研究ノート

哲学と批評のあいだの対話 ロバート・B・ピピンの芸術哲学をめぐって

折居耕拓

はじめに

本稿の目的は、近現代ドイツ哲学を専門とする現代アメリカの哲学者ロバート・B・ピピン(Robert B. Pippin, 1948-)が近年展開する、芸術哲学をめぐる仕事の一端を明らかにすることである。

ピピンは、英語圏でのヘーゲル研究の泰斗として知られる。彼の仕事のうち、2010年代以降には、文学研究、映画理論、そして美学の分野の仕事が顕著に見られる。たとえば、2021年に刊行された論集『他の方法による哲学──哲学における諸芸術と諸芸術における哲学』*1(以下、『他の方法による哲学』)の冒頭では、彼の哲学者としての芸術作品と芸術批評へのアプローチの方法が、「哲学的批評」(philosophical criticism)という用語によって提示されている。

*1 Robert B. Pippin, Philosophy by Other Means: The Arts in Philosophy and Philosophy in the Arts (Chicago and London: University of Chicago Press, 2021). 以下での引用はPOMの略記により本文中に示す。

本稿では、こうした哲学と芸術批評のあいだの交差をめぐる彼の著述を読解するにあたり、美術批評家マイケル・フリード(Michael Fried, 1939-)とピピンとのあいだで、互いのテクストの解釈を通じて交わされる対話に注目する。このことにより、ピピンによるフリードの美術史研究の解釈が、彼による哲学の方法の反省に結実しているということを示す。以下では、まず、ピピンが論じる「哲学的批評」の概念を示したのち、ついで彼によるヘーゲル主義哲学の視点からのフリードの美術史研究の読解について見ていく。最後に、西洋におけるモダニズムの芸術史についての彼の再解釈のうちに、フリードの「演劇性」の概念の解釈をとおした、「哲学的批評」の実践を見ることができると論じる。

1. 「哲学的批評」の実践

まず、『他の方法による哲学』の冒頭に掲げられた彼の主張について検討しよう。

ピピンが掲げるところの「哲学的批評」とは、哲学研究から抽出された理論的な枠組みを芸術作品の分析に適用する、というものではない。彼の主張は次の2つである。第1に、「正しく理解された批評は、しばしば哲学的な反省の形式を求める」。第2に、「美的対象への批評的な関心によって影響されないのであれば、哲学は貧弱なものである」(POM, 3)。言い換えれば、哲学と芸術批評とは、それぞれの方法の反省のために、他方の形式を必要とする。ピピンにおいて「哲学的批評」とは、こうした哲学と芸術批評の両方においてなされるそれぞれの方法の自己反省と、それに基づく哲学の実践を指している。またそうした哲学が、表題が示すところの「他の方法による哲学」だということになるだろう。

それでは、芸術批評が「他の方法による哲学」の実践としてとらえられるとき、それは具体的にはどのような意味で、「哲学的」な批評たりうるのだろうか。

近代的な意味での批評の役割とは、まずもって作品の解釈に、つまり作品の意味の理解を目的とするものであった。ピピンによれば、作品の解釈に関する問いは、「問いそのものに関する哲学的な理解へとそれとなく訴えている」(POM, 8)。たとえば、「ある絵画は観者に対していかなる関係を想定しているように見えるか」という問いがあるとすれば、この問いは、「いかにしてある絵画は、観者に対する関係を想定している、もしくは構築しているといわれうるか?」という考察を含んでいる。それゆえ、「こうした意味での「解釈」とは、いつでも暗に哲学的である」(Ibid.)。つまり、解釈としての批評には、問いがみずからを反省する次元に「哲学」がある。彼が「哲学的批評」という言葉を用いるのは、このように、批評における問いの自己反省の営みに「哲学」があるということを指し示すためである。

