プレテクスト:「東京現音計画#18|クリティックズ・セレクション2:中井悠|ZOOMUSIC」思い出話
日時:2022年12月19日 19:00 (日本時間)
会場:オンライン+杉並公会堂小ホール(東京都杉並区上荻1-23-15)
演奏者その他:大石将紀(サクソフォン、ピアノ、リアルタイム作曲)、橋本晋哉(チューバ、リアルタイム作曲)、黒田亜樹(ピアノ)、神田佳子(パーカッション、リアルタイム作曲)、有馬純寿(エレクトロニクス、リアルタイム作曲)、中井已未(司会、ピアノ)、福永綾子(司会)、中井悠(司会、カメラ奏者)、上林慈旺(カメラ奏者、ピアノ)、有吉玲(カメラ奏者)、髙草木倫太郎(カメラ奏者)、荒野愛子(楽譜奏者)、大野叶翔(ピアノ)、瀧野乃花(ピアノ)
監督:中井悠
協力:東京大学芸術創造連携研究機構、東京大学副産物ラボ(S.E.L.O.U.T.)、帝塚山学院大学、有限会社ハリーケン、モモ・カンパニー
助成:公益財団法人野村財団、芸術文化振興基金助成事業
1|授業
2020年の春先、コロナ禍に世界が巻き込まれるなか、新学期の授業がすべてオンライン化することになった。そのころ勤めていた京都市立芸術大学では音楽学部に所属していたから、バイオリンやピアノや打楽器や声楽などを教える同僚たちは、Zoomで開催されるようになったミーティングで顔を合わせるたびに、音楽をオンラインで教えたり、演奏したりすることがどれだけ難しく、はっきり言って不可能であるかを雄弁に捲し立て、口々に嘆いた。その様子を見ながら気の毒に思いつつも、ふと自分が同じような心配をまったく感じていないことのは一体なぜなのかが気になった。
それはもちろん音楽に対するある種の鈍感さの表れにすぎないとしてやりすごすこともできた。でもそうする代わりに、この余裕綽々な気分は、自分が教えるように言われているのが「実験音楽」であることに結びついていると考えたほうがいいような気がしてきた。「実験音楽」がそもそも音楽が何であるかという規範(norm)を意図的にであれ結果的にであれ様々な仕方で問い直す(ことで音楽が何でありうるのかを示す)多様な営みにとりあえず付けられた総称だとすれば、それを確固たるジャンルとみなした上でその歴史やら理論やらを真面目にお勉強させることほど実験音楽の精神に反することもない。だから大学から言いつけられたものの、授業をするのが馬鹿馬鹿しくなっていたところだった。でも「実験音楽」の名の下に繰り広げられてきた数々の歴史的な蛮行にしっかりと想いを馳せるのであれば、この度の非常事態も正常(normal)時にはできなかったり、しなかったりすることを可能にする機会と捉えることができそうだった。つまり授業のオンライン化という、状況に強いられた変化は、実験音楽の授業はともかく実践にとってはそんなに悪くない話である。なにしろ、みんな嫌でも実験することを強いられるのだ。
だから実験してみることにした。まずはこの非常事態における音楽の規範はどこにあるのだろうか考えてみた。同僚の嘆きが(内容としても事実としても)明かしていたように、コロナ禍の日常において急速に前景化したある特定のテクノロジーがあった。それはアメリカのサンホゼに本拠地を置くZoom Video Communicationsが開発したZoomというオンラインヴィデオ通信プログラムで、音楽の演奏をめぐる会議から音楽の演奏にいたるまでオフラインの世界で可能だった多くの活動を、オンラインでもそれなりの納得感でシミュレート可能にする仕掛けとして、ウイルスの蔓延を追いかけるようにして世界中に瞬く間に広まっていった。もちろんそのシミュレーションの程度に納得しない人もいて、だから気の毒な同僚たちは不平不満を爆発させていたわけである。でもどれだけ文句を連ねても、とりあえずZoomが一番ましな選択であるという共通理解が急速に成立しはじめていた。じっさい「実験音楽」の授業もZoomを使って行なうことになっていた。
