バルザックの『サラジーヌ』について セミナーのための未刊のノート
2022年12月にロラン・バルトの翻訳『バルザックの「サラジーヌ」について──セミナーのための未刊のノート』(水声社)が刊行された。これはバルトが高等研究実習院で行ったセミナーの記録の翻訳であり、同社の「記号学的実践叢書」シリーズの一部である。本書に先立ち2021年に『恋愛のディスクール──セミナーと未刊テクスト』が出版されているが、今後も『作者の語彙』等の同セミナーの翻訳が予定されている。
バルザックの『サラジーヌ』を分析した本セミナーは、1967年から69年にかけて行われ、その成果は、後に名高い『S/Z』という形で結実した。本書は、バルトによる「小説の構造分析」がどのように形成されていったのか、その思考過程を追うことのできる資料としてひとまずは位置づけられるだろう。
だが、実際に本書を読み進めていくと、このセミナーの記録が単に『S/Z』という著作の生成過程を示すだけのものではないことがわかってくる。
まず何より、バルトは、バルザックの小説を順序立てて解釈していきながらも、しばしばそこから脱線し、脇道を探索していた。セミナーではメラニー・クラインの「取り入れ」や、バンヴェニストの「中動態」について言及するなど、様々な寄り道があったが、『S/Z』の中ではそうした脱線は削除されたり短縮されたりしている。場合によっては、後年の著作で展開される思想もあるが、いずれにしても、本書にはセミナーという自由な空間の中で生まれた魅力的なアイデアが詰まっており、そうした点で、まだ拓かれていない記号学の可能性が数多く残されているといえるだろう。
加えて、本セミナーは、単にバルトが自身の考えを受講者に伝えるという一方通行的なものではなかったことも窺える。エリック・マルティが伝えるところによれば、当時のバルトは、正規の学生であるかに関わらずセミナーの参加者たちと、活発な議論を交わしながら講義を進めていたようである。実際に本書には、受講者からバルトのバルザックの各文章の切り取り方が恣意的ではないかという疑問に対する応答が記録されている。さらに、このセミナーの期間中には、68年5月の運動が巻き起こっており、その流れを受けて、バルトもこのバルザックのセミナー内で自らの大学制度・教育論について見解を述べている。このようにバルトと受講者たちが、大きな時代のうねりの中で共にセミナーの道のりを歩んできたという印象が本書からは伝わってくる。
(森田俊吾)