国際ワークショップvol.3「近代日本における芸術表現と大衆:日本文化論の視点から」
日時:2022年7月31日(日)18:00-21:00
会場:オンライン
主催:京都市立芸術大学加須屋研究室
運営:加須屋科研メンバー(科研基盤研究(B)「芸術と社会-「表現の自由」と倫理の相剋 歴史修正主義を超えて」(研究代表者:加須屋明子 研究分担者:井出明、加藤有子 、山下晃平)
講演:山下晃平(美術史家/京都市立芸術大学美術学部/美術研究科非常勤講師)
スペシャルゲスト:マリア・ブレヴィンスカ(ザヘンタ国立ギャラリー学芸員)
発言者:井出明(金沢大学)、加須屋明子(京都市立芸術大学)、加藤有子 (名古屋外国語大学)、パヴェウ・パフチャレク(多摩美術大学)※兼通訳
文化芸術活動と社会との関わりについて、いわゆる「表現の自由」や検閲と倫理の相剋に留意し、歴史的経緯をふまえつつ、最新の現代美術の状況に至るまでそれがどのように推移し機能しているのかを検証することを目指し、2020年度より共同研究「芸術と社会-「表現の自由」と倫理の相剋 歴史修正主義を超えて」を実施中である。しかし開始直後より、コロナ禍の状況において共同討論の場をどのように設けることができるのかが再検討課題となり、関連トピックの報告ならびに参加者を交えた討論をオンラインで実施する国際ワークショップシリーズを2021年2月より継続開催してきた。初回の2022年2月には、ゲストにポーランドの哲学者・美学者のレシェク・ソスノフスキ教授(ヤギェロン大学、クラクフ、ポーランド)と、同じくポーランドの美術評論家・キュレーターのアンダ・ロッテベルク氏を招き、理論面と実践面からそれぞれ貴重な報告を受け、研究会メンバー並びにワークショップ参加者と共に充実した討論が実現した。また5月には、研究会メンバーの井出氏より「高度情報化社会における検閲の変容 アウシュビッツと原爆ドームおけるモバイルゲームを手がかりに」というテーマで報告を行い、情報技術の急速な進展に伴い、変化しつつある検閲の実態やその問題点について、ポーランドの政治学者、ピョトル・フォレツキ氏をゲストに招きつつ討論を行った。
そして7月には、研究会メンバーの山下氏より、日本の近現代美術の歴史を考察対象とする報告がなされた。ゲストはザヘンタ国立ギャラリー(ワルシャワ)学芸員のマリア・ブレヴィンスカ氏である。近年、日本でも芸術表現と検閲に関わる問題がしばしば発生し、その都度大きな問題となっている。その際、個々の作品形態やコンセプトについて、対応する社会状況との関係から考察され議論されることが多いのに対し、山下氏の報告は、明治時代から80年代まで、すなわち日本において美術という制度が輸入され形成されてゆく時代を広く視野に入れつつ、洋画と裸体画論争を始めとする複数の事例を取り上げながら、芸術表現に関する表現の自由や検閲の問題について日本文化論を手がかりに考察する点で特徴的であった。特に、「大衆」もしくは「世間」というキーワードが提出された。芸術表現を一つの「様式」へと取り込む日本文化の性質、そして西洋に起因する「美術(芸術)」の制度性と大衆との関係性を捉え、その上で、近代的規範である「展示」からの逸脱という視点から、日本における前衛的表現の成立について考察するものであった。歴史学者の阿部謹也『「世間」とは何か』(1995年)、社会学者の源了圓、哲学者の鶴見俊輔『限界芸術論』(1967年)、思想史家の丸山真男、美術評論家の宮川淳、あるいは評論家の加藤周一の日本文化論などが参照された。
加藤や源了圓。そして丸山真男の論理からは、「表現の自由」に対する根本的な問題として、日本の文化的な構造、すなわち文化受容における二層構造的性質に向き合う必要があることがわかる。また、阿部は「世間」を「万葉以来の言葉」とする一方、明治期に「西欧の学問や技術を輸入しようとした政府や開明的な人々は、世間という言葉を捨てて社会という言葉をつくった」とする。しかし「それは西欧の形式の根底にある哲学や世界観をもたず、形のうえだけの模倣であったから容易に輸入できたが、その形式は一般の人々の意識から程遠いものであ」った、と指摘している。こうした論考を踏まえつつ、山下氏は「芸術表現と検閲や規制との根本的な要点は、「展示」という磁場にあるだろう。日本において「展示」そして「展覧会」は、単に作品を公開する場ではない。視覚優位、そして総覧と比較という西洋由来でありかつ明治期に日本人が受容した極めて新しい制度的な権力機構である」と論じ、また日本人には「同時に軽やかに「鑑賞者」へと変貌しようともするアンビバレントな性質が備わっている」とも述べた。