オフラインの現実との齟齬が解消できない問題として立ちはだかるのであれば、問題自体をまるごとひっくり返せばいいと思った。つまりZoomを、他の楽器がこれまで奏でてきた音楽をシミュレートする技術ではなく、それ自体として固有の「楽器」とみなしてみるのだ。すると、その楽器のために構想され、その楽器でしか演奏と視聴ができない音楽がありうる気がしてきた。だからそのような音楽に対する総称として《ZOOMUSIC》という(架空の)ジャンルがあると仮定した上で、それを実践的に教える授業をすることにした。Zoom上に集まった学生たちとZoomの様々な機能を駆使しながらZoomという楽器の振る舞いを探ることで、《ZOOMUSIC》が一体どのようなジャンルでありうるか、その枠内ではどのようなパフォーマンスが構想可能で、どのような方法論や理論が展開可能であるかを考え、実験を通じてじっさいに生み出していくのである。ちょうど「楽器」という概念を様々に拡張することで誰も聞いたことがないような音楽を作り続けたデーヴィッド・チュードアという実験音楽家に関する英語のすごく分厚い研究書をその一年ほど前に書き終えたばかりだった*1。
*1 You Nakai, Reminded by the Instruments: David Tudor’s Music (New York, NY: Oxford University Press), 2021. http://remindedbytheinstruments.info/
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それから三ヶ月半に渡って30人を超える学生たちと実験を繰り広げるなかで、《ZOOMUSIC》というジャンルの特性が浮かび上がってきた。とりわけ強く前景化したのは、楽器としてのZoomにおける不確定性の尋常ならざる高さである。なにしろそれぞれの観客がどのような場所で、どのような通信状況下で、どのようなデバイスを用いて、どのようなヴュー*2で誰と視聴しているのかをあらかじめ確定する術が全くない。つまり「同じ」曲を演奏しても、観客がそれぞれ異なるものを見たり聞いたりしてしまうという、ジョン・ケージが『4分33秒』で知らしめた原理が物理的に実装されているような楽器なのだ。だがZoomの不確定性は音楽の聞こえ方や見え方の問題に止まらなかった。たとえば「ヴァーチャル背景」を多用すると、いま見えている映像が生中継なのか録画なのか判別がつかなくなってくるし、一人が複数アカウントを利用したりすると、演奏者が何人いるかもわからなくなってくる。映像と音との同期を覚束なくさせることはもちろん、(ウェビナー形式にしないかぎり)入室した参加者全員が同一スクリーンに表示されるため、観客と演奏者の区分すらも簡単にあやふやになってしまう*3。Zoomを楽器と見なすことは、こうした過剰な不確定性を受け入れることであり、そのうまい使い道を考えることだった。そしてそのためにはこれまでの楽器では可能だったいろんなことを頭から追いやり、これまでの楽器が可能にしていたいろんな規範や概念(「正確さ」であれ「同一性」であれ)を考え直すことが求められた。つまりどのような嗜好を持つのであれ、《ZOOMUSIC》に携われば、音楽がなんであるかを問い直し、実験することを余儀なくされるのだ。だから、この架空のジャンルをプレテクスト(方便)として使うことで、授業であっても実験音楽を実践することができるように思われた。
*2 当時のZoomには、発言者を大きく表示する「スピーカーヴュー」と、参加者全員をグリッド状に配置する「ギャラリーヴュー」の二択があった。
*3 座談会「オンライン演劇は可能か:実践と理論から考えてみる」(『表象』(15)、表象文化論学会、2021年、21-50頁)で司会の横山義志さんが呈示されたオンライン演劇のクリアな分類の叩き台──(1)場所の切断+時間の切断、(2)場所の切断+時間の共有、(3)場所の切断+時間の共有+非場所的接続(双方向性)──において、まずは(A)時間が共有されているかどうか、次に(B)時間が共有されている場合には観客と舞台との双方向性があるかどうか、が区分の軸に据えられていた。