フーコー研究フォーラム研究会 バトラー『非暴力の力』+ウエンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』書評会
日時:2022年12月18日(日)17:00-20:00
会場:オンライン
発表者:佐藤嘉幸(筑波大学)、清水知子(東京藝術大学)、河野真太郎(専修大学)
コメント:中井亜佐子(一橋大学)、箱田徹(天理大学)
フーコー研究フォーラムは2022年末に、共に同年に翻訳が刊行されたジュディス・バトラー『非暴力の力』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、原書2020年)、ウエンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』(河野真太郎訳、人文書院、原書2019年)の書評会を開催した。バトラーとブラウン(私生活ではパートナーである)は近年、哲学者、政治学者として、新自由主義の暴力性を批判する仕事を続けてきた。バトラーは『アセンブリ』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、原書2015年)に続いて『非暴力の力』において、ブラウンは『いかにして民主主義は失われていくのか』(中井亜佐子訳、みすず書房、原書2017年)に続いて『新自由主義の廃墟で』において、この主題を深化させている。フーコー研究フォーラムがこれらの著作を取り上げるのは、両者がいずれもフーコーの議論(とりわけその新自由主義論『生政治の誕生』、レイシズム論『社会を防衛しなければならない』)を基礎にして考察を展開するからである。
書評会は、発表者(両書の訳者)、コメンテーターがそれぞれ両書を関連づけて批評する形で展開された。論点が多岐にわたるため、すべての議論を紹介することはできないが、重要な論点のみを紹介しておこう。佐藤嘉幸は、バトラーとブラウンの新自由主義批判を比較しつつ、バトラーの政治的立場は、国家暴力の拒否と「アセンブリ」の予示する直接民主主義的な自治という観点からアナーキズム的なものと考えられるが、ブラウンの政治的立場は、「社会的なもの」と福祉国家を擁護するという意味で社会民主主義的なものであり、新自由主義を乗り越える可能性を十分に提示できていないのではないか、と問題提起した。清水知子は、バトラーの『生のあやうさ』(原書2004年)以来の暴力批判を振り返りつつ、その歩みを「非暴力の要求」から「非暴力の力」への展開と捉えた上で、その展開をブラウンの新自由主義批判に結びつけるべく、デヴィッド・グレーバーを引きながら、「経済とは社会の⼀員である我々がお互いをケアし、ともに⽣存するための⼿段であるべきではないか」と指摘した。河野真太郎は、バトラーの暴力批判を人間の根源的な相互依存という観点から捉えた上で、それは単に新自由主義批判とその帰結の排外主義批判ではなく、近代国民国家の生政治批判とも読めると指摘した。また、ブラウンの新自由主義批判の重要性は、新自由主義が市場と伝統的道徳の両者を解放し、それによって人民主権と民主主義を骨抜きにしたと指摘する点にある、と明確化した。
発表者の報告を受けて、コメンテーターの中井亜佐子は、バトラー『非暴力の力』は、ブラウン『新自由主義の廃墟で』の最終章(「⽩⼈男性に未来はない──ニヒリズム、宿命論、そしてルサンチマン」)を引き継いで始まっているのではないか、また、バトラーが同書で行なっていることの一つは、トランプ支持者たち(に代表される人々)の攻撃性の心的メカニズムを解析することではないか、と指摘した。箱田徹は、どこに集合的主体としての「変革の主体」があるのか、という問いを立てた上で、バトラーなら「オフィシャルにカウントされない」人々の「別の数え方」、「別の名乗り方」、「別の集まり方」と答えるだろうが、ブラウンではその点が明確ではない、と指摘した。また、左翼にとって未来のビジョンがなければ街頭行動は革命には至らないが、そのビジョンをジジェクのように「コミュニズム」と呼んでも良いのではないか、と提起した。
この書評会の動画は、こちらで公開されている。3時間に及ぶ濃密な議論をぜひ視聴していただき、バトラー、ブラウンの提起した問いについて共に考えていただければ幸いである。