お盆としての学会、あるいは「偉大なテクスト」と出会うことについて
2023年夏に開催された第17回表象文化論学会大会は、さまざまな意味で久しぶりのイヴェントだった。まず、会場となった東京大学駒場キャンパスで最後に大会が開かれたのは2014年なので、実に9年ぶりの駒場開催だった。また、コロナ・ウィルスの流行後、長らくオンライン形式やハイブリッド形式での開催が続いてきたが、今回の大会は、基本的にすべて対面形式で行われただけでなく、懇親会も開くことができた。事前に用意していた300部のパンフレットが無くなるほどの盛況に嬉しい悲鳴を上げつつ、実行委員長として2日間をバタバタと過ごしながら、表象文化論学会もようやく元の日常を取り戻すことができたと実感した。
表象文化論学会に限らず、学会の夏大会は、時期こそ少しずれるものの、総じてお盆の行事に近いように思う。暑いさなか、~家ならぬ~学にゆかりの人々が全国から集まり、毎年恒例の行事に参加する。法要の代わりにシンポジウムやパネルに列席し、読経や法話ならぬ講演や発表を拝聴する一方、お盆祭りの出し物ならぬパフォーマンスを楽しみ、その合間に懐かしい人や初めて会う人と歓談する。今回の大会でとくにお盆が想起されたのは、初日のパフォーマンスと二日目の企画パネルが、2年前に逝去された渡邊守章先生に捧げられていたこともあったかもしれない。パフォーマンスでは、岡本宮之助師匠や岡本宮弥=高橋幸世さんらによる新内節が披露され、翌日のパネルでは、高橋さんをはじめ、小林康夫さん、石田英敬さん、竹内孝宏さんが、思い出話を交えつつ、守章先生の多彩な活動について振り返った。まさにお盆において亡き親族や祖先の霊を供養するように、今回の駒場大会で、表象文化論という学問分野の創設者の一人である渡邊守章先生を大勢の来場者とともに追悼できたことは、表象文化論学会にとって少なからぬ意義があったと思う。
パネルで紹介された守章先生のエピソードや発言はどれも興味深かったが、最後の質疑応答のさいに、田中純さんからの質問のなかで言及された、表象文化論学会設立記念講演で守章先生が述べられたという「偉大なテクストに出会うことの必要性」という言葉がとりわけ印象に残った。守章先生にとっては、クローデル、マラルメ、ラシーヌ、フーコーといった人々の作品・著作が「偉大なテクスト」に相当したのだろう。最晩年の守章先生がマラルメの『骰子一擲』をこつこつと訳していたように、ひとたび出会った「偉大なテクスト」と、研究や翻訳をつうじて、さらには──守章先生の場合は──舞台演出をつうじて、生涯にわたって関わり続けること。それはまさに、テクストというメディアを介した死者との対話であり、継続的な追悼であると言うこともできるかもしれない。さらに、ここでの「偉大なテクスト」は、文字で記されたものにも、世間的な評価が定まったものにも限定されないだろう。音楽であれ、映画であれ、美術であれ、舞台であれ、アニメであれ、マンガであれ、何かの機会に遭遇し、自らの実存を深く揺るがすような衝撃や影響を受けるとき、その対象はすべて「偉大なテクスト」として、生涯にわたってわれわれに作用しつづける。守章先生の言葉は、まさにそのような運命的な「出会い」こそが表象文化論という学問の原点であるべきであり、この体験にいわば落とし前をつけていくことが表象文化論の研究実践にほかならないと主張しているのではないだろうか。
ただし、「偉大なテクスト」に出会うことは、けっして容易くない。今日、インターネットをつうじて膨大な文献や作品にアクセスすることが可能となっているものの、そのような便利な状況は、「偉大なテクストとの出会い」の妨げになっているように思われる。あるテクストが「偉大」なのは、それが受容者の心を大きく揺さぶるからであり、つまりはルーティン化した思考や感性にたいして破壊的に作用するからにほかならない。そして、そのためには、テクストそれ自体が強度をも備えていることもさることながら、それと同時に、われわれ受容者の側も、それまでの自己を武装解除し、他なるものを迎え入れる構えを多少なりとも作っておくことが必要とされる。サブスクで配信された音楽よりもライブ・コンサートで聴いた生演奏のほうが、テレビよりも劇場で鑑賞した舞台のほうがしばしば深い感銘を与えるとすれば、それは、〈いま・ここ〉にパフォーマーがいるという感覚のもたらすアウラや、チケット代に見あうだけの快楽を得たいという欲望だけでなく、非日常的な時間性によるところが大きいだろう。そこで観客は、曲や演目を選ぶことも、好きな時にパフォーマンスを中断することも、別の作業をすることもできないままに、他者が差配する時間をひらすら強制される。そのなかで日常的な意識はいったん括弧に入れられ、舞台から流れてくる音声や他の観客の歓声に知らずと同期していく。おそらく、そのような場において、われわれの感性は、知覚される対象にたいしてより鋭敏に反応するのであり、「出会い」がもたらす衝撃もより大きくなるのではないか。おそらく、今回の大会で披露された浄瑠璃のパフォーマンスの会場にいた多くの人々が、まさに身をもってそれを経験したことだろう。
そのような非日常性は、狭義におけるライブ・パフォーマンスのみならず、お盆の行事を含めたあらゆる儀式に共通するように思われる。そして、表象文化論学会の夏の大会も、いかにささやかであろうとも、何らかの「出会い」の回路となりうるし、そうあるべきだと思う。今後、秋の研究発表集会の代わりに「オンライン研究フォーラム」が開催されることになった。もちろん、地方や国外に住んでいたり、家庭その他の事情で出張が難しかったりする会員も少なくないなか、オンラインで発表をおこなう機会を確保することは重要であり、大いに歓迎されるべきである。ただし、その一方で、夏の大会は、来たるべき「出会い」のためにも、対面開催という形式をぜひ継続してほしい。