この図式に照らし合わせると、《ZOOMUSIC》における「ライブ/録画」の不確定性は(A)を、「演奏者/観客」の不確定性は(B)をそれぞれないがしろにするように思われる。またじっさいの制作において、前者の不確定性の度合いを人為的に高めることも(たとえば「ヴァーチャル背景」を使っている状態自体を録画して、それを再度「ヴァーチャル背景」にすれば)、後者の不確定性の度合いを人為的に高めることもできる(たとえば入室する観客の名前をホスト側で勝手に変更すれば)。YouTubeなど別の媒体であれば、不確定性の度合いはそれほど強くなく、不確定性の度合いの操作可能性もそれほど高くない。つまりプログラム=楽器ごとの特殊性を点検するには、「配信(オンライン)/生(オフライン)」よりも細かい解像度の読解格子を据える必要がある。
2|レジデンシー
《ZOOMUSIC》の授業をはじめた2020年の暮れから翌年の初頭にかけて、たまたま二つの異なる誘いが立て続けに舞い込んできた。一つは現代音楽アンサンブルである東京現音計画から「クリティックズ・セレクション」というコンサート・シリーズのゲスト・ディレクター(プログラム監修)をやってくれないかという依頼で、もう一つはヴァージニア大学の作曲コースが毎年開催しているアンサンブル・レジデンシーに来てくれないかという招待だった。前者はアンサンブルから批評家としての中井悠に、後者は作曲家から中井のアンサンブルであるNo Collectiveに宛てられているという興味深い非対称性があったが、いずれもオンラインで実施されるという共通項もあった。東京現音計画のマネージメントをしている福永綾子さんによれば、2021年末に予定されていたコンサートは無観客でネット配信される予定だったし、ヴァージニア側の担当者である知り合いの作曲家ダニエル・フィッシュキンが、プロジェクトごとにメンバーもアプローチも表向きのジャンルも変わるため何をしでかすかわからないNo Collective*4にあえて声をかけたのは「ヴァーチャル・レジデンシー」という初の試みに冒険心を膨らませてのことだった。だから双方に対して、《ZOOMUSIC》をテーマにするのであれば引き受けたいと返事した。
*4 No Collectiveのこれまでの活動に関しては以下のリンクを参照されたい:http://nocollective.com
東京の方は話がそれですんなり通った。でもヴァージニアの方では一悶着あった。依頼が決まった後で、No Collectiveというアンサンブルの楽器編成を問い合わせてきたメールに「楽器はZoomだ」と返したら、七人ほどいる作曲家のうちの数人が「コンセプトはわかったが、「本当の楽器(real instrument)」を教えてもらえないと楽譜を書けず、作曲ができない」と文句を言い出した。所詮プレテクストにすぎない楽譜を書くことだけが作曲行為であると考えている作曲家がまだいることに素朴に驚きながらも同じ答えをしつこく繰り返したが、相手も予想外にしつこくて「本当の楽器」に関する問い合わせはやまなかった。そこで一計を案じることにした。東京現音計画とまったく同じ編成のヴァーチャル・アンサンブルを作って、そのグループをNo Collectiveと称してレジデンシーに連れていけば、「本当の楽器」問題が解決するだけでなく、ヴァージニアの作曲家が作った《ZOOMUSIC》を東京のコンサートにそのまま持っていくことができる。黒田亜樹さんのピアノ、橋本晋哉さんのチューバ、大石将紀さんのサクソフォン、神田佳子さんの打楽器、有馬純寿さんのエレクトロニクスという東京現音計画の不思議な編成にしても、ヴァーチャル・レジデンシーであれば世界のあちこちに散らばっている知り合いを集めることでなんとかカバーできそうだった。
その編成を伝えるメールを書いたが、送る寸前であることに気づいた。わざわざヴァーチャル・アンサンブルを作らずとも、本当の東京現音計画をNo Collectiveとしてレジデンシーに連れていけばいいのではないか──いずれにせよ、ヴァージニアの作曲家には区別はつかないのだから。そんな戯けたことができるかと怒られるかもしれないと案じながら聞いてみると、ちょうど東京現音計画でも海外進出の糸口を模索していたところだったから是非やりたいというあっけらかんとした返事がきて驚いた。だから、今回のレジデンシーでは東京現音計画がNo Collectiveの役を演じることをヴァージニア側に伝えた。案の定、向こうとしてはどちらでも良く、「本当の楽器」が判明したことに安堵したようだった。
