想起されるべき過去──ベルリン、フンボルト・フォーラムの建築と展示
はじめに
2022年、ロックダウン期間を経たベルリンの街を訪れてみると、ベルリン・ブランデンブルク国際空港や新ナショナルギャラリーはじめ多くの施設が長期間にわたる建設と改修を終え、都市が大きく整備されていたことに驚いた。中心部の大通りウンター・デン・リンデンでは、19世紀の建築家カール・フリードリヒ・シンケルの絵画を模したデザインの地下鉄「博物館島駅」の完成によって地上に張り巡らされていた配管が取り払われ、広々とした見通しが姿を表した。
この街路の東端に位置するベルリンのフンボルト・フォーラム*1[図1]も同じく、コロナ禍の2020年にオンライン上で「開館」し、翌年実際に訪問することが可能になった新施設のひとつである。博物館および学術・文化センターの機能をもつこの施設は、後述するように多くの論争を巻き起こしたために、1993年の発案から開館に至るまで約30年もの期間を要した*2。この論争の争点は──フンボルト・フォーラムの特質でもあるが──、主に建築と展示の2点から説明できる。本研究ノートでは2022年に筆者が来館した際の様子を報告しつつ*3、この2つの観点から問題を整理する。
*1 Humboldt Forum公式ウェブサイト: https://www.humboldtforum.org/de/(最終アクセス日: 2023/1/10以下全て同じ)
*2 フンボルト・フォーラムの地にかつて存在した2つの宮殿やフォーラムの建設経緯に関しては主に以下の文献を参照した。Horst Bredekamp, Peter-Klaus Schuster (Hrsg.), Das Humboldt Forum: Die Wiedergewinnung der Idee, Berlin: Verlag Klaus Wagenbach, 2016; Stiftung Humboldt Forum im Berliner Schloss (Hrsg.), Humboldt Forum: Geschichte des Ortes, München, London, New York: Prestel, 2020; Stiftung Humboldt Forum im Berliner Schloss (Hrsg.), Das Humboldt Forum im Berliner Schloss, München, London, New York: Prestel, 2020; Stiftung Humboldt Forum im Berliner Schloss (Hrsg.), Das rekonstruierte Berliner Schloss: Fassade, Architektur und Skulptur, München: Hirmer Verlag, 2021.
*3 本研究は、公益財団法人鹿島美術財団および公益財団法人窓研究所の助成を受けたものである。
1. フンボルト・フォーラムの建築的由来
この新たな施設は、その建築の直接的な参照源となった18世紀の王宮と、戦後に建設された20世紀の宮殿の跡地に建てられた。この地にまつわる過去の記憶をいかに新施設の建築に反映させるか、あるいはいかに消し去るかは、ベルリンという都市の位置づけにかかわる大きな問題であった。ゆえにまず、建設の経緯を概観したい。
先述の通りフンボルト・フォーラムの建築的な由来は18世紀に遡る。すでに15世紀の時点でこの地にはホーエンツォレルン家の宮殿があったが、プロイセン王国時代に宮廷建築家のアンドレアス・シュリューターが段階的な増改築をおこない、1716年ごろ一応の完成をみたといわれる。19世紀には西側に大きなクーポラも増設されたバロック様式のこのベルリン王宮はプロイセン国王の居城として使用されるほか、王家のコレクションを保管するクンストカンマーの役割も担った。先述の目抜き通りウンター・デン・リンデンを挟み、王宮の北側には旧博物館(1830年開館)、北東側にはベルリン大聖堂が隣接することで、19世紀のこの区域は政治(宮殿)・文化(博物館)・宗教(聖堂)の機能が一堂に会するプロイセン王国の中心地となる。
しかし、王宮は第二次世界大戦により大きな損壊を受け、ドイツ民主共和国により1950年に撤去され、1973年から76年にかけて全く異なる様式の共和国宮殿が新たに建設された。この新たな宮殿に遺されたのは、1918年にカール・リープクネヒトが自由社会主義共和国を宣言した際に用いたかつての王宮のバルコニーだけであった。ただし、再統一によってこの新宮殿もその役目を終え2008年に取り壊しが完了した。
この地にベルリン王宮を再びもたらし、文化施設として利用するという構想は再統一後まもなく生じた。この計画は2000年代初頭にフンボルト・フォーラムの設立委員会発足へと具体的に結実し、2007年には当時の首相アンゲラ・メルケルにより「王宮」建設が公言される。つまり、その翌年に設計競技を勝ち取ったイタリアの建築家フランコ・ステラ自身が強調するように、フンボルト・フォーラムの建築は18世紀にシュリューターが設計したかつての王宮を、まったくゼロから「再構成(Rekonstruktion)」したものである*4。館内機能を補うため建築の形状に変更は加えられたものの、ファサードのバロック彫刻やクーポラはさまざまな史料から実証的な手続きを経て再制作されており、一見してわかる大きな変化といえば、東側からみたファサードだけがステラ風の現代的な様相を呈していることくらいである[図2]。
*4 フランコ・ステラによる王宮の再構成についてのエッセイは以下を参照。Franco Stella mit Peter Westermann, Die rekonstruierten Fassaden des Berliner Schloss: Bedeutung und Konstruktion, in: Stiftung Humboldt Forum im Berliner Schloss (Hrsg.) 2021, S. 119-131.
