パフォーマンス 渡邊守章先生に捧ぐ 「ひらりと飛ぶかと見し夢は···」 ── 新内節の声・間・情 ──
日時:2023年7月8日(土)17:00-18:30
場所:東京大学駒場キャンパス・21KOMCEE East地下K011
<出演>
浄瑠璃 岡本宮之助・岡本宮弥
三味線 鶴賀喜代寿郎
上調子 岡本文之助
聞き手 小林康夫(東京大学名誉教授)
<演目>
◇ 新内流し
◇ 古曲『明烏夢泡雪 雪責め』
◇ 映像・渡邊守章×語り( 2010年「語りの系譜② 樋口一葉作 にごりえ」より
映像協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター)
◇『十三夜』 樋口一葉原作 岡本文弥作品
新内と言えば「流し」だ。国立劇場や歌舞伎座にいけば、伴奏として聴くことのできる常磐津や清元とは違って、劇場を「流れ出た」のが新内である。劇場音楽として流行した他流から押し出されるかたちで座敷浄瑠璃へ、さらには流しへと移行した──というよりもせざるをえなかった──というのが、後述の宮之助師匠の「見立て」だ。ともかくも新内節は、舞踊や歌舞伎とは結びつかずに「素浄瑠璃」として独自の道を歩み、廓を主な「舞台」として、遊里の情景や心中を描いた端物を得意としてきたのである。表象文化論学会がその起源からして「上演=舞台」という形式と分かちがたい関係を有しているとしても、このような歴史的経緯をもつ「新内流し」がやってくるのは、前代未聞のこと。つい先ほどまで建築や空間をめぐる「間」について討議していた大会場は、後方からゆったりと流れてくる三味線の音とともに、いつしか人々がくつろぐ「上演」の場となっている。浄瑠璃の「語り」と三味の「音」が、時空をいともたやすく撹乱させながら、聴衆を未知の「間」へと誘いつつあるのだ。ここは駒場か吉原か。
しかし、なぜ新内なのか。「流し」のあとに、司会の小林康夫氏の口から明かされたのは、出演者のひとりである「岡本宮弥さん」が、実は、表象文化論コースの初代助手・高橋幸世氏その人であるということだ。高橋氏は、ベルギー、カナダを経由して(ベルギーにおけるヤン・ファーブルのもとでの活動については、『表象のディスクール⑥:創造 』に論考「ヤン・ファーブルの実験室」が収録されている)、現在はニューヨークでパフォーマンス・アーティストとして活動しているのだが、ある時期から新内節岡本流に入門し、かつては一時帰国するたびに、コロナ禍ではリモートで稽古を重ね、2019年からは「岡本宮弥」として新内岡本流の藝を継承・研究する活動されてもいる。「高橋幸世」としては、学会2日目の企画パネル「知を上演する──渡邊守章という劇場」にもご登壇された。
高橋氏が新内に出会ったのは、まだ生まれたての表象文化論コースに大学院生として在籍されていた時期であるという。あるとき、晩年の岡本文弥師匠(1895〜1996年)の藝を目の当たりにし、またたく間にその「語り」に魅了されたそうだ。それから長い時間を経て、門を叩くことになったというが、その「ひらり」とした軽やかな身のこなしは、いかにも表象文化論的でもある──などという弁舌はまことに軽率かもしれないが、複数の「場」を横断する(=流す)ばかりか、未接続の領域や活動を創造的に接続し、「上演」にまで関与するという精神の範例を作ったのは、本企画が捧げられた渡邊守章氏にほかならず、パフォーマーが複数の名=身体を生きるということの重要性は、氏の『虚構の身体』(1978年)の中心的主題でもあった。小林康夫氏は、東京・赤坂の生まれである渡邊守章氏の原体験には、「語り物」という本邦の演劇が、ひょっとすると新内節があったかもしれない、とも夢想する。
さてさて、前半に上演された『明烏夢泡雪』(1772年)は、実際に起こった江戸の情死事件を脚色して人気を集めた新内の代表曲で、遊女の浦里(うらざと)と恋人の時次郎の「間」を描く。女の哀しみを語り=謡いあげる新内の曲のなかでも、雪降る中で庭木に縛り付けられ折檻される遊女の痛々しい様子が印象的な作品だ。時次郎が救いに来たと思ったのは一場の夢だった、という結末で語られるのが、「ひらりと飛ぶかと見し夢は···」という一節である。間狂言として、京都芸術大学舞台芸術研究センターにおける「語りの系譜」(樋口一葉作『にごりえ』)における渡邊守章氏の語り(インタビュー)と後藤加代氏の語り(朗読)の映像が差し挟まれたのち、後半に上演された『十三夜』は、樋口一葉の原作テクストを(宮之助師匠の大伯父にあたる)岡本文弥が新内節に翻案、1955年に初演した作品。誰もが知るように、夫の暴力に苦しむお関が、幼なじみの録之助と思いがけず再会する話である。江戸期につくられた『明烏』と比べると、場面も語りも平明で慎ましいが、そのぶんお関の「さびしさ」が染みわたる。