だがここできわめて個人的な問題が生じた。アンサンブルとして呼ばれていたプロジェクトに、ディレクターとして呼ばれていたアンサンブルを当てがった結果、自分の役割が相殺されてやることがなくなった気がしてきたのだ。ヴァージニアの作曲家たちが音楽を書き、東京の演奏者たちがそれを演奏するのであれば、それで事足りるはずではないだろうか。いっそのこと身を引こうとも思ったが、すこし悩んだ末にまだ重要な役割が二つ残されていることに思い当たった。一つは東京の演奏者たちは英語に不自由で、ヴァージニアの作曲家たちは日本語をまったく知らなかったため、両者の間を繋ぐ通訳が必要だったことである。もう一つは放っておけばどちらの側においても「本当の楽器」に釘付けになり、両者の間を実は繋いでいるZoomに対する意識が疎かになってしまうおそれがあったことである。つまり、このレジデンシーの「本当の「本当の楽器」」がなんであるかを絶えず思い起こさせる誰かが必要だった。この二つの役はいずれも、東京とヴァージニアをつなぐ媒介技術に関わっていた。だから冗談半分でダニエルにこのプロジェクトにおいて自分は「消えゆく媒介者(Vanishing Mediator)」として振る舞うことにしたと伝えた。ちょうどZoom自体とも重なる役柄を纏うのは、テーマ的にもふさわしいような気がした。
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2021年9月からはじまったレジデンシーでは、まず東京現音計画の演奏者たちが一人ずつヴァージニアの作曲家たちとZoom上でセッションを行ない、このオンライン楽器を介すとそれぞれのオフライン楽器の音がどのように聞こえ、マイクの位置やプログラムの設定の変化によってどのような違いが作り出せるのかをみんなで探った。そして、不確定性の高さをはじめとするZoom特有の諸条件とそれらの使い道について色々と話し合った。そのようなやりとりを踏まえてヴァージニアの作曲家たちがそれぞれの《ZOOMUSIC》を構想していった。ところが、どのように説明しても「本当の楽器」のために楽譜を書くこと以外の発想が浮かばない作曲家が残り続けた。彼ら(全員男性だった)はZoomの不確定性を忌み嫌い、自分が思い描いた作品を自分が思い描いたとおりに伝えるため、事前に録画した映像を画面共有を通じて見せることを選んだ。提出された楽譜や指示書に目を通して細部にわたるアドバイスをそれぞれに送ったが、そのような作曲家にかぎって聞く耳をあまりもたなかった。ただし、《ZOOMUSIC》であることの重要性を繰り返し説いたことは思わぬ効果をもたらした。事前に録画する場合であっても、一見するとZoom上のライブ演奏に見えるように映像のフォーマットをグリッド状にするなどの涙ぐましい努力が重ねられた結果、《ZOOMUSIC》を模した《ZOOMUSIC》もどきが蔓延ることになったのだ。
レジデンシーの成果発表として、時差を考慮しながら2022年の4月30日と5月1日にかけて行なわれたZoomコンサートでは、曲間の転換が設定の変更や機材の準備などで長引くことが問題として浮上した。オフラインのコンサートであれば、同じ空間内で他のことができるため幕間の時間はさして気にならないが、オンライン上のデッドタイムは他にやることがないため中弛みの感覚が強まる。そこで観客が離脱してしまうことを避けようと思ったら、その合間を埋める必要があった。こうして、異なる言語を取り結ぶ「通訳」と異なる空間を取り結ぶ「Zoom(のリマインダー)」に続く第三の媒介技術として、異なる時間を取り結ぶ「司会」が要請され、「消えゆく媒介者」は舞台の前面にしぶしぶ引っ張り出されることになった*5。