2. 絵画における真正性と演劇性

「哲学における諸芸術」と「諸芸術における哲学」という2部の構成からなる『他の方法による哲学』において、第1部「哲学における諸芸術」では、カント、ヘーゲル、アドルノといった近代美学を司る哲学者たちの美学・芸術哲学についての論考が並ぶ。そこに含まれた2つの章が、マイケル・フリードの美術史研究と写真論についての論考であることは注目に値する*2。というのも、2000年代以降のフリードの著作、とりわけ『なぜ写真はいま、かつてないほど芸術として重要なのか』(2008)や『もうひとつの光──ジャック=ルイ・ダヴィッドからトーマス・デマンドへ』(2014)を一読すると分かるように、フリードは現代芸術の批評へと復帰するにあたり、ピピンの哲学的著作をいたるところで参照しているからだ*3。こうしたフリードとピピンのあいだの対話・交流のきっかけとなったのが、同書に収録された論文「絵画における真正性──マイケル・フリードの美術史に関する見解」である。

*2 Pippin, “6. Authenticity in Painting: Remarks on Michael Fried’s Art History,” “7. Photography as Art: Fried and Intention,” Philosophy by Other Means, 102-125, 126-142.
*3 たとえば、『もうひとつの光』の序論に付されたある註釈では、カントの『判断力批判』にて論じられた美しいものの判断の論理と、フリードがドゥニ・ディドロの芸術論の解釈をとおして論じる「反演劇性」の概念とのあいだの関係を考察するための参照として、本稿にて以下論じるピピンの著作『美のあとに──ヘーゲルと絵画におけるモダニズムの哲学』があげられている。Michael Fried, Another Light: Jacques-Louis David to Thomas Demand (New Haven and London: Yale University Press, 2014), 272-274n14.

ピピンは、この論文において、フリードが『没入と演劇性──ディドロの時代の絵画と観者』(1980)や『クールベのリアリズム』(1990)といった著作において叙述してきた、18世紀から19世紀にいたるまでのあいだのフランス絵画の歴史的な進展に関する物語を念頭に、その物語の「弁証法的」*4な展開に注目している。フリードは上記の著作において、シャルダンやクールベといった当時の画家たちは、あたかも観者の存在を意に介さないかのような様子の人物像を描くことで、絵画がわざとらしいものになることを回避しようとしたと論じている。さらにいえば、絵画のわざとらしさ、その芝居がかったありかたを回避しようとするための方法を絶えず刷新することにこそ、フランス絵画の進展が賭けられていた。ピピンがとらえようとするフリードの美術史とはこのように、絵画のわざとらしさを回避することで、それを「真正な」(authentic)(POM, 107)ものにしようする画家たちの企てに沿って叙述される美術史である。論文の題名に掲げられた「真正性」(authenticity)という語はここで、フリードが用いる「演劇性」(theatricality)という概念に対置されるものとして、画面のうちに描かれた人物の行為や感情が本物らしい、真実味のあるものだということ、またそれに応じて絵画そのものが真実らしいものだということを意味する。

*4 フリードは、『没入と演劇性』の冒頭で次のように記述している。「ロココへの反発の始まりから1860年代前半のマネの重大な傑作にいたるまでのフランス絵画の展開は、伝統的には、様式と主題の観点から論じられ、まずい分け方でばらばらにされた時代や運動──新古典主義、ロマン主義、レアリスム等──のつらなりとして提示されてきたけれども、実は重要な点において、単一の、自己刷新していく弁証法的な企てとして捉えられるだろう。」Michael Fried, Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot (Chicago and London: University of Chicago Press, 1988), 4. マイケル・フリード『没入と演劇性──ディドロの時代の絵画と観者』伊藤亜紗訳、水声社、2020年、24頁。

