PRE・face

ホラー映画研究の効用──小特集「感染するアジア・ホラー」に寄せて

福田安佐子

昨年末から3ヶ月ほど、嫌なことがあって集中的にホラー映画を見続けた。ホラー映画の専門を名乗っておきながら恥ずかしいが、あえて、というか怖くて観るのを避けていた、ホラー愛好家たちからは高評価の作品──すなわち「最恐」とか「本当にヤバイ」と評される作品たち──にようやく手をつけたのだ。ところが見始めるとクセになり、研究の題材探し、とうそぶきながら、刺激を求めてさらなる「トラウマ級」を探す日々に突入した。するとどうだろうか。厄介ごとは立て続けに起こり、実生活の状況もますます悪くなる。落ち込んだ気分を慰めるため、夜中に起き出しては配信サイトで新たな最恐を求め、もはやホラー映画しか提示されなくなった「あなたへのオススメ」を徘徊する、立派な負のループに陥った。

このループの中で得られたことは二つある。一つはこれまで半信半疑に受け取っていた「ホラー映画の流行は、その時代の政治的混乱、社会不安に影響されている」というテーゼに対し、(わたしひとりだけの不況なのでだいぶ規模は小さいが)確かにホラー映画の刺激でなければ満たせない気分というものがある、と実感できたこと。もう一つはほかでもない、今回の小特集の企画を思いついたことだ。

なるほど、ホラー映画の代表的作品には、それと結びついて論じられる具体的な事件や、不景気/戦争直前といった不穏な時代の空気がまとわりついている。たとえば、1930年代の大恐慌時代を背景として、ハリウッドではドラキュラやフランケンシュタインが登場し、また1960年代後半から70年代にかけては、アメリカのベトナム戦争による疲弊が、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(ジョージ・A・ロメロ監督、1968年)や『ローズマリーの赤ちゃん』(ロマン・ポランスキー監督、1968年)、『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督、1973年)などを生み出した。だが、歴史的な事件や時代の空気の刻印ということであれば、ホラー映画よりもドキュメンタリーや物語映画の方が媒体としてはふさわしいのではないか。あるいは気が滅入るような事件はいつの時代にも存在するし、優れたホラー映画もまた間歇的に登場していると考えることもできる。ホラー流行の影に不況あり、という一般法則はどこまで妥当なのだろうか。言い換えれば、ホラーというジャンルでしか埋めることのできない不安(個人的なものであれ、社会的なものであれ)とはなんだろうか。

このように考えるようになったのは、昨今注目されている「台湾ホラー」に触れたからである。台湾では、2015年の『紅い服の少女』(チェン・ウェイハオ監督、2015年)のヒット以降、ホラー映画が流行し、最近も、『呪詛』(ケビン・コー監督、2022年)『哭悲 The Sadness』(ロブ・ジャバズ監督、2021年)『返校 言葉が消えた日』(ジョン・スー監督、2019年)などが話題になっている。こうしたヒットの背景には、優れた作り手の台頭や、配信により話題に上りやすくなったという時代の後押しもあるだろう。しかしここで着目すべきは、これらの作品の核となる恐怖の由来と、時代背景との奇妙な連関である。例えば『紅い服の少女』の作品のモチーフとなっているのは、1990年代に実際に起こった事件から派生した都市伝説である。それは、山中でのハイキングを映したビデオに、紅い台湾の伝統服に身を包んだ少女の姿が映り込んだことに端を発する。その陰影に富んだ顔は老女のようにも見えるが、ハイキングの参加者は誰も彼女を知らない。だが参加者の一人が、ハイキング後に不審な死を遂げ、また他の参加者も次々と不幸に見舞われた。この一連の事件と、台湾でたびたび起きていた老人や子供の行方不明事件が結びつき、紅い服の少女は台湾に伝わるとされる妖怪、魔神仔(モシナ)であり、また山中でおきる神隠しはこの魔神仔が起こしているという都市伝説が拡まった。