2. 建築によって見過ごされる過去
こうした前提を踏まえずみてみると、フンボルト・フォーラムは何らかの遺構を大規模に修復してできた「再建(Wiederaufbau)」による建物だと感じる人は少なくないだろう。19世紀に王立病院として用いられていた建築をオルタナティヴ・スペースとして再利用するクロイツベルク・ベタニエン*5など、大規模な改修を加えた上で過去の建築を文化施設などに転用する例はベルリンに限らず広くみられる。けれどもアライダ・アスマンはこういった「再建」と「再構成」とでは、史料の利用法や目的など、完成に至るまでの段階が大きく異なるという*6。そのうえでアスマンが指摘するのは、ベルリンはフンボルト・フォーラムの再構成によって象徴的な中心としての過去を取り戻そうとしている点、そしてその反面、この再構成は共和国宮殿のもっていたドイツ民主共和国-東ベルリン時代の過去を排除し、人々からそれらの記憶を奪う可能性がある点であった。このことは、残すべき過去(歴史)と撤去すべき過去(歴史)を現代の手によって選択する「歴史化」の作業であると加える。
*5 Kunstraum Kreuzberg/Bethanien 公式ウェブサイト: https://www.kunstraumkreuzberg.de/
*6 アライダ・アスマン『記憶のなかの歴史 個人的経験から公的演出へ』磯崎康太郎訳、松籟社、2011年(原著2007年)、171-209頁。
現在のウンター・デン・リンデンを実際に見渡して感じられるのは、フンボルト・フォーラムがその建築だけでなく、それを取り囲む景観全体によってプロイセン時代の過去を取り戻そうとしているようにみえるということである。というのも、フンボルト・フォーラムを含むウンター・デン・リンデン一帯の再開発は、19世紀の風景画が示す眺望を再現するかのようだからだ[図3]。ベルリンの都市風景や著名な建築を描いた建築画家(Architekturmaler)と呼ばれる画家たちの風景には、旧博物館とベルリン王宮、大聖堂などを一望するパノラマ的視点が頻繁に用いられ、それらは輸出用磁器の絵付けなどにも用いられた。
そもそもこのベルリン中心部の都市開発は建築家シンケルを中心として、フォーラムがその名に負うフンボルト兄弟らとともにプロイセンが着手した19世紀初頭に由来する。シンケルはドイツで初めて建設された博物館建築である旧博物館や、現在は慰霊のモニュメントとして用いられているノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)、建築アカデミー校舎などの新たな建築物を、周囲の景観も含め自ら設計した。つまり、この風景画が織りなす眺望は単なる絵画の題材ではなく、プロイセン-ベルリンの近代的発展を象徴する風景であった。加えて、同時代のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1841年に唱えた、新たな博物館と学術施設の集合地帯を旧博物館周辺に建設することを試みる「芸術と学術の避難場所(Freistätte für Kunst und Wissenschaft)」構想は、旧博物館が属する現在の博物館島区域の開発へとつながったが、この構想もまた、学術的機能を有するフンボルト・フォーラムによって理念上の完成をみることとなる*7。こうしてフンボルト・フォーラムの「再構成」は、景観としても理念としても19世紀の都市空間の再現に欠くことのできない最後の1ピースとして寄与するのである。
*7 2015-18年にかけてフンボルト・フォーラムの監督(Gründungsintendent)を務めた美術史家ホルスト・ブレーデカンプは、ベルリンにおける17世紀以来のイタリアおよび古代ギリシャ・ローマへの憧憬を、イタリア人建築家の設計によるフンボルト・フォーラムへと接続させる建築史を著した。Horst Bredekamp, Berlin am Mittelmeer: Kleine Architekturgeschichte der Sehnsucht nach dem Süden, Berlin: Verlag Klaus Wagenbach, 2018. フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の「避難場所」構想もまた、「シュプレー川沿いのアテネ」をモットーとする点においてこの系譜に組み入れられる。
