SSA 緊急事態下の建築ユートピア
印牧岳彦の著作『SSA 緊急事態下の建築ユートピア』は、著者自身が、本著について、「ひとことでまとめるのは難しい」*1と言及しているように、二段組の三百八十四ページに渡るこの大著を、ひとつのレジュメとしてまとめるには、多くの困難とためらいが伴う。
*1 https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/A_00221.html(印牧 岳彦「書籍名SSA 緊急事態下の建築ユートピア」UTokyo Biblio Plaza二〇二三年八月二十日閲覧)
ここでは、精緻な資料分析のもと、ありえたかもしれない建築的可能性をフィクショナルな理論として提示する「アンビルド」研究者である氏の観点を踏襲しながら、二重にフィクションを重ねることになるだろう。建築史家としての謙虚さのうえで、史的実証性を確保しながら著者が紡いだフィクションの可能性を、どちらかといえば理論的に従来的な建築史からはみ出しがちな評者がふたたび別のフィクションを重ね合わせることで、応答してみたいという試みである*2。
当該書は、博士論文「両大戦間期アメリカ合衆国における建築の前衛:構造研究会(SSA)の建築思想とその展開に関する研究」(東京大学、二〇二一年)をもとにしている。本著の主題をなすSSA(Structural Study Associates 構造研究会)は、序章で著者自身が触れているように、全体のメンバーシップならびに雑誌記事執筆以外の具体的な活動などはほとんど不明なままの、「見えない団体」である。この団体は、メンバーであった建築家・思想家バックミンスター・フラーの前半生を取り扱う文献のうちに、わずかにその名が知られるばかりであり、先行研究もわずかにしか存在しない。国際構成主義*3に関わったフレデリック・キースラー、クヌート・レンベルグ=ホルムといった人物が、雑誌『シェルター』のパトロンとなったフラーのもとに集まったと説明される程度である。そもそも、SSAメンバーが中心となって寄稿した『シェルター』誌は、一九三二年五月号(第四号)と十一月号(第五号)の二号分しかない。筆者は、メンバーらならびに周辺人物の関連著述を網羅的に調査したうえで、誌上で交わされた論争を中心に、思想的な対立関係を開示することで、「見えない団体」の理論と提案を浮かび上がらせる。
*3 CIAM左派の建築家たちは、ロシアの建築家・デザイナーであるエル・リシツキーとともに国際構成主義と呼ばれるモダニズム建築の一派をなした。エルンスト・マイやマルト・スタム、ハンス・シュミットらの「ABCグループ」に代表される、一九三〇年にマイ、シュミット、スタムらはソ連での都市計画を行うために移住する。以下も参照;シーマ・インバーグマン『ABC:国際構成主義の建築 1922-1939』宮島照久・大島哲蔵訳、大龍堂書店、2000年。
著者は、二つのモチベーションから、この「見えない団体」を対象としている。ひとつは、建築史家としての視点から「アメリカのモダニズム建築=インターナショナルスタイル」という従来的な等式を覆すこと、もう一つは、理論家としての視点から、単なる建築分野にとどまらない、同時代的に発生した状況から、具体的な改革思想の相貌を詳らかにすることである。「産業共産主義(インダストリアル・コミュニズム)」と呼ばれる独自の思想を展開し、環境建築・空き家活用・被雇用者としての建築家組合・移動住宅といった様々な提案を行った同団体の視座は、「あり得たかもしれないもう一つのモダニズム建築」というオルタナティヴを掬い出す。現代を生きる我々にも大きなヒントを与えてくれるだろう。
1.アメリカ、一九三二年
建築史的な記述として、本著の基点をなすのが、一九三二年のアメリカである。一章と三章で詳述されるように、一九三二年のニューヨーク近代美術館(MoMA)における「近代建築:国際展」が、「モダニズム建築(様式美学的なインターナショナル・スタイル)」を定義づけた事象とされる。一九二九年の世界恐慌以降、大統領フランクリン・ルーズベルトの指揮下における「ニューディール政策」がなされた一九三〇年代は、アメリカ史のなかでも例外的に「赤い一〇年」と呼ばれる時期である。ニューディール政策に寄り添うかたちで、RPAA(アメリカ地域計画協会)に所属するルイス・マンフォードやヘンリー・ライトなど「コミュニティ」を重視した建築家群が、ハウジング計画を主導した(RPAAの建築家も一部「近代建築」展に出展している)。
