武力侵攻もまた、ソ連的なものの影響下にあることになるだろう。そうすると、私たちがソ連に歴史的なまなざしを向けるとき、そこに、現状をもたらした原因を探し求めざるを得なくなる。20世紀のロシアを研究するものは今日、多かれ少なかれこうした問いに直面する。かねてよりウクライナにあるチェルノブイリ原発にツアーを行うなど、ロシアの思想や文化に関心を払ってきたゲンロンの冊子で連載され、侵攻後に出版された本書『革命と住宅』も、こうした問いに否応なく巻き込まれている。本書はそうした問いに、建築という点から取り組んだ著作である。

本書の特色は、時代ごとのソ連建築を、理念と現実のダイナミックな交錯の中で描き出そうとした点にある。挙国一致体制を恒常的に維持するため、ソ連では、共産主義の理念を「体現」し、「象徴」する建築が常に求められた。結果として、人々のための住居建築はなかなか進まず、ソ連は恒常的な住居不足に悩まされていた。建築されたものに関しても、イデオロギー的な理念の表現が優先されたために、住民の幸福追求はしばしば二次的なものとなった。本書はこの二つのタイプの建築に着目しつつ、そこに反映された(され損なった)国家的な理念や、そのプロパガンダとしての機能、そしてそれらがもたらした人々の暮らしのリアルなありように迫ろうとしている。

本書ではそれぞれのタイプの変遷が、ソ連時代全般にわたって跡づけられている。まず理念的な次元において取りあげられるのは、革命直後のアヴァンギャルド建築やスターリン時代のモスクワ宮殿などの象徴的な建築である。ブルジョアの住居を接収して転用された「コムナルカ」や、ソ連の理念を、社会的にも芸術的にも実現すべく構想された「ドム・コムーナ」など、より大衆向けの建築にもソ連的な理念は反映されていたが、1920年代から30年代にかけては、特に象徴的な意味合いを強く持った建築が何度か企画された。しかし、興味深いのは、それらの多くが実際には建築されずに終わったことである。ソ連建築の究極の理念形は、その多くが「アンビルト」に終わっていたのである。ソ連のアンビルト建築は著者の一番の専門だが、本書においても、それらの発案から頓挫までのプロセスやプランの内実が、詳細に跡づけられている。

また現実に建てられた建築においても、例えばコムナルカではキッチンや浴室のみならず衣類や給料さえもが共有とされるなど、集団主義という理念が優先され、住民の生活上の便宜はしばしば犠牲になっていた。それ以降の集合住宅においては、個室や私的スペースが徐々に増えていく。しかしその場合であっても、それらは暗黙に密輸入されるか、何らかのエクスキューズが伴うものであった。エリート労働者や高級官僚のために個室をそなえ、古典主義様式やゴシックと折衷されたスターリン建築や、戦後の社会の成長のなかで個室やキッチンをそなえるようになった雪解け期の「フルシチョフカ」、集合住宅同士の多様化や階層化が進んだ「ブレジネフカ」など、実際には個人やプライベート空間は、何らかの形で再導入されていたが、こうした空間はソ連の公的空間の中で、あいまいな領域とならざるを得なかった。このように著者はソ連時代の集合住宅を、妥協や矛盾、さらには不可能性をはらんだものとして浮き彫りにするのである。

では、このようにソ連建築が様々な失敗や妥協を抱えていたとするなら、私たちが20世紀を通じて人々が目にしてきたものは何だったのだろうか? ここで著者は「イメージ」の次元を導入する。ソ連では、リアリズムが標榜されつつも、それは、現在の現実なのではなく、未来の現実であるとされた。つまりそれは来るべき現実を生産するものとされたのである。アンビルトだったソ連建築も、映画の中ではその完成形を露わにする。ソ連的なものは、あたかもこうしたイメージの中にしか存在しないかのようなのだ。このように著者は、ソ連建築を「理念」、「身体(に与える影響)」、「イメージ」という三つのものが交錯する場所として描き出そうとする。

