作家たちの手紙 ユゴー、ディケンズ、チェーホフ、カフカ、ミストラル、ソンタグ…94人の胸中
『作家たちの手紙』は、94名の作家による手紙のアンソロジーの翻訳書である。1499年のエラスムスがヘンリー王子へ宛てた書簡が最も古く、1988年のスーザン・ソンタグが、トーマス・マンの秘書を務めたヒルダ・リーチへ綴った便箋まで、500年近くにわたって書き連ねられた作家・詩人の手紙が一通ずつ並ぶ。自身が作家でもあるマイケル・バードと『テレグラフ』誌のジャーナリストであるオーランド・バードが編纂した原書は、手紙本文の英訳と英語による解説からなる。英語、イタリア語、日本語、ロシア語、フランス語、ラテン語、ドイツ語、デンマーク語、スペイン語、古典中国語と多岐にわたる言語の手紙を収録しているため、沼野充義氏の監修のもと、各言語を専門とする訳者がそれぞれ原語を参照しながら訳出する方針を取った。
100通近い書簡は、作家たちの「下積み時代」のものから、友情、歴史、愛、作家としての苦難、実務、老い、そして死へとテーマごとに並べられている。時代、地域、言語などが交錯し、とりとめなく並列されているように見えるが、作家ごとの文体の違いを味わいながら、ゆるやかに響き合うテーマが浮かびあがる仕掛けとなっている。とりわけ、原書のレイアウトに従って、すべての手紙の写真が掲載されているのは本書の美点である。ページをめくれば、整然としたライナー・マリア・リルケの筆致や、全体が傾斜しどことなくアンバランスなジェイムス・ジョイスの便箋、本文が用紙の真ん中にこじんまりとまとまったサミュエル・ベケットの書簡の奇妙な余白などが目に飛び込んでくる。一通ずつの書簡は研究史を更新するような発見とは言えないものの、デジタル化され、オンライン化され、OCRをかけて検索される「情報源」としての手紙とは異なる質感が伝わるはずだ。
こうしたアンソロジーの常だが、掲載する作家や書簡の選定においては、原著の編者の並々ならぬ苦労が窺える。本書を一貫するひとつのテーマとして「女性たちが文章表現をする場として手紙が重要だった」(10頁)と述べている通り、チリ出身のガブリエラ・ミストラルなど女性作家による手紙も多く収められた。また全体の冒頭に配置されているのは、1920年代のベルリンに学んだ若きW・H・オーデンが、同時代のベルリンにおける同性愛への開放的な空気を赤裸々に語っている手紙である。アラビア語、ペルシャ語などからは選定されておらず、選ばれた唯一の日本語書簡である与謝野晶子の鶴見祐輔宛の書簡に対して、その実務的内容と日本語のカリグラフィの流麗さの齟齬を真っ先に指摘する原書の解説文には、ややエキゾチックな視線も垣間見える。しかし、ナイジェリアのチヌア・アチュベや1920年代のハーレム・ルネッサンスを担ったゾラ・ニール・ハーストンらのラインナップは、社会的・政治的なマイノリティの声が宿る複雑な場としての手紙の力を示すものと言えよう。
ドイツ語書簡の翻訳担当者としては、ゲーテ、リルケ、ベンヤミン、カフカ、ツヴァイクらの書簡をひとつずつ訳していく経験は、上質なエチュードに取り組むようなチャレンジであった。原著における詩の選定から、手紙一通ずつのグラフィック、さらには訳文の文体まで、さまざまな視点から読むことができる本書が多くの読者に吟味されることを願う。
(白井史人)