また、第四章などで触れられる「ソヴィエト宮殿設計競技」(一九三一年夏告知、一九三二年に結果発表)もまた、この時期に位置している。この有名な設計競技では、ル・コルビュジエなどのモダニズム建築家たちの案が一斉に落選し、ボリス・イオファンらの同時代のアメリカのスカイスクレイパーにも似たモニュメンタルな高層案が勝利する。ソヴィエト建築が、モダニズム(構成主義)のメッカからスターリニズム様式へと舵を切ることになった重要なモメントである。
こうした建築史の「表舞台」に比べて、本著で取り上げられるSSAは、一九三二年における「裏番組」と言っていいだろう。
本著で主張されるSSAの建築論の特徴は、いわゆる資本主義とも共産主義のあいだにある、第三の道「産業共産主義」である。第四章から第五章にかけては、SSAが『シェルター』誌第四・五号で表明した思想が扱われる。特に『シェルター』第四号については、SSAなる所属名が冠された八名の執筆者が結集し、本著のメンバーシップの大きな論拠となっている(本文一六二ページ)。
ここからは、短い活動期間ながらも、SSAが提起したラジカルな思想群が直接的に取り上げられる第四章以降をみてゆこう。第四章では、SSAのメンバーであるレンベルグ=ホルムの論文「記念碑と道具」(一九三二年五月、『シェルター』誌第四号に掲載)は、ソヴィエト宮殿設計競技の結果を承けて、アメリカの摩天楼へと逆行しようとする、ソヴィエト建築の動向に疑義が示される。
国際構成主義にも参加したレンベルグ=ホルムにとって、スターリニズム様式は、美学への回帰にほかならない。CIAM(近代建築国際会議)左派の建築家との近接性をもった、徹底した実用主義といえるだろう。レンベルグ=ホルムは、実用的な「道具」としての建築を支持する立場から、「記念碑」としての摩天楼を批判する。もちろん、「実用主義」による批判の矛先は、「美学(様式論)」として、MoMAがキュレーションした「インターナショナル・スタイル」へも向けられるものだ。レンベルグ=ホルムの観点は、機能主義というより実用主義、徹底した“用”への視点である。いわゆる様式(美学)としての建築表象を否定し、即物的な(唯物論的)な価値として、“テイラー主義的建築家”のアルバート・カーンの工場建築を称賛するにさえ至っている。
こうした建築における徹底的な実用主義は、マルクス主義批評家・美学者のマイヤー・シャピロによる批判をも蒙ることになる。シャピロは、SSAの技術的楽観主義を問題視し、「産業化」を促進させることで事実上の社会改革をもたらすというSSAの立場は、事実上資本主義を延命させるものでしかないと批判した。その社会条件を変える立場となること、建築家が階級闘争へ参画することの重要性を主張する。こうした実用主義とマルクス主義を対照させる観点は、著者自身が、「左派加速主義」との近接性に言及しているように、現段階で起こっている技術的進歩を加速させ、なおかつ既存の支配階級に対抗する手段とする観点は、本著のSSA思想の軸をなしている。
2. 摩天楼を開放すること
とりわけ、SSAのメンバーで、著者の史学的・思想的に重要な参照項をなしている人物が、主に五章で取り上げられるサイモン・ブライネスである。本著では、一章で触れられる「紙上建築」論争においてレンダリング工の立場から建築理論を展開し、一躍注目を浴びたこの建築家は、本著の影の主役とも呼べる人物である。
SSAによる興味深い提案として、著者は「SSA緊急シェルター計画」を取り上げる。SSAは、大恐慌による目下の住宅問題に対し、空室化した摩天楼を困窮者のための住居へと転用するという解決策を提示し、「スペース・ホテル運動(空室化した建物のシェルターへの転用活動)」を標榜した。
