機械的な身体の誤認逮捕──新聞コミックス「ハッピー・フーリガン」における移民表象/鶴田裕貴(東京大学大学院)
本発表では、フレデリック・オッパーが1900年から1932年まで新聞上で連載したコミックス「ハッピー・フーリガン」を取り上げる。
オッパーは1880年代から90年代にかけては『パック』などのユーモア週刊誌で活躍したアーティストであったが、1899年に活動の場を新聞に移してからはコマ割りマンガの連載を多数持つこととなった。アイルランド移民労働者の男を描いた「ハッピー・フーリガン」はその中でも代表的な作品である。アーティストの雑誌での仕事に移民の揶揄的なカリカチュアが多いことから、先行研究においてはこの作品も同様の文脈から論じられてきた。実際、連載開始後1年間ほどのあいだ、主人公は類型的な移民像を超えない存在だった。しかし連載が続くなかで、主人公の行動はアイデンティティから解離していき、感電して身体が勝手に暴れまわるといったように機械的な運動を繰り返す存在へと変化していく。同時に、周囲の人々が彼の運動を偏見に基づいて解釈する様子をも描くようになる。E.M.フォースターや大塚英志らは類型的なキャラクターを変化の可能性を欠いたものとして論じているが、「ハッピー・フーリガン」はむしろ移民の類型的理解に基づくパターンを徹底することで人種的偏見を内破させている。こうした作品の変化について、雑誌ではほとんど見られなかった連載コミックスというシステムとの関係性から明らかにするのが本発表の狙いである。
動きすぎるロボット、動かないロボット──1930年代の日本マンガにおける生物型機械のイメージ/陰山涼(東京大学大学院)
本発表では、阪本牙城「タンク・タンクロー」(1934-1936)から大城のぼる『愉快な鐵工所』(1941)にいたる日本のマンガ作品における生物型ロボットのイメージを検討する。
1930年代の日本マンガには、人型あるいは動物型の機械が多数登場している。田河水泡「人造人間」(1929-31)を嚆矢とするロボットキャラクターたちは、その多くが子供向けであった当時のマンガにおいて、新奇な科学技術的イメージと親しみやすい生物的イメージを併せ持つ存在として描かれた。そこでは、しばしば生物の姿と機械のエネルギーを組み合わせることで、荒唐無稽なキャラクター表現が実現された。一方、1930年代から40年代にかけての戦争の経過とともに、マンガに登場する機械が兵器/科学的な存在として描かれる傾向も強まっていく。とりわけ、当時の出版物の検閲を担当していた内務省警保局図書課によって1938年に通達された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」のなかで、マンガを含む子供向け読物における正しい科学的知識の啓発が推奨されたこととの関係が指摘されてきた。
以上のような経過のなか、科学兵器といった現実的な機械としてのロボットと、生物の姿を与えられた空想的な存在としてのキャラクターとの間で、いかに人間/動物型機械が描かれてきたのか。具体的なマンガ作品のイメージ分析を通して、生物と機械の間を揺れ動くロボットキャラクターたちのあり方を明らかにすることを目指す。
鋼鉄の「生命体」──デーブリーン『山と海と巨人』における機械の生命的描写について/相馬尚之(東京大学大学院)
本発表では、ユダヤ系ドイツ人作家・精神科医アルフレート・デーブリーンの未来小説『山と海と巨人』(Berge Meere und Giganten, 1924)における、機械の「生命的」描写について考察する。
列挙法や接続詞の省略を多用する特徴的な描写法を用いつつ、20世紀から27世紀におよぶ文明の興亡および自然の力を壮大なスケールで描き出すこの叙事詩のおよそ最初の3分の1では、工業化にともなう社会の混乱が中心的主題となる。科学技術は支配者層にとって権力の源泉であるのみならず、大衆にとって過激な崇拝と嫌悪の両義的対象であり、そのため25世紀には一種の「ラッダイト運動」が展開され、人々は機械への屈折した憎悪と陶酔的恋慕のために、自ら産業機械の上に身を投げる。このとき機械は、主に身体的比喩によって「鋼鉄の生命体」であるかのように描かれ、機械の「擬生命化」のために人々の自殺は、タナトス的欲動に満ちた無機物への回帰というよりは、荒れ狂う「生命性」に満ちた機械との暴力的闘争ないし交接となる。機械が人を喰うディストピアにおいて人間と機械の一体化は、続く科学者メキによる人体実験および物量戦としての「ウラル戦争」においても、ヒトの事物化のみならず、機械自体が生物のように蠢くことで達成される。『山と海と巨人』における技術の「生物的」描写を検討することで、人間と機械という単純化された二元論を乗り越えるデーブリーンの技術・自然観の一端が明らかとなるだろう。