これに対し、ブレビンスカ氏は、日本が欧米並みに近代化したとはいえ、日本人の間では「世間」という、個人が忠誠を誓う最も身近で重要な人間関係の輪が支配的であり、「世間」は権威でもあり、重要なのはコミュニティの「世間」であり、コミュニティには保守的傾向や態度があることに気づいた、とコメントを述べ、また山下氏が示した最初の事例、すなわち黒田清輝の《朝妝》(ちょうしょう)(1893年)が、1895年に京都で開催された内国勧業博覧会に出品された等身大の裸婦像が物議をかもしたという例は、日本の近代美術の歴史において重要な位置を占めており、社会的、文化的、芸術的な慣習の衝突の決定的な瞬間を表すと評した。一方で、本作に対する反応は、世界各地で裸婦像が紹介された時のものと類似しているとも指摘する(ポーランドでは、ヴワディスワフ・ポトコヴィンスキの《狂乱》が1894年にザヘンタ国立ギャラリーで展示され、賛否両論のスキャンダルが巻き起こった)。その上で、ブレビンスカ氏は、日本における芸術の二面性が分裂や対立を引き起こしているのかどうか、日本社会の性質によって、検閲行為、芸術への攻撃、嫌悪、歴史の偽善を説明できるのかを問いかける。検閲が正当化されることは、ほとんどない。社会的性質に関わらず、検閲はいかなる段階においても、政治的、経済的、イデオロギー的要因によって決まる文脈の中で、人間の判断による行為を伴い、権力の座を強化するためのコントロールの必要性からくるもので、芸術家だけでなく、一般の人々にとっても危険であると警鐘を鳴らす。ブレビンスカ氏の指摘を待つまでもなく、日本だけでなく、世界の各国においても、芸術や芸術家に対する検閲や攻撃は、芸術や表現の自由に対する絶対的な危機である。また芸術/文化が検閲の体制に影響される場合、他の多くの芸術活動も政府の資金や企業のスポンサーシップを確保するために自己検閲に依存しがちである。検閲行為は、過激派が他者を黙らせるための暴力行使の助長に繋がることを、私たちは目撃している。
井出、加藤、パフチャレクからもそれぞれ発表内容についてのコメントと応答を重ね、続いて小グループに分かれての話し合いが続いて、問題の共有を行い、日本に限らず世界で指摘される検閲の現状、とりわけ「世間」「大衆」というものが時に検閲の担い手となる構造についてなど意見交換を続けた。議論の流れにおいて、日本近代における西欧からの制度・概念の受容の問題が中心に語られたが、会場からは、日本対西欧という二項対立で考えないほうがいいのではないかという指摘もあった。
尚、本ワークショップの記録動画は以下のサイトで公開中である。
https://www.youtube.com/channel/UCBf_fcPVEIslETmN2hjEPPg
また共同研究終了時に作成予定の報告書にも収録の予定。
2023年2月12日(日)には、国際ワークショップvol.4「ホロコースト写真と表現をめぐる倫理的諸問題──バビ・ヤール、リヴィウ・ポグロム、《正義の人》」を開催予定である。関心のある方は以下のホームページもご参照ください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100077243293257
今後も研究を継続予定であり、広く参加を募りたい。尚、それぞれの回をワークショップと呼んだのは、なるべく広く参加を募り、講演者と受動的聴衆という形ではなく、答えの出にくい困難な問題を共に考えてゆきたいという意図からである。2023年秋には現地とオンライン併用の国際シンポジウムの開催を予定しており、そのための準備でもある。激動の国際情勢の中、事態はひっ迫している。だがそうした時期であればなおさら、共に熟考し、安心して忌憚なく意見を交わせる場の創出や信頼関係を広げることが重要ではないだろうか。