3. ヘーゲル以後の芸術としてのモダニズム

以上のように、ピピンがフリードの美術史研究のうちに読解する、絵画における真正性と演劇性のあいだの絶えざる往還、またそのあいだに生まれる弁証法的な展開をとおした芸術史の進展というヴィジョンは、ヘーゲルの時代以後の芸術、つまりモダニズムをヘーゲルの芸術哲学のパースペクティヴからとらえるという、ピピンによる近現代絵画史の再解釈の着想源になっている*5。ピピンは、『美のあとに──ヘーゲルと絵画におけるモダニズムの哲学』(2014)*6において、マネとセザンヌ以後の「モダニズムの芸術の達成」は、「それら自体ある種の哲学的な達成として理解されるべきである」(AB, 2)と主張する。彼の別の言葉によれば、モダニズムの芸術作品は、「哲学にとってもっとも深く重要であるさまざまな議題を理解可能かつ説得的なものにするような、ある美的な方法を具現化している」(Ibid.)。

*5 ピピンによるモダニズム芸術論の原型は以下の論文のうちに見られる。Robert B. Pippin, “What Was Abstract Art? (From the Point of View of Hegel),” Critical Inquiry, Vol. 29, No. 1 (Autumn 2002): 1-24.
*6 Robert B. Pippin, After the Beautiful: Hegel and the Philosophy of Pictorial Modernism (Chicago and London: University of Chicago Press, 2014). 以下での引用はABの略記により本文中に示す。

たとえば、アーサー・ダントー(Arthur Danto, 1924-2013)が1980年代以降に展開した「芸術の終焉」の議論に見られるように、ヘーゲルが「芸術の過去性」*7を説いて以来の19世紀中頃から20世紀後半にいたるまでの芸術の歴史を、ヘーゲル自身の歴史観に基づき、芸術による「自己認識」*8(つまり、芸術がみずからの本性を哲学的に問うこと)の物語としてとらえる見方は、珍しいものではない。

*7 「芸術の過去性」に関する記述は、たとえば『美学講義』序論冒頭の次のような箇所に見られる。「以上のことからして、芸術の最盛期はわたしたちにとって過去のものとなったといわねばならない。芸術は、わたしたちにとって、もはや純正な真理と生命力をもたず、かつてそうであったように、現実にその必要性が納得されて、高い地位を占めることはもはやなく、むしろわたしたちの観念のうちに生きるといえる。〔…〕だから、芸術が芸術としてそこにあるというだけで十分な満足が得られた時代にくらべると、現代のほうがはるかに芸術の学問を必要としている。」強調は原著者による。引用は以下の日本語訳からのものである。G・W・F・ヘーゲル『美学講義 上巻』長谷川宏訳、作品社、1995年、14頁。以下のズーアカンプ版全集と英語訳の該当箇所を参照した。G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden. Vorlesungen über die Ästhetik. Bd. 13. Theorie Werkausgabe. (Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1970), 25-26. G. W. F. Hegel, Aesthetics: Lectures on Fine Art, trans. T. M. Knox, Volume I (Oxford: The Clarendon Press, 1975), 11.
*8 Arthur C. Danto, After the End of Art: Contemporary Art and the Pale of History (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1997), 4. アーサー・C・ダントー『芸術の終焉のあと──現代芸術と歴史の境界』監訳山田忠彰、河合大介・原友昭・粂和沙訳、三元社、2017年、28頁。「芸術の終焉」をめぐるヘーゲルの歴史観とダントーの歴史観のあいだのちがいについては、以下の文献を参照のこと。小田部胤久「芸術の終焉Ⅰ──ヘーゲル」「芸術の終焉Ⅱ──ダントー」『西洋美学史』、東京大学出版、2009年、187-200、231-244頁。

こうした先行するヘーゲルの芸術哲学の研究に対するピピンの解釈の独自性は、芸術はもはや絶対者の表現という役割を担うことができず、「学問」の対象になったというヘーゲルの芸術史観を、彼の「行為者性」(agency)の理論の観点から解釈していることにある*9。「ヘーゲルはわれわれに、彼が個人の行為の社会的な意味を理解するようなしかたで、芸術作品の制作と鑑賞の歴史的かつ社会的な次元を理解することを求めている」(AB, 57-58)。ヘーゲルにおける「行為者性」の理論にしたがえば、社会における個人の行為は、公共的かつパフォーマティヴな次元をもつ。ピピンによれば、芸術作品は、そうした「身体的な運動において具現化されるような意図的な行為の意味」(AB, 37)を理解するのと同じしかたで、「歴史的かつ社会的な次元」において理解されねばならないと、ヘーゲルは考えていた。