ブライネスは、シェルター誌四号で「エンパイア・ステート・アパートメント」なる計画を発表した。「力と争うな、それらを活用せよ」という方針を示しながら、現在でいうスクウォッテング(空き家占拠)の場を積極的に提供するというラジカルな試みである。こうした「スペース・ホテル運動」は、計画ながらも反響を呼び起こしたようで、他の媒体でも取り上げられることになる。つづく『シェルター』誌五号では、建築家ラルフ・レフが、リンカーン・ビルディングを住居に転用する計画を発表し、ブライネスの思想に共鳴しながら、以下のように主張した。
『文明には、三つの基本的な必要物が存在する、すなわち、労働、食料、シェルター!これらと争うことは混沌のもとである(力と決して争うな、それらを活用せよ)。それらを相関関係させた結果が〈スペース・ホテル〉である。』(本文二一三頁)
いわば、資本主義の象徴たる摩天楼=記念碑」を「道具」へと転換することで、ラジカルに都市を開放する、産業共産主義の思想が示される。SSAの将来構想には、このスペース・ホテル運動の進展に伴い、人口が摩天楼に集中した結果、密集した低層のビル群(スラム化)は取り壊され、公園になるという展望が示されていた。いわば、産業化の進展による都市の流動化・解体の一過程、資本主義のなかで、資本主義に対抗するひとつのあり方である。著者の言葉を借りれば、「緊急事態(エマージェンス)」から「発生(エマージェンス)」へと、問題系をシフトさせていったのである。SSAは、都市の中にある社会状況における技術的な発生に着目したのである。危機の時代における思想的観点を提示したとみることができるだろう。
3. 産業共産主義者のユートピア
六章では、ブライネスの思想が、“労働者としての建築家”という運動家としての立場をもとに踏査される。SSAとしての意見表明以降、一九三四年に結成された建築家を中心とした労働組合「建築家・エンジニア・化学者・技術者連盟(FAECT)」のメンバーとして活動したブライネスは、「シドニー・ヒル」なる変名をもちいながら、資本主義国家の廃止を謳い上げる。この二人は、従来の先行研究では別人物として扱われてきたところ、ブライネス名義の論文とヒル名義の論文の内容に重複がみられ、さらには設計競技の入賞によるソヴィエト滞在などの経歴に多くの共通点が見いだせ、著者は同一人物として特定している(本文二七三―二七四頁、註釈53)。
ニューディール政策の一貫で、ときのルーズベルト政権に寄り添っていたRPAAのハウジング計画を批判したブライネスは、ヒル名義で発表された論考で、本名で名義では示唆するにとどまっていた「労働者国家」の樹立の必要性を宣言する。ブライネス=ヒルは、一九三五年に英訳されたばかりのエンゲルス『住宅問題』の問題系を、当時のアメリカの状況と重ねあわせる。労働組合運動による日常的な闘争の結果として、漸進的に資本主義を廃止する必要があると。ブライネスのラジカルな思想は、他のSSAのメンバーから否定される。たとえば、メンバーの一人ヘンリー・チャーチルは、ヒルによる『住宅問題』のアメリカの現状における適用を評価しつつも、議論が住宅建築の問題を超え出ているという批判がなされた。
ブライネス(ヒル)の政治的立場は、先行してSSAを批判したマイヤー・シャピロ(彼もまた、「ジョン・クウェイト」なる変名を用いて左派系の雑誌に投稿していた)との関連性もうかがえる。その意味で、ブライネスは、労働組合が制限された国家のなかで、国家に対抗的な立場をとる、至高なる人物として描き出される。
4. 私有地なきコミューンをめざして
「産業共産主義」の可能性を、具体的な建築的提案としてプロジェクト化した人物として、六章では、一九三〇年代後半に復刊した『シェルター』誌に寄稿していたエンジニア・住宅研究者のコーウィン・ウィルソンに焦点が当てられる。ウィルソンは、SSAのメンバーに参加したかどうかは定かではないものの、彼らを意見交換をし、思想を共有していたと推測される。