3. 展示によって再発見される過去
(1)近現代のベルリンに関する展示
かつてのファサードの「再構成」により、第二次世界大戦以来失われたままであったベルリン王宮の眺望が取り戻された。しかし、カール・リープクネヒト通りに面する東側ファサードだけは史料の少なさも原因してか、かつての共和国宮殿をさらに抽象化したかのような現代的な様式が採用されたものの、東ベルリン時代の歴史は基本的に建築からはうかがい知ることはできない。アスマンの指摘する失われた過去に関する記憶は、館内の常設展示「ベルリン・グローバル*8」において補われる。
*8 Berlin Global: https://www.humboldtforum.org/de/programm/dauerangebot/ausstellung/berlin-global-14140/ なお、後述の民族学博物館と東アジア博物館を運営するのが連邦政府機関のプロイセン文化財団(Stiftung Preußischer Kulturbesitz)であるのに対し、「ベルリン・グローバル」はベルリン文化計画(Kulturprojekte Berlin)およびベルリン市博物館(Stadtmuseum Berlin)という、異なる運営主体によって企画される。
主に20世紀以降のベルリンの都市史と文化史に焦点を当てたこの展示は、来場者のインタラクティヴな参加を要求する。来場者は腕時計型のセンサーを身につけ、各所に設けられたさまざまな選択肢のうち、自らの指向に合ったものを選びながら会場をめぐる[図4]。選択された意見はセンサーに記録され、集計される。東西ベルリンに分断された時代の歴史展示ではとりわけ東ベルリンに焦点が当てられ、政治運動への参加姿勢をゆるやかに尋ねられた。
LGBTQや移民、宗教、経済格差など、ジェンダーフリーと多民族を掲げる都市ベルリンが抱えるあらゆる問題についても資料を示しながら紹介がなされる。特徴的なのは、これらのテーマが社会全体、世界全体に適応可能な普遍的問題として扱われるのではなく、名もなきベルリン市民の個人的エピソードや持ち物からなる資料にもとづいて説明される点である。終盤ではフンボルト・フォーラム建設をめぐる市民の声も紹介され、さらに展示の最終部では、上述のセンサーが質問の回答を集計し、来場者の思想的傾向をレポートしてくれる(ただしセンサーの感度はかなり曖昧なため、この結果を統計学的資料などとして活用するのは難しいだろう)。ベルリン市民のみならず、来場者の小さな判断までをも拾い上げ、記録する行為は、プロイセン国王の権威を示す王宮の姿をしたフンボルト・フォーラムの建築が表現しえなかったものの存在を補っているかのようである。
(2)非西洋地域に関する展示
元来ベルリンの民族学博物館と東アジア博物館は、2017年までベルリンの中心部からやや離れたダーレム地区にその建物を有していた。エジプト・コレクションなどをもつ新博物館や、イスラーム・コレクションなどをもつペルガモン博物館が属する博物館島の近隣にこの機能が移転されたことで、プロイセン文化財団の有する非西洋地域関連のコレクションは市内中心部に集約されることとなり、先述の「避難場所」構想はさらに実現に近づいたといえる。
しかし、19世紀の君主によるヴンダーカンマー的かつ帝国主義的な構想の達成は、21世紀においてはたして喜ばしいことなのだろうか。かつての強国が略奪によって得た文化財の返還を求められる動向は近年あらゆる国家間で生じており*9、ベルリンにおいてもこの対話は不可避である。すでにフンボルト・フォーラムが定礎された2013年にも、こうした旧植民地国由来のコレクションを展示することへの抗議運動「No Humboldt 21!」が起きたほか*10、公開討論や研究書、副読本の出版によって今日に至るまでなお議論は続けられる*11。
*9 例えば、イギリスのエルギン・マーブル返還に関する動向(the Guardian): https://www.theguardian.com/artanddesign/parthenon-marbles、