*5 一回目のコンサートでは不届者がこちらの監視を掻い潜り、ZOOMの脆弱性につけ込んで、いきなり画面共有で集まった百人以上の観客にポルノ映像を見せるという暴挙に出た。すぐに対応したものの、多くの観客はそれが(本当の)演出の一部だと信じてやまなかった。こちらが弁明を重ねれば重ねるほど、胡散臭さが増していったことを覚えている。
3|コンサート
ヴァーチャル・レジデンシーの成果発表コンサートを行なった2022年の春先までには、その前年に着任した東京大学の前期課程向けの授業*6で《ZOOMUSIC》の集団制作を学生たちとともに一年ほど繰り広げていた。そのような実験を通じて、楽譜を書くという狭い意味での「作曲」に固執し、不確定性から逃れようと足掻いていた作曲家たちと比べ、そもそも音楽家や作曲家を志さず、場合によっては音楽的経験も乏しい学生たちの方が柔軟にZoomを楽器として考え、凝り固まった「音楽」のイメージや枠に囚われない新鮮なアイデアを思いつけることが見えてきた。だから当初の予定より一年遅れて2022年の12月に開催されることになった東京現音計画の「クリティックズ・セレクション」のプログラムは、ヴァージニアのレジデンシーで制作された《ZOOMUSIC》は一曲だけにとどめ(△)、大学の授業で生み出された《ZOOMUSIC》を三曲選んで中心に据えることにした(○)。また世界のどこかには、誰も知らない《ZOOMUSIC》の大家が潜んでいるに違いないという期待から、公募でもプランを集めることにした。世界各地から送られてきた計画の大半は、楽譜に書かれた音符をそのとおり演奏することを求めるか、どんなオンライン楽器でも実現できそうな漠然とした思いつきだったので少し落胆したが、そのいずれでもない方向を指しているように思えた応募作を東京現音計画のメンバーと一緒に二曲選んだ(◇)。これで計六曲のプログラムが揃った。悩んでいた学生に頼まれてタイトルもいくつか考えたこともあり、並べてみると「music」という言葉が入った作品が半分を占めることになった:
○福田考樹:staff meeting in progress (2022)
○古賀晶子:m(usi)c (2022)
△Varun Kishore:peculiar convergence chamber (2022)
◇Jenn Kirby:music: a movement (2022)
◇G Douglas Barrett:i am sitting in a zoo (on zoom)(2022)
○荒野愛子:music, in volumes | 巻物音楽 (2022)
コンサートが先送りになった一年の間にも状況は刻々と変化していき、《ZOOMUSIC》ながらも、対面コンサートを杉並区公会堂で開催できることになった。そこで少し迷ったあげく、オンラインとオフラインのコンサートを同時に行なうことに決めた*7。ただし表舞台はあくまでもオンライン版であり、オフライン版はその舞台で上演されるために必要な舞台裏のからくりまで含めて鑑賞できる、テレビの生収録や撮影中の映画セットのような位置付けにした*8。同時に二つのヴァージョンをそれぞれ経験することは原理的にできないため、観客はどちらを見るのか選択しなければならない。「クリティックズ・セレクション」という枠で呼ばれたものの、「批評家」を任じたことはなく、その言葉に居心地の悪さをずっと覚えていたので、選択行為を個別の観客に送り返すことで全員を批評家に仕立て上げてしまおうと思った。ちょうどコロナ禍における他者からの感染の恐怖が、これまで自覚していなかった些細な次元──電車かバスかタクシーか、どの車両に乗るのか、どの列で誰の後ろに並ぶのか──まで「選択」という行為(がもたらしうる不幸な帰結)に対する自意識を高めた結果、批評家然として振る舞う人がずいぶん多くなっていたころだった。