一九三〇年代半ばごろからアメリカ中に出現したトレーラーハウスを、ウィルソンは、土地所有の否定を可能性をもつ装置として肯定的に解釈する。住宅問題に対する大衆の自発的な反応として、トレーラーの住居への転用が活発化していた。この現状を承けて、ウィルソンの思想は、物語風にプロバード教授という架空の語り手を通して、「トレーラータウン」という、土地所有を否定した車上住居者によるコミューンの形成についての言説がフィクショナルに表明される。
『都市は武装された野営地となり、それらが急速に大きくなり膨大な人口となるにつれ、そのなかの平民たちは、外へと追い出されてだんだんと農奴の正確を帯びるようになった。[…]二〇〇〇年ものあいだ、人類の友愛は単に感傷的に説かれるのみであった。ついにそれが理解され、あらゆる国におけるもっとも賢く勇敢な人々が、視野を拡大しその仲間の多くを引き上げるという厳しい闘いにおいて、効果的に協働しはじめたのだ。合衆国においてもっぱら都市文化となってきたものの優勢から逃れて、この傾向を加速するためには、自動車が必要だった。三五〇〇万台の自動車が、小さな生産的コミュニティという古代の理想への大規模な回帰を可能としている』(本文二九三―二九四頁)
ウィルソンのトレーラーハウスについての言説は、ブライネスの労働運動的な方策と対称をなすものである。経済戦線において組合運動から資本主義社会を乗り越えようとしたブライネスに対し、技術戦線において社会的・産業的統合を促進するトレーラーハウスに可能性を賭けたウィルソンという対比である。移動可能なシェルターは、固定されたシェルターの作る土地所有やコミュニティといった住宅建築の前提を覆し、新たなユートピアをめざすのだ。
5. あるシェルターの可能性:環境制御
ところで、「シェルター」という言葉に、一九六〇年代に日本で活動したメタボリズムグループによる一連の「カプセル建築」が思い起こされるかもしれない。メタボリズムのメンバーであった黒川紀章は、「中銀カプセルタワービル」(一九七二)と同じ年に、「レジャーカプセル(中銀宇佐美カプセルヴィレッジ)」という、カプセルトレーラーハウスからなる斜面状住宅を提案している。
黒川の提案の場合、斜面地を開発してプラグインするための骨組み(コア)をつくり、そこにカプセルカーが移動するという提案である。これは土地の所有を否定しなかったばかりか、移動先をも制限するものであり、一種のゲーテッドコミュニティを前提としている点で、ウィルソン(プロバート教授)の「トレーラータウン」とは異なるものである。既存の土地のシステムによって分割されたプログラムであり、「中銀カプセルタワービル」もまた、結果的には保存運動も虚しく解体されてしまった。
メタボリズムのカプセルは、国家、ましてや資本主義を否定することはなかったという点で、SSAのシェルターと好対照をなす。実際、メタボリズムのメンバーの「シェルター(カプセル)」の場合、(個人)所有の観点が強く見られる。先行する菊竹清訓の「塔状都市」(一九六三)は、円筒型の塔の回りに、住居ムーブネット(カプセル)が張り付く固定化されたシェルターであり、土地を増殖するための装置であった*4。
*4 地主の息子として生まれた菊竹の場合、公共性の志向とは、大土地所有としての貴族的責任して表明される。ある種の従来的な封建社会の維持であり、モニュメンタルな「塔」を共有するという一種の様式的観点からなされるものであった。八束はじめによると、菊竹清訓「晴海高層アパート」(一九五八、前川國男事務所、大高正人が担当)における「土地不足のため埋め立てておきながら、既存の都市部の建物を高層化しないのは不条理である」というメッセージが転機になったという; 八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』、オーム社、2011年、p.144。
自律した技術としてみればメタボリズムのカプセルは、それ自体ラジカルな社会変革の可能性をもちえたのかもしれないが、高度経済成長の中で、ユートピアというよりは、現実のトポスに身を寄せることを志向した。
さて、技術戦線において「カプセル=シェルター」が、一定の実現と勝利を収めた場合、経済ないし、文化として、いかなる寄与をもたらすのだろうか?それは、自律した技術として、国家と資本主義に資する危険な装置となりうる恐れがあるのではないか?
