かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか
本書『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』は、『天然知能』(講談社、2019年)、『やってくる』(医学書院、2020年)といった著作を通じてきわめて独自性の高い理論を展開した郡司ペギオ幸夫による、新たな展開をも含めた最新の論考を取り集めた一冊である。構成は、『やってくる』で提起された「ダサカッコワルイ」概念を中心に展開される第一部(第1章〜第3章)、郡司理論で大きな役割を果たす「外部」概念についての理論的考察を主とする第二部(第4章〜第6章)、そして「天然知能」として提起された理論的挑戦のさらなる展開を目論む考察に割かれた第三部(第7章〜第10章)の三部に分かれている。本書タイトル内の魅力的な一節「ゲームの世界に住んでいたという記憶」という概念/現象は、第8章「メタバース=宙吊りにされた意識モデル」において詳述されている。解題に替えて、該当章の議論を簡単に紹介することで、本書の魅力をささやかながら伝えてみたい。
近年界隈を賑わす名称である「メタバース」を章題に銘打ちながらも、筆者郡司が「ゲーム世界に住んでいた記憶」の実例として提起するゲームが2001年にゲームキューブ用に発売された任天堂ソフト『ピクミン』であることに、読者は驚きと微笑ましさを覚えることだろう。もうひとつの例は2004年のPS2用ゲーム『塊魂』だが、これについても同様の感覚をもつに違いない。郡司は『ピクミン』にハマっていた時期から二十年後、東京の地下街で、あたかも自分が『ピクミン』のとあるステージにいたかのような感覚を得たのだという。他にも、生活の場面で、ピクミンや塊魂が顔を出し、ゲームの中を生きているような誤った感覚に襲われることがあると郡司は述べる。
FFシリーズやバイオハザードのような、実在する人間との類似性を売り物にしたゲーム内でのプレーヤーキャラクターではなく、小さなモンスターを引き連れるデフォルメされた宇宙飛行士や、地上の物質を転がりながら周りにくっつけて進む「王子」との同一化というこの現象には、郡司による環世界との独自な関係理論が潜在している。つまり、デフォルメされキャラクター化されたアバターは、記憶の想起装置としても同様の仕方で有限なわけではない、と郡司は述べる。モデルの有限性は、モデルを所有する実体の有限性を意味するものではない。むしろ、有限なものと実在するものとのあいだのズレが、無際限にクオリアを発生させる源でさえある。郡司はこの図式をさらにメタバースに転用する。すなわち、仮想世界内のアバターも現実世界の無際限さを背負った存在であり、アバターとしてふるまうその経験においては、「現実世界への穴」が絶えず空き続けている、というのである。現実においてあたかもゲームの世界を生きているかのような誤認の原因はここに見出される。そして、さらに興味深いことに、こうした誤認の可能性こそが、意識による身体の制御を逆に撹乱させ、仮想世界の側から現実世界の豊穣さを再び見つめ直させる機会になるのである。仮想世界はその意味で、現実世界のスムーズなデジタル的モデルなのではなく、現実世界への裂け目を開く有限領域となる。
以上、専門的知見をいささかも持たない身で解説することに居心地の悪さを感じざるを得ないが、とはいえ、『やってくる』の中心的主題である「ダサカッコワルイ・ダンス」にせよ、あるいは第2章で述べられるルポールのドラァグレースにせよ、ある種の「偏差」の存在によって、さらに豊かな外的枠組みが創造され獲得されるということが、おそらくは──人文学的視点からの理解として、だが──郡司理論が提唱する創発性の骨子のひとつなのではないか(たとえばこれを、ドゥルーズ&ガタリをベースに自然や人間のうちにあまねく存在しあらゆる「芸術」の能産的原因となる「過剰さ」に注目したエリザベス・グロスの議論と並べてみるのも面白いかもしれない)。『天然知能』に見られる独特な理論的難解さ、あるいは『やってくる』内の各種事例の一見した荒唐無稽さに気圧されてきた評者であったが、本書は、あるいは理論的にあるいは実践的に、さまざまな角度から郡司理論の到達点と可能性を示してくれているという意味で、多くの人に対して理解の入り口を提供する書物になるだろう。
(大橋完太郎)