*6 その時点では東京大学芸術創造連携研究機構が開講し、現在は教養学部先進融合部会(Department of Avant-Garde Arts)が管轄するアドバンスト文理融合科目の一コマ。ちなみに同じ枠内で教えているもう一コマの《Archi-Choreographies》では人間の持つさまざまな「クセ」を根源的な振り付けと見なし、拡張されたダンスの問題として扱っている。詳細については以下のインタヴューを参照されたい:久保田晃弘「芸術と技術の100年対談第3回:中井悠のデーヴィッド・チュードアと影響学」Media Arts Current Contents、https://macc.bunka.go.jp/1158/
*7 同じ系譜のパフォーマンスとして、2013年の「ブルックリン国際パフォーマンス・アート・フェスティヴァル(Brooklyn International Performance Art Festival = BIPAF)」で発表した《BIPAF by No Collective》がある。自分たちと同じグループ名を持つイギリスのパフォーマンス・グループThe No Collectiveに呼びかけて、同じ時間帯に二つの会場で二組のNo Collectiveがパフォーマンスすると告知し、観客にどちらの会場に行くのかを選択させた。そのうちひとつの会場では、一人のパフォーマーがそちらを選んで集まった観客に対して、このパフォーマンスが一人しか経験できず、15分以内に観客同士でそのたった一人の「本当の観客(real audience)」が誰であるかを選ばせ、選べなかったら公演はキャンセルすることを冒頭で伝えた。無事に「本当の観客」が選ばれると他の人は退室し、No Collective側のパフォーマーは選ばれた観客にそれまで誰にも言ったことのない秘密を打ち明けた。詳細は以下のページを参照されたい:https://www.nocollective.com/works/n
*8 舞台裏のパフォーマーとして副産物ラボ(http://selout.site)の学生である有吉玲さんと髙草木倫太郎さんに参加してもらった。
とはいえ、こちらでも選択しなければならないことは山積みだった。たとえば、東京でも曲間の転換に舞台裏でやるべきことが多かったので、またしても「司会」を舞台に登場させることにした。それまでの活動では上演されるパフォーマンスを言葉で枠づけることにいちいち神経を尖らせていたが、《ZOOMUSIC》においては「作品」という次元のコンポジションをはじめから(少なくとも表向きは)他人任せにすることにこだわっていたため、幕間だけが唯一好き勝手に作れるパートだった。そこで、表の作品と対になる裏の連作を組み立てることにした。6つの幕間では映像付きの小咄が上演されるが、映像のつくりとしても話の組み立てとしても、リアルとヴァーチャルという区分を設定してはそれを相対化するというからくりを基盤に据えた*9。そもそもの語り手からして、当日は忙しくて司会どころではなかった「本当の中井悠」は映像で見せながら、音声だけは子どものエイヴィ(12歳)が舞台裏としてのオフライン会場でアテレコした。そして、過去の映像と現在の声によって成り立っている司会は、オンラインであれオフラインであれ観客がリアルタイム──本当の時間──で経験していることについて、最初から最後まで過去形を用いて、あたかもその場にいる観客ではなく、どこかの時点でこのコンサートを記録として経験するであろう未来の観客に対する思い出話であるかのように語った。
*9 第一幕間:Zoom越しに映った部屋に中井悠の仮面を被った司会が現れ、本日のコンサートに至る経緯について小咄を語る。それは事前に録画された中井の映像にエイヴィ(12歳)がリアルタイムで被せているアフレコだが、そのことはオフラインで舞台裏を鑑賞している人にしかわからない。第二幕間:先ほどと同じ映像が流れるが、今度は途中からその映像内にエイヴィ自身が登場する(事前に第一の幕間をヴァーチャル背景として録画したもの)。オフライン会場にいるエイヴィの音声で語られる小咄は、「ヴァーチャル(virtual)」という言葉を語源まで遡り、東京現音計画についてよく言われる「ヴィルチュオーゾ(virtuoso)」という言葉に結びつけた上で、「ヴァーチャル・リアリティ」という言葉がそもそもアントナン・アルトーからデーヴィッド・チュードアを介して英語圏にもたらされたことを明かす。