この問いは、技術的楽観主義についてのSSA自身の自己批判へと結びつく。八章で明かされるのは、SSAのメンバーであったレンベルグ=ホルムとセオドア・ラーソンによる技術中心主義の見直しが扱われる。政治的な技術的楽観主義は、同時代に台頭したナチス・ドイツと同内容の帰結しかもたらさないという未来を、SSAのメンバーは察知していた。レンベルグ=ホルムの引用とともに、本文に立ち戻ってみよう。
『建築デザインのイデオロギー的重要性と、政治的プロパガンダとしての価値は、その職能をゲッベルスによる‘指導(Fuehrung)’のもとに置くことを通して認識されている。階級闘争と階級搾取にまつわる厳しい現実は、純朴な人々を欺くような装飾を施されたイデオロギー的飾り窓を必要とする。[…]国家政党によって制御・調整された建築雑誌は、建築家たちにむけてナチスの‘哲学’を講釈する』
党によって喧伝される「イデオロギー」によって「階級闘争と階級搾取にまつわる厳しい現実」が覆い隠され、これによって建築家たちは破壊的な目標に向けて動員されてゆく。レンベルク=ホルムの考えでは、ドイツで起きていたのはまさにこうした事態であり、「技術的問題」と「政治的問題」の否定的な結びつきを示すものにほかならなかった(本文三二五頁)
資本主義の最終段階における、権力の維持としてのファシズムに対しては、もう一度政治的に対抗する必要があると述べられる。ここには、SSAの思想におけるマルクス主義への立ち戻りをみてとることができる。技術的問題と政治的問題の不可避な結びつきのために、その前提条件をなす社会体制を変革する必要性が提示される。
SSAの「環境制御」概念は、まさにこのような状況から導出されるものであった。「環境制御」とは、もちろん、技術的観点から、生産手段と生産過程を制御することでもある。一方で。単に人間の生命力を補強するだけの技術にとどまらず、経済/文化的な力、とくに、唯物論的な環境を制御する指針として説明される。レンベルグ=ホルムとラーソンの主張を著者が解釈するところによれば、「所有権の主張」と「“生産の制御”」の二つによる利益の創出を前提としたうえで、後者が支配的になるような状況をもたらす必要があるという。所有権の主張を制限することで、環境的な力の流れを効率化することと解釈できる。
SSAによる「環境制御」の概念は、印牧氏がかねてより重点的に扱っていたフレデリック・キースラーの一九三〇年代の建築思想との近接性が予感され、今後の氏の研究において、更に深められると予想される。
僭越ながら、本書評を終えるに当たり、評者が「環境制御」概念を断片的に解釈するなら以下のようになるだろう。「環境制御」は、技術的な側面としてエネルギーを、文化的な側面へと供給する「貧しき使用」と解釈する。それは、既存の所有権の主張を保持することを優位においたうえで、生産を制御すること、人間的活動と物質の双方にわたる相互作用(コルリレーション)を「生産的な使用へと向けた流れのパターン」へと組織化すること、そして環境的な新陳代謝における浪費を除去すし、余ったエネルギーを社会的富の共有/分有へと向けること、ともいえるだろう。
私有財産を主張するエネルギーを最小化し、別の使用へと転換することは、人とモノがつくりだすアクターネットワーク(環境)を幾何学化することでもある。たとえば、不要なインターネット接続による過剰なネットワークを解除し、質の高い情報をもった書籍へ集中すること。これもまた、合理的な幾何学的価値をもったネットワークとして必要なノードを可視化(把握可能化)することで、必要なる知を分有する“環境制御”とみなせるだろう。これから、シェルターは、中世における「環境制御」、修道院的な生のパルタージュへとも展開されるのかもしれない。
一九二〇年代から一九三〇年代にかけての、アメリカを舞台にした「もう一つの近代建築史」は、二〇二〇年代という新たな危機の時代において、新たな可能性へとむけられている。SSAが立ち向かった技術と政治のはざまであり続ける建築=環境の可能性は、技術と政治のはざまにある建築の撞着的なあり方を問いなおすものなのだ。
(片桐悠自)