ドイツのネフェルティティ像返還に関する議論(DER SPIEGEL): https://www.spiegel.de/thema/nofretete/ など。
*10 No Humboldt 21!: https://www.no-humboldt21.de/
*11 例えば以下を参照。Das Humboldt Forum und die Ethnologie: Ein Gespräch zwischen Karl-Heinz Kohl, Fritz Kramer, Johann Michael Möller, Gereon Sievernich, Gisela Völker, Frankfurt am Main: Kula Verlag, 2019; Staatliche Museen zu Berlin (Hrsg.): macht||beziehungen: Ein Begleitheft zur postkolonialen Provenienzforschung in den Dauerausstellungen des Ethnologischen Museums und des Museums für Asiatische Kunst im Humboldt Forum, Berlin: Staatliche Museen zu Berlin, Stiftung Preußischer Kulturbesitz, 2021.
現状続けられるさまざまな地域の展示では、まず鑑賞者が自身の立場を自覚したうえで鑑賞に臨むことが促される。例えば民族学博物館ではアフリカ・オセアニア展示室への導入部において、社会学者ロビン・ディアンジェロが米国社会での白人による人種差別について著した『ホワイト・フラジリティ』からの引用*12が大きく示される[図5]。
*12 邦訳は以下を参照したが、掲示物の引用箇所にあわせて一部省略した。ロビン・ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』貴堂嘉之監訳、上田勢子訳、明石書店、2021年(原著2018年)、20頁。
ディアンジェロの引用が掲げられた壁面の内側では、20世紀のアフリカ、オセアニアの人々や、コレクションの収集に携わったドイツの関係者らの生い立ちや暮らしに関する、やはり個々人のエピソードが夥しい量のキャプションと写真とともに伝えられる。コレクションの獲得経緯や内容は多岐にわたるが、民族学博物館はとりわけナミビアやカメルーンなど旧植民地国との関係性に意識的で、収蔵品の来歴に関する調査研究は現在もなお活発に進められているほか、現地の人々との対話を記録した映像が展示室の大画面に上映されていた*13。
*13 一方で東アジア博物館の、利害関係が比較的希薄な国々に関する展示においてはややオリエンタリズムに偏った展示が見受けられるなど、各館の方針は必ずしも一貫していない。
おわりに
開館までに多くの議論を要したフンボルト・フォーラムは、失われた歴史の奪還をめざし、19世紀的景観を新たに「再構成」した。ここで掬い上げられなかった東独時代の歴史や旧植民地との関係など数々の問題は、建築、すなわちフンボルト・フォーラムのハード面からは一切読み取ることができない。そればかりか、あえて新たに作り出された王宮は、帝国主義時代の権威性すら想起させかねないものである。これに対する疑問の多くは、館内の展示──つまりソフト面──で補足され、来場者は常にその開かれた問いにさらされる。確かに、建築と比べ展示は頻繁なアップデートが可能であり、開かれた問いは館と来館者のフラットでインタラクティヴな関係性を促すという利点があるだろう。しかし、それは一方で、館自体が主体的に答えを提示しようとする試みそのものから逃れ、また、複雑な問題群そのものを建築に反映し恒久的なモニュメントとすることを避けてしまっただけのことではないか──とはいえ当然ながら、「再構成」された王宮は決して王宮そのものではなく、これもひとつの選択の結果である。さまざまな過去の選択をみずから回顧・検証する場として、都市とともに絶えず可変的であり続けるならば、フンボルト・フォーラムは有意義な「避難場所」となりうるのではないだろうか。