いずれも社会の底で必死に生きる庶民の「情」を描く作品である。このようなテーマ性に関して、小林氏がパフォーマンス後の鼎談において問うと、宮之助師匠は「あわれ」を語るように伝えられてきたのだと返した。1996年に101歳で没した岡本文弥は、築地小劇場を中心としたプロレタリア演劇の旗手たちとも交流を持ち、『西部戦線異状なし』などの反戦的な作品も創作した太夫であったが、その根底には苦しむ人間に対して共感的に同情しつつ、何とかしなければならないと考えるヒューマニズムが横たわっているのだろう。しかしそうは言いながらも、新内の語りは単に苦難をリアルに描こうとしているわけではない。それが集約されているのが、先ほどの「ひらりと···」という一節だ。
いわゆる「夢オチ」というやつだが、ここで宮之助師匠が指摘されたのは、現行曲においては「のちのあわれとなりにけり」というように、語り手が事実としてではなく、あくまで伝聞として、ともすれば噂として、聴衆に出来事を引き渡す構造になっているものが多いという点であった。切々と謡いあげてきた人間的な「情」のリアリティを、一瞬で空無化してしまうような「夢」と「情」の結びつき。その仕掛けられた「無」にこそ、語り=騙りのもつ深い業が宿っているようにも思われてくる。小林氏が、自分の体験ではない出来事を噂のように人から人へ伝えてゆく「語り」の構造が、それ自体として「夢のようなもの」であるのではないかと応答しつつ、「シネマトグラフを見ているかのように、全体を見る視点のなかからつねに語られている」と語ったことが印象的な場面もあった。
鼎談の終了時間も見えてきたころ、話題は「情」を生むための「語り」のテンポへと移っていった。ごく一般的にいって、新内節のなかでも岡本流はテンポが早いが、戦後は今よりもはるかに緩慢なテンポで演じられていたという。宮之助師匠は、能がかつて現在の三倍ほどのスピードで謡われていたというエピソードを引き合いに出しながら、藝と聴衆との「間」において時代に適したテンポがあることを力説されていた。また、テンポは当然、曲の性質によっても違う。たとえば今回の後半で演じられた『十三夜』は、言葉のテンポが早いので「間」を大きくとる必要があるのと比べると、古典では「間」をそれほどとらないそうだ。「歌詞の意味がさほどわからずとも、声や三味線の響きがいいから聴く」という態度は否定しないにせよ、物語のドラマ性を重視する岡本流では、無闇矢鱈に生み字(母音)を引き延ばすような方法論はとらず、あくまでシンプルに、クリアに「語る」ことで、物語の面白さを聴衆に味わってもらうことを心がけている。おそらく、舞踊の間拍子を離れた純度の高い「語りもの」として展開してきたからこそなせる藝の自由なのだろう。
このような展開を受けて、新内節の「情」の中心には、それまで自己の窮状を強く訴えてこなかった女性がみずからの「運命を引き受ける力」があるのではないかと小林氏が語ってみせると、宮之助師匠は文弥の口癖のひとつが「致し方ない」であったことを明かしてくださった。目標や夢にしがみつく「諦めない」ことが称揚される昨今の教育的風潮からは乖離しているかもしれないが、という前置きのもとで、師匠曰く、新内には「捨てることもできる」からこそ「次に進むことができる」という人生訓があるのかもしれないとも仰っていた。というわけで、新内的な「情」が「私たちはどう生きるべきか」という倫理的な主題に少し触れたばかりのところで、夏の夜の学会初日、ひさしぶりの駒場キャンパス開催となったパフォーマンス・イベントは、「ひらりと飛ぶかと見し夢」のごとく、おひらきとなった。
蛇足中の蛇足ではあるが、報告者は宮之助師匠の稽古所のすぐ近所に住んでいたことがあり、あるとき一時帰国中だった幸世さんに誘われて稽古の様子を見せていただいたことがある(谷中にある四畳半二間の稽古場は、「四半々々亭」と称されている)。思いがけない訪問時、わたしが俳人としても活動していることを師匠に告げると、岡本文弥の句集『汗駄句々々』(三月書房、1989年)をくださった。一ページに一句のみのシンプルかつ贅沢な小さな書物だ。お茶目な直筆サインまで入っている。そこからまさしく「ひらりと飛ぶかと見し夢」のごとき一句をもって報告を終えさせていただく勝手をどうかご海容いただきたい。
まぼろしの遊女咳することあわれ 文弥
パフォーマンス概要
AIがコトバすらすら読み上げる、2023年の夏。
ここらでひとつ、われら人間の〈語り〉へと立ち返ってみましょうか。
身を震わせて語るひと。それを聴くひと。息と息。
数字にならぬマの淵に、ひとの「あわれ」が立ちのぼる。
すこぶる人間らしい遊び、〈語り〉の時空へ、ひらりとご案内 ──
当公演では新内節演奏家の岡本宮之助師をゲストにお迎えし、新内節の実演とトークを通して、古より情の共同体を支えてきた〈語りもの〉の魅力に迫り、その現在と未来を展望します。
新内節は、扇情的とも評された京都発祥の豊後節の流れを汲み、江戸中期に鶴賀若狭掾とその美音の門弟・鶴賀新内によって確立された江戸浄瑠璃の一派です。早くから劇場を離れて素浄瑠璃として発展し、また、遊里を舞台とした「流し」と呼ばれる路上パフォーマンスで人気を博しました。三味線と不即不離の柔軟な間拍子と情感溢れる節回しで人情の機微を細やかに語る芸風は、庶民に愛され続けています。
尚、当公演は言葉の身体性を追い続けた研究者/演出家 渡邊守章先生へ捧げるイベントです。