第三幕間:エイヴィの左右の目がそれぞれZoomのグリッド上に並べて表示され、わずかな時差を伴いながら眼球運動のクローズアップが流れる。Zoomにおける「視聴」という行為が一筋縄ではいかないこと、そしてZoomという楽器自体が何を「視聴」しているのかを探る方法をめぐる小咄がまたもやエイヴィのアフレコで語られる。第四幕間:Zoom越しに映った部屋の中にあるデスクトップ・コンピューターのスクリーン上で第一幕間の映像が流れ、今度は「部屋」という単位のヴァーチャル性とZoomにおける「部屋」という概念をめぐる小咄がアフレコで被せられる。第五幕間:第四幕間と同じデスクトップの置かれた部屋の映像が映し出され、そのデスクトップのスクリーン上で第二幕間の映像が流れるが、途中からその部屋の中にアフレコをしているエイヴィ自身がじっさいに登場して、かつてアルヴィン・ルーシエから話してもらった、部屋を含む「楽器」のヴァーチャル性をめぐる小咄についての小咄を語る。第六幕間:はじめてオフライン会場からの生中継に切り替わり、エイヴィがコロナ禍における選択の前景化や批評家の増殖についての小咄を語った上で、「これは僕がまだ子どもだったときの話です」という一言で思い出話を閉じる。
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演じられた個々の音楽をいまここで思い出しながら言葉で描写するという野暮なことは控えたい。記録映像が公開されているので関心があれば誰でも後追いで辿ることができる*10。それに後追いでしかわからないこともある。たとえば、コンサートが終わったあとに寄せられたいくつかの感想は、個々の《ZOOMUSIC》作品という単位を論評の対象として自明視するものと、幕間の構成を含めたコンサート全体をパフォーマンスだと捉え、個々の「作品」を小道具と考えるものに大きく分かれた。そしていずれの場合においても、オンラインとオフラインの二つのヴァージョンを同時に選べないこと──コンサート全体を誰も経験しえないこと──にひどく意識的な人と、ひどく無頓着な人がいた。こうした違いは、それぞれの参加者が異なる次元のリアリティに定位して自らの経験を言語化していることを物語っているように思われた。「オンライン/オフライン」というはじめの選択を皮切りに、ヴァーチャルとリアルという経験の階層差を作り出しながら崩すという操作を散りばめたことの効果かもしれない。いずれにせよ、各自が大抵は知らず知らずのうちに下している、何をリアルと見なし何をヴァーチャルと見なすかという選択が、何を選んで批評するかという「批評家の選択」を枠づけていた。
だから最後に自分自身のことも振り返っておくべきだろう。最初から関心を寄せていた制作の単位は「ジャンル」だった。そしておよそ三年に及んだ疫病の時代に度重なる実験を通じて検証したかったのは、架空のジャンルというヴァーチャルな設定がリアルな効果を生み出していくプロセスだった。でも2023年の春先までに、大方の授業は対面に戻っていた。コロナ禍の熱狂が治まっていくにつれて、Zoomでのみ演奏と視聴が可能な音楽自体のリアリティも鳴りを潜めていくようだった。少なくとも、自分から進んで《ZOOMUSIC》を人に作らせることはもうないような気がした。しばらく熱中していたヴァーチャルとリアルの次元操作にしても、大方の実験的パフォーマンスと同じく、いずれは語りにおいて一元化され、思い出話として生き延びていくほかないのかもしれない。だから終わる前にせめて別の選択肢を示しておこうと思った。
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実を言えば、本当に作りたかったのはリアルタイムにその場で構成されていく映像作品だった。でもたまたまコロナ禍のすこし前に出会ったパートナーが映像作家だった*11。そのためジャンルという区分を所詮ヴァーチャルなものだと軽視して相手の領域に土足で踏み込むことによって関係がこじれることを恐れた。《(動物園)音楽》と銘打った看板はプレテクストとして役立った。