しかしながら、本書は単にソ連建築を失敗や虚像と見なしているのではない。著者はこうしたソ連建築の特徴を「過剰」と「過少」という言葉で表しているが、ここで言われる過剰とは、単にソ連では象徴的な建築物が数多く建てられた、あるいはそこにおける象徴性がしばしば巨大さと同一視されたという数や量の問題のみを意味しているのではない。ソ連建築が目指した理念は、もともと過大なものであった。それはそれ自体でマルクス主義の実現可能性を表現するだけでなく、ソ連型のマルクス主義が西洋のそれより進歩的なものであることをも示す必要があった。さらにそれらは、現実に人々に働きかける、プロパガンダとしての役割を果たさなければならない。しかしこのように多くのものを詰め込めば詰め込むほど、その実現は必然的に困難となっていく。「過剰さ」とはこのような、実現するにはあまりにも巨大すぎた理念のことでもあるのである。さらに、ソ連の建築家(や他ジャンルの芸術家)は、今日から見て不可解とも見える、何かに取り憑かれたような情熱で、そうした不可能性に向けて突進していた。「過剰」とはまた、そうした不可避の破綻へと突き進む、このような力のことでもある。本書がソ連のアンビルト建築や集合住宅を通じて記録しようとしているのは、なによりもそうした力の痕跡なのだ。

そしてここで言われる「過少」もまた、単なる欠落を意味しているのではない。私有財産や個人の観念が認められなかったソ連においては、すべての空間がいわば公共空間である。そのようにあまりにも徹底的にプライベート空間を排除したために、ソ連では逆に野放図な私的空間が水面下に解き放たれることになり、それが冷戦の崩壊や、その後の社会の混乱をもたらしたとされる。しかし、本書が示すように、このような私的空間は、ソ連時代には、硬直したイデオロギーに対する抵抗の基盤としても機能していた。例えば本書では、戦後のフルシチョフカでようやく大衆レベルで実現した個室やキッチンが、所有権は国家に置かれつつも、体制の目を逃れて人々がつながる場所としても機能していたことが指摘されている。本書で引かれるスベトラーナ・ボイムやアレクセイ・ユルチャクなどのロシアの論者も、排除された私的なものから生み出されるもうひとつの公共圏の存在を指摘している。そうした意味では「過少」とは、単なる欠落ではなく、表層的なイデオロギーをこえて「生産」が行われていた、希な瞬間を意味してもいるのだ。

理念の実現に向けた運動は、ほとんど不可避的に失敗し、不可能なプランか、無機質な公共空間に帰結した。しかし、その失敗は、まさにそうした失敗を通じて、全く意図しなかった領域にその外部を生み出していた。本書で言われる「過剰」と「過少」は、単なる論理的な反対概念なのではない。それは、現実に存在した、一つのダイナミックな運動の軌跡であり、社会や、ひいては建築の、(その使用も含めた)形そのものなのだ。

本書を通読すると分かるのは、イデオロギーの機能や芸術と社会の関係、権力の抵抗のありかたが、西洋とは大きく異なっている、いや、むしろ正反対だということだ。例えばボリス・グロイスは、西洋において「ポスト・マルクス主義」とは一つのイデオロギーの終焉を意味するが、ロシアでは一つの国家の消滅を意味すると述べている。そして本書で描き出されているように、西洋マルクス主義やソ連の公的イデオロギーによって否定された私的なものたちは、ロシアでは権力への抵抗の基盤となっていた。このようにロシアでは、同じ概念がまったく違う意味を持ってしまうのだ。こうしたズレの結果、西洋的な視線でロシア社会やその歴史を眼差すこころみは、多くの不可視の領域を必然的に生み出してしまう。西洋的な規範に覆われた現在のグローバルな認識の枠組みの中、そのことはロシアに恒常的なアイデンティティ・クライシスをもたらしている(現在進行中の武力侵攻も、その解消に少なからぬ程度で動機付けられているだろう)。本書が試みているのは、まさにそうした不可視の領域の可視化である。こうした不可視性を解消することは、少しずつではあれ現状を変えていくだろう。その規模や進度に関して本書が楽観的であるわけではない。しかし本書は、ソ連の建築家や住民が、そうしたズレの中で、もがくようにして何かを生み出そうとした、総合的な文化的実践の記録であり、同時に本書そのものも、それらの一部なのである。

(畠山宗明)

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年2月11日 発行