この都市伝説の真偽はさておき、90年代に起きた不穏な事件が2015年に再び掘り起こされ、映画としてヒットした背景は二つ考えられる。一つは、Jホラーを生み出すこととなった90年代のオカルトブーム、その牽引役たる日本のサブカルチャーを台湾で受容していた層の成熟である。もう一つは、先ほど触れたような政治的混乱、情勢の不安である。すなわち、2014年のひまわり学生運動に見られるような台湾ナショナリズムの隆盛と、中国とは異なる台湾のアイデンティティの希求が、台湾の土着信仰を想起させる魔神仔という像に結実したのである。同様の例は他の作品にもある。『呪詛』もやはり、台湾の土着信仰を思わせるカルト集団に接触したことが物語の発端にあり、さらにその展開には、『リング』(中田秀夫監督、1998年)を彷彿とさせる呪いのビデオの手法や、かつての2チャンネルの「洒落怖」的レトリックが見られる。

一連の台湾ホラー作品に認められる二つの流れを、アジアの他地域にも敷衍させて考えてみることで、ホラーと社会不安ないしパンデミックとの関係について見えてくるものがあるのではないか、というところから本特集は着想された。例えば韓国では、『新感染 ファイナルエクスプレス』(ヨン・サンホ監督、2016)のヒットは、それに『今、私たちの学校は…』(2022- )や『キングダム』(2019- )が続くことで「Kゾンビ」と呼ばれる新たな潮流を生み出している。これは徴兵制が身近にあるために、日本よりも銃器や兵士たちの活躍が実感を伴いやすいからと説明できる一方で、韓国の映画やドラマに豊作が続いているのは、ホラー作品に限ったことではない。それは、映像メディアの興隆に力を入れる文化産業政策が実を結んだ成果の一部と見ることも可能だろう。あるいは香港に目を向ければ、返還をめぐる混乱が映画界にいかなる影響を与えたのか、ホラー映画はどうだったのか、また返還から25年が経った現在、2019年の民主化デモに象徴される動乱の中、どのような作品が作られているのだろうか。

さらには、より直接的に映画におけるナショナリティについて考えることもできるだろう。『哭声 コクソン』(ナ・ホンジン監督、2016年)では、韓国の田舎で起こった殺人事件の容疑者として日本人男性が登場する。最初は日韓の歴史を想起させるような形で露悪的に描かれるこの日本人男性だが、犯人が追究されるにつれ単純な善悪を超えた存在になっていく。ナ・ホンジン監督は、タイでは『女神の継承』のプロデューサーとして参加し、成功を収めている。製作者も鑑賞者も、配信サイトの普及などによって様々な国の作品たちを横並びに観ることができるようになっている現在、物語中で語られる歴史や土俗信仰は、どれほどの効力を持つのだろうか。

作品に現れるナショナル・アイデンティティの希求や、メディア間の影響関係などを通して、広い視野でアジア圏を捉えなおし、現在各国で製作されているホラー映画について様々な角度から考えるために今回の特集を企画した。東南アジア全域を網羅するには及ばなかったが、表象文化論学会の強みを最大限に活かし、ジェンダー論や作家研究の専門家などにも声をかけさせてもらった。文化や歴史の中にホラーはどのような刻印を残しているか知りたかったからだ。

本特集を機に、ホラーが苦手と思っている方々にも、興味を持っていただければ幸いである。だが、ホラー映画を観ることで、わたしが冒頭に陥っていたような負のループに取り込まれるのは嫌だ、と思われる向きもあるかもしれない。ちなみにわたしの場合、あの呪われているかのような時間の中で、この企画を思いつき、それを言葉にしていく過程で「憑きもの」はスッキリ落ちた。あるいはもう少しスピリチュアルな体験を告白するならば、少し「見える」学生に、「憑いていますよ」と言われたことが、逆に脱却のきっかけとなった。つまり、今ここにいるのだと自覚することで、「それ」との距離を測ること、または「不安」を言葉にして、研究対象として見ることで、「不安」はわたしのものではなくなった(これは前号のPRE Faceに指摘されているような、感染症と社会構築主義の関係に似ているかもしれない)。ともあれこの小特集をきっかけに、ホラー映画の魅力に感染する人が少しでも増え、ホラー映画研究の裾野がひろまってくれるならば、わたしも憑かれた甲斐があった、というものである。

福田安佐子(国際ファッション専門職大学)

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年6月30日 発行