*9 以下の著作で、ヘーゲルの自由論の解釈にそくして「行為者性」の理論についての検証がなされている。ロバート・B・ピピン『ヘーゲルの実践哲学──人倫としての理性的行為者性』星野勉監訳、大橋基・大藪敏宏・小井沼広嗣訳、法政大学出版、2013年。

モダニズムに対するヘーゲル的なアプローチを構築する、というピピンの試みの基礎にあるのが、このように、芸術作品の意味を歴史的かつ社会的な次元にある「意図的な行為の意味」(the meaning of intentional action)としてとらえるという方法である。こうしたピピンによる芸術史へのアプローチにおいて具体的に参照されているのが、絵画における演劇性をめぐる件のフリードの議論である。フリードにしたがいある絵画が演劇的であるといわれるとき、その作品の意味は、ピピンによれば、「視覚芸術においてことなる時代にことなる方法で想定されるような観者との関係絵画のうちに描かれた人間の行為の解釈可能性、画家の意図的な行為の結果として」(AB, 37 強調は原著者による)理解されている。ならば、芸術作品の意味を、人間の「意図的な行為の意味」としてとらえるという(ピピンが解釈するところの)ヘーゲルの芸術観は、モダニズムの時代にあって、ある絵画がある時代において演劇的であるかいなかという、フリードの問いにそくしてとらえることができる、このようにピピンは考える。

おわりに

以上のような、ヘーゲルの芸術哲学を規範とした、ピピンによるフリードの美術史研究の解釈に関して、フリードの演劇性をめぐる議論をあくまで「歴史的かつ社会的な次元」においてとらえようとするその見方には、検討の余地が残る*10。しかしこの検討は別の機会に譲り、本稿では最後に、ピピンによるフリードの美術史研究の解釈が、彼が掲げる「哲学的批評」の行為遂行的な実践たりうるものであるということ、つまりその解釈が、芸術批評に基づく問いから試みられた「他の方法による哲学」の一実践であるということを指摘する。というのも、ピピンは、絵画における演劇性をめぐる議論を解釈する過程で、「ある絵画は観者に対していかなる関係を想定しているように見えるか」、というこの概念が提起する問いの意味についての反省的な考察を展開しているからである。彼の解釈によれば、それは画中人物や画家の「意図的な行為」にそくして理解される。

*10 たとえば、グレアム・ハーマン(Graham Harman, 1968-)は、オブジェクト指向存在論の立場からモダニズム芸術論を再解釈する近年の議論において、ピピンが「作品とそれが生み出された歴史の地平のあいだにはつながりがあらねばならない」という見方に固執していること、そしてクレメント・グリーンバーグの「本質主義的な」芸術観(つまり、絵画には時代を超越した単一の本質があるという見方)に対して、フリードによる「反本質主義的な」芸術観を擁護していること(AB, 70-71)に対して疑問を呈している。それに対してハーマンはむしろ、グリーンバーグとフリードをともにカント主義的なフォーマリストとしてあつかったうえで、「芸術作品がその周囲にあるものから切り離され自律的な実在を獲得する」ことを重視する。Graham Harman, Art and Objects (Cambridge and Medford, MA: Polity Press, 2020), 87.

このように、芸術批評家や芸術史家による美的対象へのアプローチに内在する問いを、哲学者が浮き彫りにすること、あるいは、そうした哲学者による芸術批評の解釈をとおして、当の芸術批評家がみずからの問いの意味を理解すること。これらの営みのうちに、ピピンがいうところの「哲学的批評」の意義がある。これは、哲学研究と芸術批評とが、互いの言説をたんに部分的に利用するのではなく、相互に「対話」するうえでの、ひとつの可能な実践であると考える。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年6月30日 発行